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過去、未来とペンギン  作者: 富田洋和
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第2章

 ■第二章   一九八五年六月



 目覚まし時計が鳴っていた。毎朝、携帯電話の電子アラームで起きている前田には懐かしい金属ベルのやかましい音だ。反射的に腕を伸ばすと固い時計に当たった。うっすら目を開けると自分の腕が目に入る。水色と白の縞が見えた。パジャマのようだった。

 ぼやけていた視界の焦点が徐々にハッキリしてくると、前田は思わず上半身を起こした。両手で全身をくまなく触る。上下ともパジャマだった。パジャマを着るなんていつ以来だろう。少なくとも社会人になってからは初めてだ。ジリリリッ・・・けたたましい音をたてている目覚まし時計を、前田は慌てて止めた。周囲に人の気配が漂っている。いつまでも鳴り続けると誰か来るかもしれないと、察したのだ。鳴り止んだ時計はちょうど七時を指していた。

 前田は寝ている場所がいつものベッドではなく初めて見る布団で、さらに床がフローリングではなく畳だということを確認すると、鼓動が早くなる心臓に右手をあてた。大丈夫、大丈夫、と心の中で繰り返しながら、もつれた記憶の糸をほぐす。たしか昨日の夜、会社の帰りに新聞で見かけたビルに行った。そして、よく話すペンギンと塚本に会ったのだ。

 でも、どう考えてもあれは夢だ。ペンギンが話すわけないし、死んだ塚本に会えるはずもない。考えられることといえば、どこかで居酒屋かバーに入り記憶が無くなるほど酒を飲み、家に帰って眠りこけてしまったことくらいか。だが、前田は飲みすぎて記憶が無くなることはごくたまにあるものの、一軒目に行った店すら覚えていないことはなかった。一滴も飲んでいない状態で入った店を忘れるほど、まだもうろくしていない自信がある。

 それに、もし泥酔で帰宅し眠りこけたとしたなら、今のこの状況をどう説明するのか。見知らぬ和室の見知らぬ布団で、見知らぬパジャマを着ている。道ばたで眠りこけて、親切な誰かに介抱されたとか。前田は希望をこめながら頭を悩ませた。それならひょっとして、と思いながら両手で頬を触り、そのまま髪をかきむしろうとした。

「ウォッ」

 間抜けな声とともに、前田はビクッと顔にあてた両手を離した。顔が手に触れる感触がいつもと全く違う。固くてゴツゴツしている。ヒゲが痛い。全体的に体毛の薄い前田なら生えない耳の下あたりにまで、ヒゲが広がっている。両手を自分の目の前に突き出して甲を見ると、いつも以上に青い血管が浮き上がっていた。いや、いつもと比べるのは間違いだった。明らかに別人の手だった。 

 あなたが乗り移るのは西川課長の上司で・・・ペンギンの声が耳の奥でよみがえった。その先を、ゆっくりと再生してみる。一つ思い出すと残りを思い出すのは簡単だった。ペンギンの言葉は前田の記憶の中に鮮明に残っていた。

「うそだろ」

 耳に聞こえる自分の声も、いつもと違って低かった。部屋の隅を見ると鏡台が目に留まった。念のため、自分の顔を鏡で見てみることにする。それでハッキリするに違いない。

 前田は布団から四つんばいではい出し、恐る恐るのぞいてみた。初対面の男が、おびえた表情で前田を見つめ返していた。

 信じたくなかったが、今おかれた状況を確認し、覚悟を決めるしかなかった。ペンギンの言うとおりだったのか。夢はまだ終わってないらしい。いや夢というより、これこそ現実なのだ。

 そういえば大人になりたいと願った少年が、ある朝起きたら本当に大人になってしまったという映画があったな。自分の顔を鏡で見て、パニックになるシーンを覚えている。そんなことを思い出しながら前田はもう一度、鏡をのぞいてみた。ハンサムの度合いでは勝っている自信がある。体格は身長一七〇センチ、体重七〇キロの前田に比べ、少し太っている気がした。前田より一回り、腹が醜く突き出ていた。しかも、頭髪が前部から少し禿げ始めている。でも、整髪料をつけなければごまかせそうな気がした。

 

「井村、井村ね」

 前田は今の自分の名前を確認しながら、ふと財布を見てやろうと思いついた。ついでに手帳も見れば、だいぶその人間のことが分かるだろう。さてどこにあるのだろうかと部屋の中を見渡してから、つぶやく。

