紅包(ほんぱお)
使用人の包は買い物の途中に坂道で赤い封筒を拾った。
帰り道同じ場所で稀に見る美女と遭遇する。
美女の妖艶な姿に舞い上がった包は、誘われるまま彼女の邸について行った・・・
紅包
「包、晩飯はまだか?」
厨房に入ってきた王が包をつかまえて訊いた。
「王先生、さっき昼飯食ったばかりだよ」
洗い物を済ませ一服していた包が、呆れたように王を見た。
「年寄りは食う事だけが楽しみなんじゃよ」
「全く、昼間遊んでばかりいるから腹が減るね。李先生を手伝って少しは弟子の指導をしたらどうね?」
「馬鹿者、儂が道場に立てば昔の弟子が腰を抜かすではないか。そうなれば弟子が減って子龍が生活に困るじゃろう。第一下手くそな奴らに拳法を教えるのは儂がかったるいわ」
「困った先生ね、だったら友達でも作って外に遊びにいったらどうあるね」
「今更友達など出来る気がせんわい。平助は日本だし、ああ、陳が生きておったらなぁ・・・」
「そういえば陳老師、妖怪になって帰ってこなかったね」
「うむ、この世に未練は無いと言うとったからな」
「あれから半年、今頃あの世で何してるんだろうね?」
「あいつの事じゃから閻魔や鍾馗と酒でも呑んで酔っ払っておろう」
「陳老師、帰って来てくれないかねぇ、このままじゃ王先生の食費で道場潰れちゃうよ」
「阿保抜かせ、儂一人の食い扶持も賄えんようじゃ、この道場も終わりじゃわい」
「ああもう、ああ言えばこう言うね、王先生には敵わないあるよ。私町まで買い物に行ってくるから、お留守番頼むある」
包は買い物籠を持って裏口を出て行きかけたが、ふと気づいたように振り返った。
「そういえば・・・最近高雄の町に妖怪が出没していると言う噂ね。王先生何か知らないか?」
「儂が知るわけがなかろう」
「聞くだけ無駄だったね・・・じゃあ、晩飯は六時だから、それまで我慢するあるよ」
「こら包、儂を殺す気か?」
「王先生、もう死んでるあるね。餓死する幽霊はいないよ」
包はもう王の相手をする事も無く、裏口に消えて行った。
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「まったく王先生ときたら、食い意地の張った妖怪なんだから・・・」ブツブツ言いながら道場の門を出た。
「でも、いつも料理を美味しそうに食べてくれるのは嬉しいね・・・そうだ、今日は新堀江商圏(アーケードのある商店街)の特売日ね、王先生の好きなオニテナガエビでも買って帰ろう」
包は、一人ごちると歩き始めた。
緩い坂道を降って行くと、坂の真ん中あたりに赤い物が落ちているのが見えた。
「なんだろ、あれ?」
不審に思って駆け寄った。
落ちていたのは真っ赤な封筒だった。手に取ってみるときちんと封がしてある。
香を焚きしめたような良い香りがした。
「誰が落としたんだろう?」包は封筒を開けてみようかと思ったが思いとどまった。
「警察に届けるにしても唯の手紙だし・・・そうだ、帰ったら王先生に相談してみよう」
そう決めると、そのまま赤い封筒を買い物籠に放り込んでまた歩き出した。
その様子を電柱の陰から盗み見ている者がいた事に、包はまったく気づかなかった。
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買い物を終えて新堀江商圏を出た頃には黄昏が迫り始めていた。
「すっかり遅くなってしまったよ、あれこれ安かったもんだから目移りしちゃってなかなか決められなかったね。王先生お腹すかして待ってるあるよ、早く帰ってオニテナガエビの料理作ってあげなきゃ、また文句言われちゃうね」
包は、独り言を呟きながら足を早めた。
重い荷物を抱えて道場に続く坂道を登っていると、街灯の明かりに照らされた坂の真ん中辺りに人が立っているのが見えた。
「誰だろう、女の人みたいだけど・・・」
包が近付くと女は何かを必死で探しているように見える。
「どうしたね、何か探し物あるか?」包は親切心で声を掛けた。
下を向いて探し物をしていた女は、ゆっくりと顔を上げた。その顔を見て包は内心驚いた。女はこの辺りでは滅多にお目にかかれない程の美形であったのだ。服も高そうなものを身につけている。良いところのお嬢さんに違いない。
「大事なものを無くしてしまって・・・」女は儚げな声で包に言った。
「大事なものって・・・なに?」
「赤い封筒です、とても大切な招待状が入っていたのです」女は泣きそうな顔をした。
「赤い封筒・・・?」
包は首を傾げた、どこかで見た覚えがある。
「あっ!」
包は買い物籠の中を引っ掻き回した。買い物に夢中になって拾った封筒の事を失念していたのである。
「あったあった、これと違うあるか?」
包が赤い封筒を差し出すと、女の顔がパッと明るくなった。
「そうです、この封筒です!」
「買い物に行く時、ここに落ちてたね」包は封筒の落ちていた辺りを指差した。
