2 狐がやって来た
ウソの匂いがする。
目の前でへらへらと媚びへつらうように話す、ロバートと名乗った男は平気で嘘をついていた。
狐面越しに《五ツ尾商団》の商団長フェネラは冷たい眼差しでロバートを見ていた。五本の白い尻尾が不機嫌そうにゆらゆら揺れて、フェネラが座る椅子の後ろに立っていた護衛の犬獣人が天を仰いだ。
「ですから、刺繍は全てシルヴィアが……」
くだらない。
ウソの匂いが嗅げなくても、シルヴィアと言う女の手を見れば、刺繍なんてしていない事は一目瞭然だった。白魚のような手には傷一つないのだから。
シルヴィアは伯爵令嬢。ロバートは子爵だそうだ。お互い婚約を考えていると言った。嘘だ。これも嘘。
はぁとフェネラはため息をついて手を振った。
ロバートが怪訝そうにその仕草について聞いてきたが、「気にするな」と言って黙らせた。
こいつがずっと嘘をつくから。だから調べなくてはならなくなったではないか。
手を振った瞬間、商団が抱える密偵がさっと行動を始めた。
この国の貴族社会では刺繍が重要視されている。不思議な風習だが、否定するつもりはない。
その刺繍で名を上げているこの店と取引をしようと考えていたが、こうもたくさん嘘をつかれると自分の中でこの店に対する信用が地に落ちた。
ここは一旦帰って密偵からの報告を待とう。
商団長として損をするような行動は控えたい。それにこの店との取引が成功しなくても痛くも痒くもないのだ。急がなくても良い。ロバートは複雑そうな表情を浮かべているが、知ったことではなかった。
◆
夜。
屋根裏にある小さな天窓から雲一つない星空が見えた。
ティナにとって、この狭い屋根裏と小さな天窓が世界の全てだった。夜、寝る前に晴れていたら星を眺めるのが彼女のちょっとした楽しみなのだ。
今日も刺繍をして疲れた目にささやかにきらめく星を見て癒す。死んだ人は星になると言うが、自分の母親と父親はあの星のどれかなのだろうか?
ふと優しかった両親を思い出して涙ぐむ。
何で自分を置いて死んでしまったのだろう。
ティナがくよくよとしているとふと天窓に影が差した。
――――――――えっ!?
慌てて潤んだ両目を袖で乱暴にぬぐう。
見間違いじゃない。
誰がいる。
呆然と見上げている間にも、嵌め殺しの天窓がガタガタ音をたてて開いた。嵌め殺しなのに。
開いた天窓から体格からして男が二人降りてきた。
恐怖で何も考えられない。
ティナは毛布を抱き抱えて壁際まで逃げた。
「この女か?」
片方の男がランプに火を付けて灯りを点した。宵闇に人にはない特徴が浮かび上がった。
1人は犬みたいな尻尾。もう1人は五本も尻尾があった。
「商団長ぉ~本当に勘弁してくださいよぉ~。だいたい長のアンタが直接動いちゃダメでしょう!」
「直接見なければ判断できないだろう」
弱った声を出した犬尻尾の人が、びくびくしたように尻尾を足の間に挟む。
逃げるなら今だろうか?
でも、ドアには鍵がかかっているし、どう考えても逃げられない。
言い合いをしていた二人がようやく何かの結論に行き着いたのか、揃ってティナの方を向いた。
(ひぃっ)
生唾を飲み込む。
犬尻尾の方は尻尾と耳を除けばいたって普通の青年に見える。けれど、五本尻尾の方は見たこともない白い仮面を着けていて何を考えているのか分からない。
「えっと、ティナさん……で合ってるかな?」
犬尻尾の方が膝をついて目線を合わせるようにして声をかけてきた。視線が下がった事で少しだけ恐怖感が和らぐ。どうやら今すぐ自分を殺す訳ではないらしい。
聞かれて少し迷ったが、おずおずと頷いてみせた。
それを見た犬尻尾の方がほっとしたように微笑んだ。
「こんばんは……いや、はじめましてだね。僕はジェン。犬の獣人だよ。で、こっちは僕のボスでフェネラ」
こくこくと頷く。
状況に付いていけてないけれど、他にどうしようもないから聞いてますよ、と頷くしかない。
「……?あれ?もしかして話せないの?」
ずっと悲鳴もあげずに黙っているティナにジェンが確認するように聞いてきた。
確かに話せないので、こくりと頷く。
そっか、とあっさり引いたジェンとは逆に、今まで観察するようにこちらを見ていたフェネラがさっと目の前にやって来た。
突然動き出した上に、両手で顔を挟まれ、体が強ばる。
「えっ!?ちょ!ボス!何してるんっスか!」
ぎょっとしてジェンがフェネラの肩に手をかけるが、お構い無しにフェネラがティナの口を開けさせる。
「ちょおおおおおおおおおっ!?女の子に何して……!!」
「ジェン、煩いぞ。……灯りをよこせ」
まだぶつぶつと言いつつ、ジェンが言われた通りにティナの開いた口元に灯りを近づけた。
「あれ?」
「………報告にはあったが、本当に舌を抜かれていたとは」
「え!?舌!?はあっ!?」
目を真ん丸に見開いたジェンがティナとフェネラの顔を交互に見る。
「全く。人間というのは度し難い。秘密を守らせるために己の婚約者だった者の舌を抜くとは」
「……マジっすか。サイテーっスね、そいつ!!今度会ったら尻尾を引っこ抜いてやりますよ!僕が!」
「人間だぞ」
「尻尾……ないっスね……。う~ん、何を引っこ抜きましょう?って女の子の前で話す事じゃないですね!ボス、帰ってから決めましょう!」
良い笑顔でとんでもない事を話すジェンにフェネラが煩そうに手を振った。
「それより、ティナ。お前はどうしたい?このままここで飼い潰されるか。それとも逃げるか。逃げるなら私がお前1人で生きていけるまで世話をしてやろう。逃げないならかぶりを振れ。逃げたいなら頷け」
さあ、どうしたい?
そう言われても、名前しか知らない相手をどう信用したらいいのだろうか。ここから逃げても、さらに地獄が待っているかもしれない。
ティナの表情からまだ名前しか言っていない事にジェンが気づいた。
「あっ!ボス!僕たち名前しか名乗ってませんよ!」
「…………ティナ。私たちは《五ツ尾商団》だ。獣人の国の商人」
獣人の商人、と聞いて昼間にリンから聞いた話を思い出した。もしかして彼らは昼間にここに来ていた人なのだろうか?
床を指差してあれこれ身ぶり手振りで聞いてみる。
フェネラが、「下に何かあるのか?」となかなか分かってくれない中、ジェンがあっと声をあげた。
「昼間の事を聞いてるんっスね!そうですよ!昼間に来てます!」
そこでようやく少しだけ安心する。
どうして彼らが自分を助けようとしてくれているのかは分からないが、逃げられるなら逃げたい。
ずっとティナは逃げ出したかった。この狭い屋根裏から。
でも逃げてどうなる?
喋れない自分をどこが雇ってくれるだろうか?住む所は?
そう考えると、先が全く見えなくて、自然と逃げる気も失せていた。
けれど、助けてくれる人がいるのなら。
逃げたい。
そうティナは思った。
そして白い仮面越しに見える琥珀色の瞳を見据えてティナは頷いて見せたのだった。