「いや、ちょい待てよ、待て待て」

 前田の視線の先には、空になった布団があった。掛け布団は上にめくれているが、まくらや敷布団のしわの様子からすると、ついさっきまで誰かが寝ていたことは明らかだ。

「奥さんか、奥さんだなやっぱり」

 そう言いながら、前田は耳をすました。ふすまの向こう、おそらく台所からバタバタと人の動く音がする。朝食を作ったり洗濯をしたりしているのだろう。思い切ってまず奥さんに会っておこうか。姿は井村になっているのだから驚かれないだろう。でもそう分かっていても、自然に接してもらえれば胸の鼓動が落ち着く気がする。

 迷いながらふすまの反対側にある閉じられたカーテンに目を向けると、一着のスーツが脇に吊り下げてあった。ただ、どうも視界がぼやける。そして前田はまた気づいた。近眼なのかもしれない、と。そう思ってシャカシャカと畳をすりながら枕元まで四つんばいで戻ると、予想どおり眼鏡ケースが置いてあった。

「よっしゃ」

 今朝の前田は普段より独り言が増えていた。おそらく井村の声を耳に入れて、これが現実なんだという認識を少しでも強めたいのだろう。ケースから取り出した眼鏡は四角い黒縁の愛想がないもので、前田なら決して買わないダサい代物だったが、なんだか一歩前進できた気がしてうれしかった。何に向かって進んでいるのかは、まだつかめていなかったけれど。

 眼鏡をかけると視界が一気にクッキリし、前田は思わずガッツポーズをした。そして鏡台の隣にはタンスがあり、その上に小さなカレンダーが置いてあることを、早速発見した。偉大なる眼鏡なり。駆け寄ってみると、一九八五年六月のページが開かれていた。今日が何日なのかまでは分からないが、月単位で計算すると前田がペンギンの部屋に行った日からちょうど二十年前になる。

 吊り下げられたスーツはグレーで、上着と一緒にズボンもハンガーにかけられていた。前田は気持ちを落ち着かせながらスーツのポケットを探る。右ポケットに財布、内ポケットには手帳が、予想どおり入れられていた。どうやらスーツは昨日着られていたようだ。ポケットの中にはちり紙や、道でもらったと思われる広告が小さく折って突っ込まれていた。「夢のような時間をあなたに。セクシーなダンスと続々入店の若いウサギちゃんが心ゆくまでお相手いたします。キャバレークラブ・ラドンゴ割引券」。広告を見て前田は苦笑した。

「ハハッ、キャバクラか」

 井村の庶民性が感じられて、少しうれしかった。なんだか身近になれた気がする。一方で、夢のような時間ならまさに今、味わっているところだと思ったのだ。

 財布の中身は前田とほぼ一緒だった。キャッシュカード、クレジットカード、レンタルビデオの会員券、ラーメン屋の割引券・・・。免許証には鏡で見た顔より生き生きとしている「井村英彦」が、真一文字に口を結んで映っていた。交付日は一九八三年の三月六日、とある。それにしても、わずか二年ちょっとでずいぶん老けたもんだな、と前田は感じた。髪の毛が豊富にあるし、さっき鏡をみて目に付いた肌のくすみも全く無い。最近、何か心労をかけること井村にあったのだろうか。誕生日の欄には一九五〇年九月四日、とあった。前田は引き算で年齢を把握した。

「三十五歳。俺より三つ上か」

 世代でいえば前田の父親と同じだった。住所は前田が営業で担当する地域だったため、思わずまたガッツポーズをした。これで道に迷うことはなさそうだ。

 前田は財布をスーツに戻し、次に手帳を広げてみた。はたから見たら井村が自分の手帳を見ているだけだが、前田にしてみたら他人の手帳だ。この独特の罪悪感、スリル感は一体どう説明したらいいのだろう。黒い手帳はさっきまで人が触っていたように生温かかった。

 一月、二月、と順にめくると六月頃から書き込みの密度が減ってきた。支店会議、営業研修ミーティング、などと書いてある。

「何はともあれ、今日が何日なのかが分からないと始まらんな」

 前田はぼやきながら、手帳から視線を外した。六月の何週目かによって、少しだけど予定が変わっている。前田としては一週間の期間限定なので、会社をサボって街をぶらついていてもかまわないのだが、元に戻った井村に迷惑がかかるようなことはしたくなかった。

 もっともペンギンの言葉を信じればこその一週間限定だ。ひょっとしてこのままずっと井村として生きることはないだろうな。そう思うとまた心臓の鼓動が早まってきた。急いで頭を振り「思い当たったこと」を頭から追い払う。今、いくらそんなことを考えたところで自分ではどうにもできない。ペンギンは確かに一週間と言ったのだ。なにあの斜にかまえたおしゃべりペンギンのことだ。一年なら一年、十年なら十年とためらいなく言うに違いない。だから奴が一週間といえば一週間だ。今の前田はそう思うしかなかった。