「あなたが拾ってくれたのですね?」女が念を押すように訊ねた。
「そう、後で落とし主を探そうと思ってた・・・」
「嬉しい!」
いきなり女が抱きついてきたので包はよろけてしまった。
「ありがとう、あなたは命の恩人です・・・」耳元で女が囁いた。
「い、いやぁ・・・そんな」女の躰は赤い封筒と同じ匂いがした。包は慌てたが、だらしなく目尻が下がっている。
女は躰を離して少し恥ずかしそうなそぶりを見せる。
「御免なさい、私ったらはしたない真似を・・・」
「そ、そんな事は無いよ・・・だけど、本当に大切なものだったあるね?」
「はい、とっても大切なもの・・・」女は意味ありげに語尾を濁した。
「よかったある。じゃ、じゃあ、私はこれで・・・」
包が女に御辞儀をして坂道を登りかけると、女が追いかけて来て包の手を取った。
「このままお返ししては私の気が済みません、どうぞ私の家までおいで下さい。ささやかながらお礼をしたいと思います」
「でも、私はこれから晩御飯を作らないといけないある」
すると女は拗ねた目をして訴えてきた。
「ご飯など、一食抜いたくらいでは誰も死にはしませんわ・・・それとも私に恥をかかせるおつもり?」
包は女の積極性に狼狽えながらも、女の言う事ももっともだと思った。李先生は可哀想だが、そもそも王先生は妖怪だ。食事を摂る必要など本来は無い。それに、女性に恥をかかせるのも憚られる。何よりもこんな美形の誘いを断るなんて、男としての甲斐性が無さ過ぎる。
「分かりました、行きましょう!」力強く包は女に告げた。
「まぁ嬉しい・・・私、梅鈴と言います」
「メイリンさんね・・・私、包です」
「包さん、では参りましょうか」
メイリンは包の手を引いて歩き出した。
包は憑き物に憑かれたようにメイリンに引かれて着いて行った。
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「包の奴、やけに遅いじゃないか・・・」食堂の椅子に座って王が苛立たしげに子龍に訊いた。「まさか酒場で油を売っているのではあるまいな?」
「まさか、王先生じゃあるまいし。それに包は酒には滅法弱いのです、ここのところ滅多に呑みません」
「何じゃ、面白味のないやつじゃな」
「そのうち帰って来ますよ、もう少し待ってやったらどうです?」
「う〜む、仕方あるまい・・・そう言えば包が気になる事を行っておったぞ」
「何です?」
「昨今、高雄の街に妖怪が出るとか、子龍知っておるか?」
「ああ、その事だったら今日弟子に聞きました」
「そうか、で、どんな妖怪なのじゃ?」
「何でも死んだ娘の婿探しだとか」
「なに、死んだ娘の婿じゃと?」王が鸚鵡返しに訊いた。
「独身のまま死んだ娘の親族が道に赤い封筒を置いておく、それを拾った人はその娘の婿になると言う話です、『紅包』と言うらしいですよ」
「そう言えば日本にも同じような話があったな・・・確か冥婚伝説と言っておったが」
「そう、ただの伝説ですよ。それに包が相手じゃ死んだ娘は益々浮かばれないじゃないですか」
「うむ、一理ある。ならもう暫く待ってみるか」
「包が帰って来たら、つまみを作って貰って酒でも呑みましょう」
「それは良い考えじゃ・・・包、早よ帰ってこい!」
王の声が虚しく食堂にこだました。
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「ここが私のお家です・・・」
メイリンは包の背丈の倍ほどもある門柱を見上げて言った。
門は西洋風の鉄格子で、その頂には槍のような棘が天空に向かって聳えている。
「さあ、お入りになって」
メイリンが押すと重そうな鉄格子の門が案外軽く開いたので包は驚いた。
「コツがありますのよ」そう言ってメイリンが片目を瞑って見せる。
「は、はあ・・・」
包はメイリンの促すまま門の内側に足を踏み入れた。
「おおっ・・・」
包はそう言ったきり呆けたように立ち止まった。
驚くべき事に、目の前に現れたのは西洋の城の如き建物だった。
「ここがあなたの家・・・?」
「はい、ですが今日はこの家には誰もおりませんのよ」
「誰も?」
「両親は所要で台北に行っておりますの。その間、使用人は里に帰らせました」
「じゃ、じゃあ・・・」
「ですから何の気兼ねも要りませんことよ」
包は自分の頬をつねってみたくなった、夢でも見ているのではないかと疑ったからだ。
しかし、どう見てもこれは現実に違いない。
「でも、一つだけ約束して下さい。決して鏡を覗き込まないように」
「え?」
「どうです、約束していただけますか?」
不審には思ったが、こんな綺麗な人と同じ時間を過ごせるチャンスなんて、自分にはもう二度と訪れる事は無いだろう・・・と思い直し、包は頷いた。
「分かったあるよ、鏡を見なければ良いあるね?」
「はい」
「約束するよ!」
