鏡の試練
ルミィは一人、ライブ会場の裏手にある倉庫へと入っていく。鍵はかかっていなかった。中は特に埃っぽい訳でもないが、やはり壁が全面石造りなので少々肌寒い。
「やっぱり。とりあえず入れておくならここくらいだったもの」
そこに、先程の天使が鎖で足を繋がれていた。
「自分から殺されに来たのですか? よい心がけです」
「えぇ……どうしてそうなるのさ」
「魔は神に敵対するもの、存在する事は許されていません。槍を折られ翼も失った私ですが、あなたを滅して差し上げる事はできます、さぁ」
「あのね……状況わかってる?」
「罪を悔い改めたのではないのですか?」
噂で聞いた通りだ、天使とはまるで話にならない。特に下級天使達はどちらかと言うと機械に近く、頭に詰め込まれて産まれた教えをただ盲信するだけで、感情がほとんど見られないのだという。この女性も自分が監禁されている事に対して何も思うところがなく、ただ魔族は悪という事だけをろくに根拠も知らずに考えているようであった。
「さっきはどうしてボクを狙ったの? 天使達は平気で非戦闘員を襲うような外道だって言うんじゃないよね」
「あなたは魔を扇動し世を脅かす司教の類と判断しました、大観衆の前で舞台の上に立っていた事が何よりの証拠」
「魔族がいつでも誰でも悪い事しかしてないとでも思ってるの? ボクはね、アイドルやってるだけだよ!」
「先程は悪行を働いていたのではなかったと言いますか。しかしあなたが穢れた存在である事は変わりません、あなたは淫魔に属していますね。人間達や、あなたの歌を聴きに来る観衆達と行為を重ねているのではありませんか?」
天使は小さな十字架の形をしたネックレスを取り出すと、それをルミィに向け祈りを捧げる。実際には何が起きた訳でもなかったのだが、ルミィの目にはその十字架から激しい熱を持った光線が照射されたように映った。そしてその光は魔族にとってはこの上無く鬱陶しい毒の光だった。
「うっ……うぁああぁぎ、ぎぎ……! な……なかなか強い信仰持ってるみたいだね、本職の天使だしなぁ」
ルミィは、それを敢えて受けた。身体から黒い煙が上がり、焼けつくような痛みと共に酷い脱力感が押し寄せてくる。
「これだけでは殺す事はできませんが、信仰心に応じて力を奪います。今なら苦しまず楽になれるでしょう」
(ど、どうだろう……どうなったかな……)
ルミィは鏡を持って来ていた。自分が悪魔の一種であるならば十字架を向けられる事で術が解けるのではないかという目論見であった。しかし、全身の痛みが過ぎ去った今それを確認するのにもためらいがあった。
「それがあなたの本当の姿ですか。己の色欲を懺悔する気になったらこちらへ……私が裁いて差し上げます」
成功だ。天使曰く自分の本当の姿を晒け出す事はできたらしい、しかしてその姿とはどんなものであるのか……。
「ボクは……そんな事してないよ」
ここでこの目論見を成功させる事で、自分を押し殺してアイドルを続けるという苦しみは味わわずに済む。しかしそれは同時にしっかりとした心の準備をする猶予がないまま最大の不安を乗り越えなければならないという事であった。
「歌の事ばっかり考えてたから人間の襲い方なんてまだ知らない。ファンのみんなだって、あなたが考えるよりずっと紳士的ないい人達なんだもの。確かに頭の中ではいやらしい事だってたまに考えるかも知れない、でもボクが淫魔だからって軽々しくそういう事言い出したりなんてしない!」
ルミィは光に焼けて痙攣する体に鞭を打ち、立ち上がる。ここで自分の姿を確認せずに魔力の回復を待てば、もし自分が見るもおぞましい姿をしていた時それを知らずに生きていく事が出来る。見てしまえば、次のライブの日に否応なしに全てがファン達によって決められる事になる。
ミレアと話した事で、一部のファンが消えるだろう事は構わないと思えていた。しかし一体どれだけの人数が自分の元を去るのか? 数百人……半分……いや、もしかしたらほんの数人しか残らない可能性もある。
「有り得ません。ではあなたはどうやって生きているというのですか」
ルミィは既に、綺麗な皮を被った自分のままアイドルを続ける道は絶対に嫌だと決めていた。だからこの天使の前にやって来た。もし本当の姿が現れなければ綺麗な皮を被った状態に耐えながら公演をこなし、いつかはその皮を脱ぐ方法を見つける気でいた。
「そりゃお店で食べ物は買ってるよ。でもそれまでダメっていうのは人間に肉を食うなって言ってるようなものじゃないの?」
見るか、見ないか。醜いか、あるいは……その三つであった。
ルミィの望みは、多くの人を楽しませる事。最も選びたくない道が、これに当てはまる。だがそれが出来るのは何も自分だけではない、もし観客が誰もいなくなる程ひどい姿だったとしても、彼らはミレアを始めとする別の歌い手で楽しむ事は出来る。やりたい事をやればいいんだというミレアの声が背中を押す。
「ボクは、本当のボクをあの人達に見て貰いたい! 声や見た目が変わったからファンやめたいって言う人も沢山いると思う、それでもボクの頑張りを認めてくれる人達が少しでもいるなら、その人達のために歌っていたいんだ!」
もう、勝手な天使のかける声など全く聞こえない。ルミィは意を決し、手鏡の中の自分を確認した--。