 手帳の内ポケットには名刺が何枚か入っていた。井村は前田と同じ銀行の支店に勤め、ポストは営業主任だった。さらに何枚かめくって前田は手を止めた。ほかならぬ、その西川の名刺が出てきたからだ。肩書きは何もない。入行して間が無いことを示していた。あなたなら変えられますかねぇ・・・ペンギンの挑発がまた脳裏に甦った。そうだ、俺はお前に会うためにきたんだ。名刺をにらみながら、前田は静かに闘志を燃やした。こうなったらやるしかねぇ、待ってろよテメェ、と心のなかで鼻息を荒くする。なにせ八五年の前田は上司だから、強気だった。そのとき突然、ガラッとふすまが開いた。


「おっはよー」

 急に後ろから声をかけられた前田は全身で飛び上がりそうになり、思わず西川の名刺が手から落ちた。振り返るとエプロンをした三〇代後半くらいの女性が雑巾を手にして立っている。髪は短く体系はわりとスマートだ。九分九厘の確立で妻だろう。虚をつかれた前田は必死で動揺を抑え、冷静を装った。

「あぁっ、おはようございます」

「なによ、よそよそしい。あっ、さては見られちゃ困るもん見てたな。何よそれ」

 妻はそう言ってスタスタと近づいてくると、落ちた西川の名刺を拾った。

「なんだ、西川君の名刺じゃない。変なの」

「あぁ、そう。西川だよ、西川。あいつ最近頑張ってるかなぁ、なんて」

 妻は不思議そうに瞬きを二回してから言った。

「そんなのアンタが一番よく知っているじゃない」

「そりゃ知ってるさ、上司だからな」

「プッ、偉そうに。朝ごはん、出来てるよ」

 そう言って妻は前田の前を通り過ぎてカーテンを開け、ついでに窓ガラスをガラガラッと開けた。朝の光と新鮮な空気が部屋に充満する。視線が高く、正面にはクリーム色の団地が建っていた。どうやら四階か五階のようだ。

「なにか楽しいものでも見えますか」

 物珍しげに窓の外を見る前田に、奥さんがからかうように声をかけた。さっきは不自然な対応をしてしまったからなるべく自然な言葉で返さなければ、と思いながら答える。

「いやぁ、いい天気だなと思って」

 ベストな回答だ、と前田は自画自賛した。時代を問わず、天気の話題は毒が無い。

「本当ね、梅雨なのに全然雨降らないわね」

 妻は布団をたたみながら答えた。なかなかサバサバした明るい人だな、と前田は思った。恋愛結婚だろうかお見合いだろうかと一瞬、頭をよぎったが、さすがに聞くわけにはいかなかった。

「さて、と」

 前田は誰に言うでもなくつぶやきながら、台所に向かった。


 台所のテーブルにはパンや目玉焼きが並んでいたが、前田にとってそれより大切なのは三人分が用意されているということだった。息子か娘だろう。いやしかし、井村か妻の親が一緒に住んでいることもあり得る。考え出すときりがない。

「ま、いいや」

 前田は割り切って黒い大きな箸の置いてある椅子に座り、朝飯を食べだした。ほどなくして、中学校と思われる制服を着た女の子がけだるそうに台所に現れた。前田はできる限り明るく、名前も知らない娘に声をかけた。

「おはよ―」

 娘はチラリとこちらを見て、意外そうに言った。

「お父さん、パジャマで食べてんの?」

 パジャマで食べたらいけないのか。でもそういえば出勤前の父親というのは普通、スーツ姿で食べるもののような気もする。さりげなくごまかさなくては、と注意しながら前田は答えた。

「うん、たまにはね」

 娘は妻と同じように、不思議そうな目を向けた。

「変なの」

 話せば話すほどボロが出るのは明らかだったため、前田は早めに家を出ることにした。

「ごちそうさま」

 いそいそと自分の食器を流しまで運んでから和室へ戻る前田に、娘は相変わらずきょとんとした視線を送っていた。普段の井村は食べ終わった食器をそのままにしているのだろうな、と和室で着替えながら前田は思った。


