3 わんわん!
目の前の大量のお金にロバートは息を飲んだ。
ティナの刺繍の腕で儲けているとは言え、ティナは1人。仕事量は限られている。
だからこれ程の大金はあまり見たことがなかった。
「そのお金で屋根裏にいる娘を貰い受けたい」
屋根裏の娘。
そう言われて、ピシッと背中が凍る。いつだ。いつ、この狐面の商団長にティナの存在を知られたのだ。
「そんな娘は……」
「いることは知っている。このお金が欲しくはないのか?これだけあれば、店を増やせるだろう」
こくりと喉がなる。
どうして目の前の獣人は自分の望みをこうも的確に当てるのだ。それにこんな大金なら店を増やす以外にもシルヴィアが欲しがっていた大粒のサファイアの指輪を買ってやれる。
アエベラ刺繍店もずいぶん有名になった。ティナがいなくなったところで、そうそうに潰れたりしないだろう。
店が大きくなる足掛かりになった上に、この獣人どもに売って大金が手に入る。
なんていい女なんだ。本当に役に立つ。
ロバートはフェネラの冷めた目線にも気づかずに歪んだ笑みを浮かべた。
「いいでしょう。ティナは差し上げますよ」
ロバートは自分の幸運を喜んだ。
◆
翌日まで待て、と言われていたが、本当に次の日にフェネラたちが迎えにやって来た。
本当にこの屋根裏から出られるなんて。外に出られるなんて。信じられなくて、頭がぼうっとしてロバートの嫌な視線も気にならなかった。
だって、今日からもう彼には会うことはないだろうから。
昼間に獣人のジェンとフェネラに会うのは初めてたけど、親切で優しい人たちだとすぐに分かった。
赤茶の尻尾がゆらゆらご機嫌そうに揺れる。
「やっぱりお昼時はいいっスねぇ~美味しい匂いがぷんぷんしてきます!」
馬車を停めているところまで三人で歩く。
やっぱり獣人が珍しいのか道行く人たちから遠巻きにじろじろと見られた。
「やっぱりボスの尻尾、五本もあるから見られまくってますよ!」
のほほんとした調子でジェンが言った。
多分違うと数年間ずっと外に出なかったティナでも分かったが、フェネラはゆらりと尻尾を揺らして、「そうか?」と言った。
「確かに獣人の国でも珍しかったが、尻尾は尻尾だ。毛の生えた肉の塊だ」
フェネラのその言葉にジェンがげんなりと肉の塊な尻尾を落とした。
「なんて事を言うんっスか!尻尾は獣人のロマンっスよ!毎日毛並みをチェックして、愛しい相手に艶やかな毛並みで勝負するんっスよ!それを肉の塊だなんて……なんてロマンのないボスなんだろう!」
フェネラ、ティナ、ジェンの順番で歩いているもんだから、ティナを挟んで言い合いになっていた。
言い合い、というよりかはジェンがフェネラにじゃれている、と言った感じが正確かもしれない。
「ロマンは必要ないだろう」
「何てこった!ティナさん、聞きましたか!?ボスがロマンを必要ないって!!商人に必要なのは、1に信用、2にお金。3,4でロマンっスよ!これ、常識っス!」
「ほう……。かれこれ10年商人をしてきたが、ついぞ聞いたことがないな」
「今、僕が考えましたからね!………ふぎゃあ!!!」
唐突のジェンの悲鳴に、フェネラとティナは後ろを振り向いた。
見たら、五歳ぐらいの男の子がジェンの赤茶の尻尾にしがみついていた。
「な、ななななな!ど、どちらさんっスか!!」
ジェンが体を捻ったり、尻尾を軽く動かしても男の子はぴったりとくっついて離れない。
回りを歩いていた人たちが息を飲んだ。
獣人に対してまだ理解があるとは言えない状況で、人間の幼子が獣人に接触したのだ。もしかしたら食い殺されるかもしれない。鋭い爪で引き裂かれるかもしれない。
そんな恐怖と偏見があった。