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立派な玄関から中に入った。天井の高い廊下の両側には、高価な調度品が並べられている。
包はキョロキョロしながらメイリンに着いて行く。姿見の鏡の前を目を瞑って通った。メイリンとの約束を破る訳には行かない。
ちょうど廊下の中程にリビングがあり、包は三人掛けのソファーに座らされた。
「コーヒーでよろしいかしら?」
「い、いえお構いなく・・・」
「遠慮なさらないで」メイリンは厨房に入って行った。
暫くするとコーヒーカップを二つ持ってメイリンが戻って来た。
「お砂糖は?」
「へ?」
「角砂糖は幾つ入れましょうか?」
包はコーヒーなど飲んだ事が無かったので適当に返事をした。
「み、み、みっつ・・・」
「まぁ、甘党なのね」
メイリンは角砂糖を三つカップに落とすと、スプーンでかき混ぜて包の前に置いた。
「どうぞ」
「い、いただきます・・・」
包はカップに口を付けて一口飲むとその甘さに顔を顰めた。
「やっぱり甘すぎたみたいね」メイリンが口を押さえて笑いを堪えている。
「お、おいしいあるよ、ちゃんと飲むね」
「そんなに無理なさらなくても良いのよ」
「無理じゃない無理じゃない・・・」包はコーヒーを一気に喉に流し込もうとして、その熱さに咽せてしまった。
「コーヒーはお気に召さなかったみたいね。じゃあ、私お料理を作るから召し上がって行ってくださる?」
包は目を白黒させて咳き込んでいたが、漸く落ち着いて言った。
「りょ、料理なら私作るあるよ、丁度材料も揃っているしね」
「え、それじゃ申し訳ないわ」
「ダイジョブダイジョブ、腕によりをかけて美味いのを作るね」
「そう・・・それじゃあ、お願いしようかしら」
「任せるあるよ、ちょっと厨房借りるね」
包は新堀江商圏で買い込んだ食材を抱えて、厨房へと入って行った。
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「あ〜本当に美味しかったわ!」
メイリンがナプキンで口を拭きながら言った。
「喜んでもらって嬉しいね、こんなんで良かったらまたいつでも作りにきてあげるあるよ」
「本当、嬉しい!」
「じゃあ、私この辺で帰るあるね」
包が席を立とうとすると、メイリンが悲しそうに言った。
「もう帰っちゃうの?」
「黙っていなくなったから、みんな心配してると思うある」
「そんな・・・そうだ、父のお酒があったわ、一杯だけ飲んでって、ね、良いでしょ?」
メイリンにそう言われると何だか断りにくい。
「まぁ、一杯なら良いか・・・」
「やった!ちょっと待っててね、父の書斎からお酒を持って来るから」
メイリンは席を立ってリビングを出て行くと、暫くして高級そうなウイスキーの瓶とグラスを持って戻って来た。
「ねぇ、何だか私たち夫婦みたいだと思わない?」
「ええっ!」突然のメイリンの言葉に包は戸惑った。今まで一度だって言われた事は無い。
「こうして一緒にご飯を食べて、これからお酒を飲んで・・・何だか長年の夢が叶ったみたい」
メイリンが包にしなだれかかる。
「ねぇ、私の部屋に行きましょう、ここじゃ何だか落ち着かないわ」
「だ、だけど・・・」
「ね、良いでしょ?」
包に否やは無かった。
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メイリンの部屋に入り小さな椅子に腰掛けた。
部屋には鏡付きの化粧台があったが、包はそれも見ないようにした。
それぞれのグラスに酒を注ぎ乾杯をする。
思わぬ展開に、包は舞い上がった。
その勢いで注がれた酒を一気に煽った。もともと酒は強い方じゃない、それなのにこのシチュエーションで身体中の血液が沸騰した。
立て続けに三杯の酒を飲んだ。包の許容範囲を完全に超えている。
天井が回り始めて、メイリンが声をかけてくれた所で意識が途切れた・・・
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気がつくと目の前にメイリンの顔があった。
「大丈夫?」
「あ、頭がガンガンするあるよ・・・」何とか上体を起こした。
見るとベッドに寝かされていた。
「い、今、何時あるか?」
「さっき柱時計が八つ鳴ったわ」
「大変ある!すぐに帰らなくちゃ!」
包が慌ててメイリンの部屋を飛び出すと、後ろからメイリンが追いかけて来た。
「今夜、また来てくれる!」
「え?」包が立ち止まって振り返る。
「いつでも料理を作ってくれるって言ったじゃない!」
「そ、そういえば・・・」
メイリンが恨めしげな顔で包を見た。
「わ、分かったあるよ・・・今夜また来るある!」
包は踵を返すと玄関に向かって走った。
「きっとよ・・・」
そう言ったメイリンの顔がゾッとするような笑みを湛えていたのを、包は気付かなかった。