「行ってきまーす」

 食器を洗う妻の脇を通り、前田は玄関に向かった。

「行ってらっしゃい。晩ごはんは?」

「うん、食べるよ。よろしく」

「あら、そ」

 妻はテキパキと手を動かしながら答えた。こういう生活も悪くないかな、と前田は少し嬉しかった。

 玄関のドアを閉めて振り返ると、表札に「405」と書かれ、その下に「井村英彦・涼子、智美」とあった。前田は手帳を取り出し、最後のページにその名前を書きつけた。

   ◇

 井村の家は市営団地だった。周囲にも似たような団地が二十棟ほど連なる、典型的なニュータウンだ。街並みは前田のいる二十年後とあまり変わっていない。時代の違いを感じるのは、駐車場に並ぶ車の型がどれも古いことくらいか。

 バスと電車を乗り継いで職場へ向かう道筋を、土地勘のある前田はすぐに把握することができた。学生や通勤客でごった返す電車に乗り込むと、吊り下げられた週刊誌の広告は松田聖子と神田正輝の結婚で持ちきりだった。前田にとっても中学生のときの出来事なので、十分記憶にある。どれくらいの時代をさかのぼったのかという実感が、広告に映る二人の笑顔を見ているとなんとなく沸いてきた。

 勤め先の支店は本店から十キロほど離れた都心だった。地元に根をはる地銀というメンツをかけて、全国を網羅する都銀の支店と激しい競争を展開するエリアだ。もっとも八五年といえばバブルが弾ける前で、銀行がつぶれることはあり得ないと考えられた時代だった。競争の舞台も前田の時代と違って、どれだけジャブジャブ金を貸すかということだったのでは、と推測できた。

 電車の揺れに身を任せながら、しかし他人の身に突然たたされるのは困難の連続だ、と前田は思わずため息をついた。基本的な条件はあらかじめ教えられるべきじゃないのかと、心中でペンギンに毒づいた。ささいだが大切なことが分からないのだ。前田は支店の場所なら分かるが中へ入ったことがない。だから出入り口や行内の見取り図はぼんやり分かっても、自分の席が分からないのだ。とはいえ「私の席はどこでしたっけ」などと人に聞けば不審がられるのは目に見えている。席を探しながら迷うことも、目立つから避けたい。どうすればいいのだろうかと考えをめぐらせながら、前田はホームへ降り、駅の改札口を抜けた。支店まではあと五分も歩けば着く。

 そのとき、視線の先、歩道右脇の自動販売機に硬貨を入れようとする男が目にとまった。横顔に見覚えがある。

 前田が見慣れた髪の毛の後退はまだなかったが、西川に間違いなかった。

 短い髪を七三に分け、買ったばかりのようにツヤツヤ光る黒い革靴を履いている。疲れた様子を感じさせないのが、前田には新鮮だった。買ったばかりの高価なスーツでも、前田が見慣れたオッサンの西川が着ると、疲労感を一層際立たせることに、なぜか一役買ってしまう。身の回りにあるものも憂鬱に見せるような雰囲気を西川はいつもまとっていた。しかし、目の前にいる西川からはまったくそれが見受けられない。若いから当たり前なのかもしれないけれど、前田には実に興味深かった。

 視界に入った西川を前に思わず歩みが止まりそうになったが、すぐに、このまま通行人の流れに身を任せ、タイミングがあえば声をかけてしまうほうが自然だと思い直した。驚いたように立ちすくんだりわざと無視して通り過ぎたりする井村を、ほかの誰かに見られるほうがはるかに怪しい。

「俺は井村、上司の井村。井村英彦、イムライムラ」

 前田は呪文のようにつぶやきながら、西川までの距離を詰めていった。西川はしゃがんで自販機から缶コーヒーを取り出し、飲もうとしたところで井村に気がついた。

「あ、おはようございます」

 声は当然ながら若いが、前田がいつも感じている気の弱そうな雰囲気はなかった。さっき感じた第一印象がいっそう強くなる。西川は直立不動して仰々しく頭を下げていたが、前田からみるとどうも西川らしくない。妙に落ち着いているのだ。この違和感はなんなのだろう。

「おおっ、おはようさん」

 前田はできる限り自然にあいさつを返した。自然を意識すればするほどぎこちなくなることは分かっているのだが、上司らしく振舞うのは難しい。

「いやぁ月曜の朝って憂鬱ですよね。今週も祝日が無いから」

 西川は困ったような笑顔を浮かべた。新人らしい言葉だな、と前田は思わず肩の力が抜けた。どうやら井村は上司とはいえ西川にとって気軽に接することのできるタイプのようだ。

