歌えない
結局ルミィは選べないまま、次の公演の日が来てしまった。
いつも通り蝙蝠に分かれて黒煙に紛れ、喚び出されるのに合わせて元の身体に戻り登場する。普段は何気なくやっていたこの演出も、ミレアに自分の体質を知らされてからは気味が悪くなった。ただの自分と、アイドルであるルミィを切り替える明確な儀式。蝙蝠の姿から戻った時、そこに立っているのは自分ではなく観客一人一人の好みの女でしかないのだ。
「みんな……ボクが好きなの……? それともみんなが好きなのは、この身体……?」
マイクのスイッチも入れず、ルミィは立ち尽くす。
「ルミィ? どうしたんだ?」
いつも一緒に舞台に立つ司会の魔族が、様子のおかしいルミィを心配して近づく。観客達も何が起こっているのか分からず一時停止した舞台を訝しげに見ている。
これ以上迷っていては場が冷めてしまう。自分のために来てくれた沢山の人達の手前逃げ出す訳にもいかないが、ルミィは歌い始める事が出来なかった。背中を冷たいものが流れる。
「う、ううん! 何でもない! 今日も沢山歌っちゃうから!」
舞台に立った以上、勝手にやめるなどあってはならない事だ。そう自分に言い聞かせて引き攣った声を張り上げ、無理やりにでも歌い出そうとした時、数人の魔族が空を指して大声で叫んだ。
ルミィを含める全員が見上げた空は一部が悪趣味な黄金色に染まり、その中から真っ白な法衣を着た一団が降りて来る所であった。
「天使どもだ! 見ろ、天使が攻めてきたぞ!!」
その瞬間会場の空気が緊迫した物に変わり、誰もがライブの事など忘れ去った。戦闘に向かない魔族達は一目散に退去し力のある者は我先にと飛び立って行く。
会場の空はすぐに白と黒の魔力の爆発が各所で繰り返される混沌とした光景となった。
「天使が……? 大丈夫なの?」
思わずルミィは隣に立っている司会の男に聞いていた。魔族の中ではまだまだ若いルミィは街に天使がやってくるのを見た事がなかった。
「何てことはない、どうせ勇み足の下級天使だろう。奴ら数百年に一度はちょっかい出してきやがる、まあ今飛んでった人達にとっては思い切り暴れられる願っても無い機会さ」
その言葉通り、段々とその軍勢は駆逐されていき空は一面の黒に戻っていく。ルミィは安堵したが、墜落する天使に混じって一体の女性天使がこちらへ急降下してくるのが見えると一転パニックになる。
「うわっ、こっちきた!?」
明らかに自分を狙って来ていた。ルミィはほとんど身を護る術を持っていない、殺されてしまうのかと思ったが、視界の端に見慣れた顔が映る。
「二人とも、下がって!」
「伯爵様!」
それを追って空から恐ろしいスピードで下りて来たルミィのプロデューサーは無表情に突き出された槍を掌で受け止めると、燕尾服から影のような大腕を伸ばしその爪で天使の翼を引き裂いた。圧倒的な力の差から、勝負は一瞬であった。
「……殺しなさい」
「吸血鬼は殺生を好みません、眷属にするだけです。あなたのような眩しい下僕はお断りですね」
その一体が捕えられるのを最後に会場は静まり、ルミィはその場に座り込んでしまう。急いで今後どうするのかを決めないと、次のライブではこうはいかないであろう。歌うか、身を引くか、二つに一つであった。
その日、ルミィは会場に最後まで残っていた。動く気力が全く湧かなかったのだ。照明の切られた舞台から空になった観客席をただ眺めていた。
しばらくそうしていると舞台の脇から小さな足音と共に声が投げかけられる。
「大丈夫か」
「ミレアさん……? どうしてここに」
「聴く方も好きだと言っただろう。最近はお前が目立っているおかげでスケジュールも余裕が出て来てな、騒ぎでうやむやになったが……心配した通りだ、あの時躊躇していたな」
ルミィは答えられない。結局無理に歌おうとはしたが、あの状態では長くはもたなかっただろう。二人の間に沈黙が流れる。どのくらいの事か分からないが、ルミィにとっては何時間にも長く感じられた。
すると突然、強い力で首を掴み上げられた。
