7 優しく恐ろしい狐
スラッとした長身のフェネラに抱き込まれ、思わず一瞬だけティナはぎゅっと身を固めた。
そんなティナに気が付いたフェネラが慌てて身を話したが、当のティナまるで初夏の森林にいるような爽やかな香りに包まれて、ほっと力が抜けていた。
目の前の男はあのロバートではないのだ。まるで義務のように抱擁され、時折知らない女の香水の匂いに気分が落ち込んでいた頃を思い出す。
その時とは全然違う。
本当の気遣い。思い遣り。
下心が一切ない、純粋な労りを向けられて、嫌な訳がない。
紙に急いで書く。
『お気遣いいただきありがとうございます。受けたご恩は必ずお返しします!』
頭を勢い良く下げて、そう書かれた紙をフェネラに両手に持って渡す。
頭を下げているせいで見えなかったが、フェネラは少しすると、「そうか」と一言だけ呟いてティナに渡された紙を受け取ってから部屋から出ていった。
しばらくして焦った様子のマリーがばんっと扉を開けて入ってきて、息を切らして謝ってきた。
「ごめんね!遅くなっちゃった!あの馬鹿犬ったら、ホントにもう!うるさいんだから!」
マリーはどうやらジェンと喧嘩してきたらしい。
乱れた髪を慌てて手櫛で直すマリーにティナはふるふると首を振って大丈夫だと言った。
◆
執務室に戻ったフェネラは書類を捌きながら、先ほどのティナの様子に思いを馳せていた。
18歳だと言われても信じられないほど小さく細い体だった。どれほど過酷な状況に置かれていたのか、よく分かる。
密偵がアエベラ刺繍店やロバート・アエベラを調査した事でティナの存在を知った。
母親を早くに亡くし、10歳の頃に父親を馬車の事故で失った。貧しい男爵家でかつティナはまだ幼い子供だった。
世の中にどれほど底意地の悪い悪人が存在するのか知るにはまだ小さかった。
だからこそ騙されてしまったのだ。あんなクソ野郎どもに。
急ぎの調査で詳しくは調べられていないが、それでも8年前のティナの父親、ロクター男爵の馬車事故も本当に事故だったのかも怪しい。
これまで王都で行われてきた全ての会合等を記録して保管している王立図書館にも、8年前ロクター男爵が参加するはずだった会合の記録は記されていなかった。
フェネラは密偵に引き続き調査するよう命じながらも、あどけない子供だった頃にろくでもない輩に騙されてしまったティナの事を思うと、可哀想でならなかった。
誰も幼い彼女に手を差し伸べなかったのだ。
どれほど悲しかっただろうか。
どれほど辛かっただろうか。
どれほど恐ろしかっただろうか。
彼女の胸の内を想像しただけでも腸が煮えくり返る。
休みなく動かしていた羽ペンが手の中でポキッと真っ二つに折れた。
「……」
「取り替えますね」
側に控えていた執事のライムがさっと新品の羽ペンと取り替えた。
新しい羽ペンを受け取ったフェネラだったが、ペンを折ってしまって仕事を続ける気が失せてしまっていた。どうせ急ぎの仕事は終わらせていている。
「ライム」
「はい」
「ティナの様子はどうだ?」
先ほど別れたばかりだと言うのに、もう気になって仕方がない様子の主人にライムは微笑ましく思った。
苛立ちを隠さない様子で大きな厚いもふもふの耳をピルルッと時折震わせているフェネラに、穏やかに伝える。
「ティナ様は大変、お部屋をお気に召されたようですよ。早速ベッドの柔らかさに感動しているようでして」
「………そうか」
マリーから嬉しそうに伝えられた情報をライムが話すと、フェネラはようやく落ち着いた。
ぱったんぱったんと世話しなくイライラと動かしていた5本の尾っぽも静かになった。
ライムの主人は狐面を着けている。表情が見えないためか、多くの人は感情のない狐だと評価する。けれど、ライムは……いや、フェネラという狐獣人と少しでも深く関わった事のある人なら彼がいかに感情豊かで優しい方なのか分かるだろう。
あの哀れな人間の女の子ティナも、ここで過ごす内にフェネラの優しさに触れて元気になって欲しい、とライムは願ってやまなかった。
そして同時に思う。
この5本の尾を持った特別な狐がいかに恐ろしいのかを。
これからロバート・アエベラの身に起こる惨事に哀悼の意を示してライムは目を伏せたのだった。