「そうだな。六月は祝日ないもんな」

 前田は西川に笑って返した。二人で並んで支店への道を歩き始める。

「でも、僕、せっかくの休みでも支店長に呼ばれたりするからなー。祝日、もっと欲しいですよ」

「えっ、支店長から?なんで」

 前田は支店長って誰だろうと思いながら聞いた。西川はチラッと目線を左右に動かし、声の聞こえる範囲に行員がいないのを確かめた。

「内緒ですよ。支店長の長男が今年、高校受験なんです。今、中三なんですけど勉強の出来がもう一つのようで。僕、大学のときにアルバイトで家庭教師やっていたから、それで勉強教えに呼ばれるんです」

「ひょっとしてタダで?」

「まぁ現金は出ないです。飯は食べさせてくれるので、そうだなぁ一食分五百円は浮いているかなって程度です」

「ケチだなぁ。プロを雇えばいいのに」

「えぇ、本当に。『家族ゲーム』の松田優作みたいに強烈な家庭教師を送り込めば、支店長も目が覚めるでしょうにね」

「ハハハッ、そりゃ最高だ」

 前田は声を出して笑った。家族ゲームは前田も大好きな映画だ。両親と息子二人の一家に型破りの家庭教師・松田優作が雇われ、家族や社会のいびつさが徐々にあぶりだされていく。松田優作以外では務まらない独特のユーモアと迫力、ストーリーの秀逸さなど映画のすべてが何十年たってもファンの心をつかんでいる。制作はたしか八三年だから今より二年前か、と前田は計算した。

「映画、好きなのかい?」

 前田の質問に西川は顔をほころばせた。

「いや、そんなに。数は見ないんですけれど、好きになった映画は何回も見るんですよ」

 十以上も年下の西川を見ながら、コイツは本当に西川なんだろうか、と前田は不思議だった。塚本のようだ。言葉に打算がない、というか自分の言葉で話している。千夏や塚本との間では、西川の上司に対する言葉ほど心のこもっていないものはないという評価だったのだが、実際に今、上司となって聞いてみると前田はそう感じなかった。

「西川」

 前田は名前を確認するように呼んだ。

「あっ、はい」

 少し緊張する西川を感じ、前田は「スマンスマン」と心の中で謝った。耳に痛いことを言うつもりは全くないんだ、しかし、続く言葉を考えていたわけでもない。そのとき、頭の中で小さな光が突然生まれて、一瞬で口まで達して、気付いたら声になって飛び出していた。

「なんで銀行、入ったの?」

「へ?」

 脈略のない前田の問いに、西川はキョトンとした。そして少し目を伏せて、右手に持ったコーヒーの缶を指でクルクルとまわした。

「動機、みたいなものですか?」

 西川は前田の目を見ず、独り言のようにつぶやいた。

「あ、うん。いや、ゴメン。別に深い意味はないんだ。ただ、なんとなく」

 ただなんとなく、知りたかっただけだ。西川に面と向かって銀行に入った理由を聞くなんて、元の時代の二十一世紀では相当難しい。部下である前田になら西川は「もう忘れた」「そんなことどうでもいいよ」などと面倒くさがり、正面からの回答を避けるに決まっている。課長になった西川は自分のことを部下に言うのは損だと思っているように、前田は感じていた。自らを隠して相手のことを知ると、「情報戦」で上にたったような気になるのだろうか。前田はそんな西川を、小さい奴だと軽蔑していた。部下でも上司でも変わらぬ態度で接し、言葉のキャッチボールができる男に前田はなりたかった。目の前の西川ならできそうな気がした。

「なんとなく?」

 西川は言葉の細部にこだわった。

「なんとなく聞いてみたくなっただけだよ。気にさわったなら無理しなくていいから」

 前田はありのままを言った。

「いえ、すいません。ちょっと突然だったもので。なぜ銀行に入ったかといわれると、それなりの理由はあるのですけど、一年二ヶ月働かせていただいて、正直、思っていたこととちょっと・・・」

 西川は言葉を濁した。

「ちょっと?」

 前田は純粋に聞いてみたかったので、反射的に食い下がった。

「いや、なんでもないです。自分の頑張りが足りないだけですから。本当に」

 西川は自分に言い聞かせるように、右手で握った缶コーヒーをグイッと飲み干した。でも缶はとても軽そうで、コーヒーはすでに空っぽだったように前田にはみえた。それでも最後の一口を勢いよく飲む様は、もうこれ以上聞かないでくれ、という西川の意思表示のようだった。

