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キツネの商人と刺繍をする娘  作者: 東雲 春
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5 これからの話

 ―――――――お前の刺繍の腕を買った。


 その言葉にこくりと喉を鳴らす。

 当たり前だけど、自分には刺繍しかない。それなら、自分を助けたのは刺繍の技術のためだ。

 別に技術目当てだから悲しい、という訳ではない。

 けれど。

 だけど。

 何だか寂しい気がした。


 ティナはすぐに心の中で首を振って寂しさを霧散させる。


(何を馬鹿な事を考えているの、わたし)


 技術目当てだったのは婚約者だったロバートだって同じだったじゃないか。

 いや、同じだなんて失礼だ。

 ロバートは自分を騙した上に舌を引き抜くと言った暴力まであった。

 それに比べてフェネラはどうだろう?

 仮面をしていて何を考えているかが分からないとは言え、自分をあの地獄から連れ出し、こうして自立の手助けをしてくれるという。


 どちらの元で自分の腕を発揮したいか。

 それは考えるまでもない事だった。


「私はこの国に獣人の国の代表としてやって来ている」


 静かに話を聞き続けているティナ。


「知っているかもしれないが、この国はこれまで獣人の国との交流はなかった。そのため、私の商団が瀬踏みとして王家の命により来たのだ。もちろん、私も商人なのでな。瀬踏みとしての役割以外にもこの国で盛んな刺繍作品を取引しようと考えていた」


 しかし、と続けたフェネラが仮面を少し持ち上げて口元にティーカップを近づけてから紅茶で喉を潤した。


「この国で最も有名だと聞いていたアエベラ刺繍店は信用ならなかった。お前も知っているだろう。彼は簡単に嘘をつく」


 彼とはもちろんロバートの事だ。


「商人は時として嘘をつかねばならない事もある。だが、彼の嘘は嫌な嘘だ。人を傷つける。信用ならないと判断した。刺繍の扱い自体を止めればいいのだが、お前の刺繍が世に広まらないのは損だと考えた」


 そこで一呼吸置いたフェネラに自然と目が吸い寄せられる。仮面の奥の琥珀色の瞳が不思議な感じにきらめいた。


「ティナ。お前に自分の刺繍店を立ち上げて貰いたい」


 もしティナが話せたなら。

 きっと彼女は反射的に「無理です!」と叫んでいただろう。

 だが、現実の彼女はただごくりと唾を飲み込んだだけだった。

 それほどその提案はティナにとって衝撃的だった。


 この国では女性が働くのはあまり良しとされていない。働けても男の下で下働きのような仕事ばかり。例外として刺繍は女性でも胸を張れる仕事とされていたが、女性が店を立ち上げる、となるとその存在は皆無だろう。


 ティナのひどく驚いた様子にフェネラが無理もない、とばかりに頷いた。


「この国では私の国と違って女性が店を立ち上げる、なんて事は非常識とされているのだろう。だが、違法ではない。だからティナ、お前がどうしたいかだ。店を立ち上げるなら私がお前の店と専属で契約しよう。もちろん、嫌ならかまわない。その場合もお前の仕事先を見つけてきてやる」


 フェネラがペンと紙を差し出してきた。

 渡されるがままにペンを手に取る。そして固まった。

 この選択で将来が決まる。

 店を立ち上げる。それは果たして簡単な事なのだろうか?帳簿の管理とか知らない。先が見えない。けれどもやってみたい気がする。

 立ち上げないで別の仕事をするのか。その仕事はどんな内容なのだろう?フェネラが探してくれる仕事だ。きっと悪い仕事ではない。


 どちらを選べばいいのか。迷いでペンを握る手に力が入る。


 何も分からない。

 だけど、はっきりと分かることは、どちらも私のために提案されたものであるという事だ。

 こんなうまい話はそう簡単に転がってこない。だいたい18歳の女性と言えば、もう嫁いで家庭を持っていても可笑しくない年齢だ。

 これはチャンスだ。

 目の前の富豪が自分のような哀れなけれど技術のある貧乏人にかけた慈悲。

 そして、あの地獄の屋根裏から連れ出してくれた恩返しのためにも、楽な道は歩めない歩みたくないと思った。


 もう迷わない。


 ティナはペンを握り直して、フェネラの見ている中、しっかりと紙に自分の気持ちを書いて見せた。


『店を立ち上げます。どうかご指導のほどよろしくお願いします』


 仮面越しでも彼が満足そうに微笑んだのが分かった。


「ああ。こちらこそよろしく」


 フェネラが懐から白い無地のハンカチを取り出してティナに渡した。


「さっそくだが、そのハンカチに私のために考えた刺繍を入れてみせてくれ。期間は決めないでおこう。ティナ、お前は少し痩せすぎだ。この屋敷で療養しつつ、暇潰しの代わりにやるのもいいだろう。道具は部屋にすでに用意してある」


 暇潰しとかではないだろう。

 ティナはなんとなく察した。

 きっと自分の刺繍の腕を最終的に確認するため。

 ティナは改めて覚悟を決める。未来の取引相手のためにも、立派な刺繍を仕上げなければ。


「話は終わりだ。部屋に案内させよう。………マリーはまだ来ないのか。ライム、悪いがお前がティナを案内してやれ」

「かしこまりました、旦那様。ティナ様、私に付いてきてください」


 話が終わった。

 フェネラに深々と頭を下げて退席の挨拶をしてから、ライムの後をとことこと付いていく。


「ティナ様。私から一つ良いことを教えてあげましょう」


 応接室がある建物から渡り廊下を渡っていく。本館とは別に別館があるみたいだ。

 傾いてきた日の光が差し込む中、先を歩くライムが話し始めた。


「ティナ様はどうやら、旦那様の機嫌を損ねてしまわないか随分と気にされておられるようですね?………安心してください。あの方は大抵の事では怒ったりしませんよ」


 穏やかに優しい口調で教えてくれた。


「どうしても心配なら、旦那様のたくさんある尻尾を見るといいですよ。緩やかにゆらゆら揺れていたら、機嫌の良い証拠です。獣人の尻尾は正直ですからね」


 茶目っ気たっぷりに話すライムに思わず笑ってしまった。

 ティナの微かな笑い声を兎の長い耳が逃す訳もなく、ライムが歩きながら振りかえって安心したように微笑んだ。


「ようやくティナ様、笑ってくださいましたね!良かったです」


 その言葉にぎゅっと胸が締め付けられる。

 父親が死んでから最後、こんなに情のこもった扱いを受けただろうか?

 鼻の奥がつんっとして泣きそうになる。

 けれど、ぐっと我慢した。


(泣いてはダメよ、わたし。頑張るって決めたじゃないの!)

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