「甘えるんじゃない!」
ルミィは冷や水をかぶせられたような心持ちになる。目の前にある真紅の瞳の恐ろしさも、肌を突き刺す鋭い爪もそうだが、子供の頃からの憧れだったその女性が怒りを露わにしているのを初めて目撃したからだ。
「今の私の顔はどうだ? 眉間には皺が寄り、公には決して見せぬ黒い感情が渦巻いているだろう? 幻滅したか、お前はそれをやろうとしていた!」
「だってボク……あんな好かれ方嫌だよ、普通に見てもらいたいと思うのはそんなにいけない事なの!」
「それ以前の問題だ!」
腕には一層力が籠もり、ルミィの足は浮く。首からは血が流れ出し、息苦しさに咳き込んだ。それを見てようやく彼女も平静を取り戻し、泣き出すルミィが治まるまで待ってくれる。
「……悩むのは分かる、急がずともいいと言ったのも私だ。だがどんな事情があっても、公演を迎えたなら全力でその日を消化しなければならない、舞台の上で弱みを見せれば多くの人が悲しみ、不満も抱える。それが決断を先延ばしにする代償だ。思い出してみろ、お前は何の為にアイドルになったのだ?」
「……シェオルのみんなを笑顔にしたいから、です」
反論のしようがなかった。自分は居心地の悪さを気にするあまり、本来の目的さえ投げ出そうとしていたのだ。自分が耐え忍びさえすれば、ファンは満足する。それはルミィの望む通りの事であった。
「……でも」
しかし、ルミィはもう一つ懸念する事があった。
「まだ何か悩みがあるのか?」
ルミィは先日鏡を見て、自分の本当の姿は自分自身が見ている姿とも違うかも知れないと思った事をミレアに説明した。
「ボク、ずっと自分を押し殺して公演を続けていったとして、いつかこの術を解除する方法が見つかるかも知れない、その時ボクは今日こうやって悩んだくらいだからそれを実行すると思うんです。でもその時の姿がみんなに全然受け入れてもらえないものだったら……そんな不安を抱えたままじゃ、明日から戦える自信がなくて」
段々とか細くなっていく声。ムシのいい事を言っているのは分かっている、だが報われないかも知れない努力をするのには大変な勇気がいるものだった。ルミィは今まで認めてくれていた人たちに見放される事もやはり怖かった。
「ふっ、そんな事か」
それを聞いたミレアは事もなげに笑う。ルミィにとっては意外な反応だった。
「お前は私が二目と見られない程醜い姿で歌っていたら、ファンにならなかったか?」
「と、とんでもない! ボクはミレアさんがみんなを大事にしてくれるのが……」
「では問題ないではないか、身体の好みだけでついてきていた者などこっちから捨ててしまえ」
ルミィは開いた口が塞がらなかった。ファンを選ぶだなんて考えた事がなかったからだ。自分が見せかけの美しさで歌っているのと同じように、それに釣られただけのファンが減るだけの事であった。
ミレアはルミィの肩に手を置き、目を閉じて言い聞かせ始める。その声にはこれまでのような上下関係は感じられず、まるで友人に接するような印象を受けた。
「いいか、お前は戦っていける。お前の一番の望みは自分を見てもらう事ではないからだ……お前の通り名の一つに、身を焼かぬ太陽というのがあったな。太陽はある日突然消えるか? 消えないだろう。私を脅かすものであると同時に、憧れの対象でもある。舞台裏であればいつでも頼ってくれて構わない。もしそれでも本当に無理だと思ったなら、そこからは私の頑張る番だ。太陽が沈めば月が昇る。お前は後の事など気にせずに自分のやれる事やりたい事に打ち込めばいいんだ」
そしてやがては……と言いかけて、ミレアは立ち上がり踵を返す。充分だった。彼女のおかげで、ルミィはもう少し頑張れるような気がした。
「あ、ありがとうございます、ミレアさん!」
「そうだ、もしかしたらいっその事今すぐに……」
去り際に彼女は思い出したように気になる事を言う。本人は戯言のように笑ったが、ルミィはもう一つの選択肢を提案されたようにしか思えなかった。
「魔は聖なる力で縛られると言うな?」