「そっか。いやスマン突然、こんな質問」

「いいですよ、全然。いや僕もなんだか、よく分からない、回答を」

 西川は前を向いたまま、コーヒーの空き缶を道路脇のゴミ箱に放り投げた。月曜の朝だからか、ゴミ箱はきれいに清掃されていた。

「コーヒー好きなのか?」

 前田は気まずい雰囲気を解消しようと、意味の無い質問をした。すると西川は前田のほうを向いて、プッと吹き出して笑った。

「なんだか井村さん、少し変ですよ、今日。なにかあったんですか?」

 逆に返された前田は、そういえば変だったかなと思いつつも冷静を装った。

「何もないよ。そんな、あるわけないじゃないか」

「そっかなぁ。だって僕はコーヒー好きだってこの前、言ったじゃないですか、喫茶店で。井村さんが嫌いだから」

 なるほどそういうことか、すでに井村が聞いていたのか、と前田は納得し、俺はコーヒーが嫌いなんだな、と心に刻んだ。つい飲んでしまいそうだから注意が必要だ。しかし、井村が前にした質問など前田に分かるわけがない。これから似たようなことが頻発するだろうが、その都度、適当にごまかしていくしかないな、と少しうんざりしながら調子をあわせた。

「ホント、あんな真っ黒な飲み物、なにがおいしいのか訳がわからないよ」

「色というより苦味じゃないんですか。井村さん苦いのがダメだって。魚の肝を食べれないなんて勿体ないですよ」

「まぁそう言うなよ」

 前田が少しずつ井村のことを学習する間に、目指す支店の玄関が見えてきた。慌ただしげに急ぐ人々がどんどん吸い込まれていく。ゴキブリホイホイみたいだ。前田は手帳を見て今日の予定を確認した。午前十時から会議、とあるが、それ以外は特に目立った用事はない。ふと、前田は行内での井村の席を知るいい方法を思いついた。

 守衛とあいさつを交わしながら玄関をくぐると、前田は西川にカバンを差し出した。

「悪い、ちょっとトイレ行ってくるから、俺のカバンを机の上に置いといてくれるかな」

 西川は快くカバンを受け取った。

「分かりました」

 井村のカバンを持って職場へ向かう西川の背中を見ながら、前田は「組織が人を変えるメカニズム」というペンギンの言葉を頭の中で思い返していた。

   ◇

 夜八時。井村の一日は穏やかに終わろうとしていた。一つ分かったことがある。支店長の杉田浩二という男のことだ。大阪出身のため関西弁なのが特徴だが、それとは別に前田は杉田の名前を知っていた。というかマスコミを賑わせた有名人だから、元の時代の行内で知らない者はいないだろう。

 前田が入行して数年たった頃、大蔵省の検査を妨害した罪で当時役員だった杉田ほか数名が検察に逮捕されてしまったのだ。すべての銀行は大蔵省や金融庁などの役所に決算やどこへ何円融資したか、そのうちいくらが回収できずに不良債権と化しているか、などを定期的に報告しなければならない。その内容が正しいかどうか、大蔵省や金融庁は立ち入り検査をして確かめることがある。いつ検査に入るのか、建前は抜き打ちとなっているが、あらかじめ時期を把握した杉田は、都合の悪い資料を隠したのだ。

 資料隠しは杉田が主導し、行内の数十人が関わっていた。幸いにも前田は関係していなかったが、命令されたら自分もやっていたかもしれないとゾッとしたのを覚えている。前田は直接会ったことがなかったが、噂による杉田の評判は様々だった。ミスを許さない完璧主義者、感情的に部下を怒鳴りつける嫌われ者、出世のためなら何でもするエリート、など。その杉田に前田は今日、会ったのだ。数年後に世間を騒がす事件を起こすとは、夢にも思っていないだろう杉田と。

 杉田は中肉中背でめがねをかけ、人なつっこい笑顔が似合う男だった。蛇のような男だろうという前田の安易な想像とはだいぶ違う。午前中の会議で初めて顔をあわせたが、言葉を交わしたのは昼過ぎのことだった。廊下を歩いている前田に、反対から来た杉田がすれ違いざまに話しかけてきた。

「井村君、どないや、最近は」

 井村初日の前田には答えにくい質問だった。適当に答えるしかない。

「そうですね、まぁなんとか」

「そうかい。君んところの娘さんはいくつやったかいな?」

 唐突だな、と感じながら、今朝、台所で会った娘のことを思い浮かべた。たしか中学生くらいなはずだ。

「十三だと思います」

「思いますって君、娘の年齢やろ」

 杉田はおかしそうに笑った。

「そうですね、いや十三で間違いないです」

「いやウチの息子も似たような歳やねんけどな。難しいな、あの年頃は。まったく会社にいるときが一番楽やわ」

「本当ですね」

 言いたいことだけ言うと、杉田は何もなかったかのように「じゃあまた」と去っていった。何か声をかけたい気分だったのだろう。杉田の息子というと西川が家庭教師をやらされている受験生か。父親が逮捕者となると、家族に大変な迷惑がかかるだろうなと前田は余計な心配をした。