なのに、そんな雰囲気を感じ取っていない男の子はジェンの尻尾を抱き締めたまま、明るい声で言った。
「わんわんだぁ!!わんわん!」
回りの人たちは覚悟した。
この男の子は殺される、と。
だけど、ジェンは怒るどころか困ったように気の抜けた口調でおろおろしていた。
「わんわん?あれ?わんわんって僕のこと!?う~ん、困ったぁ~ボスぅ、見てないで助けてくださいよぉ!」
「お前の尻尾だろう」
「そうスッけど!」
「わんわん!わんわん!!」
「はいはい、わんわん!っスね、わんわん!」
ジェンがぼよんぼよんとその場で軽くジャンプした。男の子も一緒にぼよんぼよんと浮く。
「う゛~離れないっス……」
困った困ったと唸るジェン。
と、若い女性の悲鳴があがった。
「カイ!!ああっ!何て事!!」
駆け寄ってきた女性がカイと呼んだ男の子をジェンの尻尾から引き離そうとした。
「いやぁあ~わんわん!!」
「わんわんじゃないのよ!」
青ざめた表情で必死になっている女性。
「ごめんなさい、ごめんなさい!お願いですから、殺さないで!!」
「えっ!?殺しませんよ!こんなことで殺したりしません!子供の事じゃないっスか!お母さんも大変っスね」
泣きわめく息子に手を焼くお母さん。
どこもキレて怒る所はない。
穏やかに話すジェンに拍子抜けしたお母さんが手を離した隙に男の子はさらに強く尻尾を抱き込む。
「ぼくのわ゛んわ゛ん~あ゛っ~!!!!」
涙と鼻水でジェンの尻尾はぐちゃぐちゃだった。さらに子供の容赦ない力で握りこまれるもんだから、さすがにジェンは声をあげた。
「うわっ!痛い!痛いっス!!」
「あっ!カイ!離しなさいったら!ワンちゃんが痛がってるでしょ!!」
「ワンちゃん!?そりゃ僕は犬っスけど、犬獣人っスよ!」
「あ……ごめんなさい。………犬獣人さんも困ってるでしょ!」
「いやあ゛っ……!!!!わんわん!!」
現場は混乱を極めていた。
どうしようもなくて固まるジェンに、尻尾にしがみついて泣きわめく男の子。その男の子の体を掴んで引き離そうとするお母さん。そしてそれを眺める回りの人たちとフェネラ。
「本当にごめんなさい!ついこの間、あなたと同じ色の飼い犬が死んでしまって……。あなたを見て、帰ってきたのだと思ってしまったみたいで」
「そうなんっスね……。カイくん……僕はそのワンちゃんじゃないんですよ……」
「う゛~」
「僕もそうっスけど、尻尾をぎゅっと握られると本当に痛いっスよ」
ジェンが穏やかな口調で男の子に話しかけた。いやいやをしていた男の子も涙目でジェンの言葉を聞く。
「いたいの……?」
「痛いです」
「………ごめんなさい」
ようやく自分の行動が痛がらせている事に気づいた男の子がそっと尻尾を離した。
状況をじっと固唾を飲んで見守っていた人たちの間にほっとした空気が流れる。
「謝れて偉いっス!」
よしよしと男の子の頭を撫でるジェンに女性は頭を下げた。
「本当にごめんなさいね」
「いえいえ!子供っスからね。これからは獣人も多くこの国に来るでしょうし、尻尾は身近な人にしか触らせないものだって知って貰えればそれでいいっス!」
泣き止んだ男の子とそのお母さんにバイバイと別れの挨拶をする。
思っていた惨事が起こらなくて、謎の一体感で状況を見守っていた人たちも胸を撫で下ろしてそれぞれ解散していく。
「わんわん、バイバイ!」
「はいはい、バイバイ」
もう、わんわんと呼ばれるのを諦めたジェンが手を振りかえした。
「あっちのお姉ちゃんと白いわんわんもバイバイ!」
白いわんわん!
余裕そうに事態を見ていたフェネラが固まった。ジェンの肩が震えて、耐えきれなくなったように爆笑した。
「白い!わんわん!」
ゲラゲラ笑うジェンに制裁が待っていた事は言うまでもなかった。