 その夜十時過ぎ、席に座って帰り支度をしていると、背後から声がした。

「井村さん」

 弱々しいかすれた声に驚いて振り返ると、西川が泣きそうな顔でたっていた。

「おぉっ、ど、どうしたんだ。何かあった?」

 西川とは朝会って以来、姿を見なかった。とはいえ営業は外に出なければ仕事にならないため、不思議なことではない。帰るときに一声かけられたら、くらいに前田は思っていた。それが朝とは別人のような姿の西川に再会することになるとは予想もしなかった。なにか痛い失敗でもしたのだろうか。

「まぁ座れよ」

 前田は隣席の椅子を横に持ってきて西川に勧めた。部屋には二人以外にも数人がまだ残業に励んでいた。

「ちょっと外に出ませんか」

 西川はチラリとドアの方を見た。人の目があると話しにくいのだろう。前田もちょうど帰り支度ができたところだった。

「あぁ」

 前田が答えると、西川は一人でスタスタとドアへ向かって歩き出した。前田も慌てて後を追った。


 玄関から出てもしばらく、西川は何も話さなかった。前田もあえて聞かなかった。二人で並んで通勤した同じ道を、今は逆にたどっている。でも朝と違って西川は無言だ。どんな思いをしたのだろう。

 落ち込んだり腹が立ったりすることは誰にでもあるが、その頻度は人によって様々だ。西川はよくこういう風に塞ぎこむのだろうか。それとも入社して初めて、こんなに思いつめているのだろうか。それによって深刻の度合いも異なる。元の時代の西川から推測すると、頻繁に落ち込むタイプではないような気がする。上司に対しては細心の気を使っているため、面と向かって怒られるようなことはない。嫌なことがあっても思いつめたりせず、適当に部下をつかまえて愚痴を言っておしまい、といった印象がある。前田は課長の西川が何か思いつめている様子を見たことがなかった。ということは、事態は適度に深刻なのか、と前田は前を歩くフレッシュな西川の背中を見ながら思った。

「もうダメかもしれません」

 駅の明かりが見える距離まで銀行から離れると、西川はボソッと吐き出した。

「何があったんだ?」

 前田の言葉を背に受けながら、西川は道路わきの公園にズンズン入っていった。誰もいない滑り台やブランコ、砂場の前を通り過ぎて奥のベンチに腰掛ける。あとをついていった前田も隣に座った。この公園は元の時代ではたしか無くなっているはずだ、と前田は思い出した。

「支店長の指示に、ちょっとついていけません」

 西川は手を前に組んでうなだれた。

「杉田さんに何か言われたのか?」

 前田の言葉に西川はコックリうなずいた。昼間会った限りでは、前田の杉田に対する印象は悪くなかった。むしろ事前の想像が悪かったため、にこやかな笑顔に好感を持ったほどだ。とはいえ銀行のために違法行為まで主導する男だ。銀行というより自分のためか、上司のためか、とにかく目的を達成するためにはなんでもやるタイプだから、一回会っただけでは分からない二面性があったとしてもおかしくない。

「今日、交通事故で娘さんを亡くされた家庭へ営業しに行ったんです」

「定期預金の獲得か」

「はい」

 そう言って西川はネクタイをゆるめた。同じ銀行員の前田には、自然に話の筋がみえてきた。

「慰謝料が入ったんだな」

 西川はまたコクリとうなずいた。前田の銀行では一定額以上のお金の出入りが客の預金口座に発生すると、自動的に報告されるシステムをとっている。慰謝料はもちろん遺産相続などで預金額が急にガクンと増えた場合、そのまま放置しておくと他行に定期預金をされてしまう可能性がある。それを防ぐため、営業マンが家まで出向いて自行の定期に入れてもらうよう頼みこむのだ。

「いくら入ったんだ?」

 死亡事故なら一億円を超す可能性もあるな、と思いながら前田は聞いた。

「九千万円です」

「九千万か」

 前田は西川の気持ちを想像した。あらかじめ知ることができるのは何月何日に九千万円が口座に振り込まれた、という事実だけだ。その九千万円がいったいどういう理由で手に入ったのかは、家に行ってみるまで分からない。口座にお金が振り込まれたのにあわせて銀行員が自宅まで来るという営業は、受け止めようによっては不審がられるため、個人情報保護の意識が高くなった元の時代では自粛されている。しかし、八〇年代は当たり前に行われていたようだ。

「家に行くまで交通事故の慰謝料とは知らなかったんです。娘さん、まだ十五歳の中学生なんですよ。人生これからってときに、飲酒運転の車にはねられたんです。学校からの帰宅途中でした」

「ひどいな」

 元気に家を出て行った娘が、とつぜんいなくなってしまう。そしてもう二度と会えない。その辛さは想像して余りある。前田も塚本を失って言葉にできない苦しさを味わったが、赤ちゃんのときから接しているご両親の苦悩と悲しみに比べたら足元にも及ばないだろう。そんな家へ西川は何も知らずに突然行った。その家に振り込まれた九千万円という大金を定期預金にしてほしい、と頼むために。相手の気持ちになってものを考えてみるという人としての基本や感覚をある程度捨てないと、できることではない。

「そういう時は一回目でいきなり定期をお願いしなくてもいいんだぜ。初めはじっくり相手の話を聞いてさ。何回か通ってそれなりの人間関係をつくってからでも」

「じゃあ支店長にそう言ってくださいよ」

 前田のアドバイスを最後まで聞かず、西川は声を荒げた。夜の公園に、ゼーゼーと苦しそうな西川の息がこだまする。

「すいません。井村さんにあたるなんて、僕は最低です」

 そう言う西川の目には涙がたまっているように、前田はみえた。

「いや、いいんだよ。気にするなって」

 前田も自分の言葉が理想論だと分かっていた。

「杉田さん、なんて言ってたんだ?」

 想像はついたが、念のために前田は聞いてみた。

「全額とってこいって」

「だろうな」

 預金額はイコール銀行のエネルギーだ。元々、銀行は一人当たりの預金額が少ない個人客を法人客に比べて重要視しない傾向があったが、九千万円というまとまった額を前にすれば態度も変わる。

「まだ納骨も終わってないんですよ。仏壇の前に骨壷があって、お母さんから娘さんの話を色々聞きました。まだ信じられないって。悔しくて悔しくて狂いそうだって」

 前田もうなだれるしかなかった。当事者のそんな思いを前にしたら、何を言っても慰めにはならないような気がしてしまう。黙り込む前田に促されるように西川は話を進めた。

「でも僕、一生懸命、自分で自分に暗示をかけたんです。九千万円をよそに持っていかれたら大変だ、自分の評価もすごい悪化する、そう思って思って思い込んで言ったんですよ。こんなときに大変恐縮なんですが、責任もってウチがお預かりさせていただくためにも定期にしていただけないでしょうか、って」

 小学校の運動場のような土の地面を靴の裏でこすりながら、前田はつぶやいた。

「そしたら?」

「そうしたら、結論から言うとお母さんは二千万円でお願いしますって。まだ気持ちの整理がついてないし、本当はこんなお金なんかいらないし考えたくもない。娘の命を奪ってお金だけポンって渡されても苦しさが増すばかりだから。だけど大金を扱うのには慣れていないし、とりあえずこの額でって。あとは夫らとゆっくり相談しなければならないからって。すごくいい人なんですよ」

「西川が一生懸命だったからだろうな」

 上から言われて来て手ぶらでは帰りにくいんじゃないか、ということは相手にも伝わったのだろうと、前田は思った。

「でも、支店長は・・」

 西川の言葉には悲壮感が漂っていた。

「うん」

 全額と指示しておきながらも、難しいのは明らかだ。とりあえず二千万円だけでもとってきた西川の努力を評価するべきだろうと、前田は思った。いや正確には希望的観測だ。杉田のことだからそれとは逆のことを言ったのではないか。

「明日中に残りの七千万円を獲得してこいって」

「えっ」

 ある程度予想ができていたとはいえ、前田は言葉を飲み込んだ。二千万円の獲得はまったく評価しなかったのだろうか。

「事情は説明したのか」

 西川は大きくうなずいて、抑えきれない気持ちをまくし立てた。

「散々説明しましたよ。事故はたった三ヶ月前で亡くなった女の子はまだ十五歳で、納骨も終わってないって。だけど・・・」

 そう言って西川はかがんでいた体を起こして天を仰いだ。星はあまり見えず、灰色の雲が速いスピードで流れていた。前田もつられて初夏の夜空に目をやった。三日月がその上半分を雲から突き出していた。草刈りの鎌みたいな、動物の角みたいな、雲の上から釣り針のように少しだけ顔を出して何かをひっかけようとしているみたいな、色んなものに見えた。西川の声が静寂に包まれた月夜を破る。

「だけど支店長は、それは相手の論理やろがって。そんなのに引きずり込まれて銀行員が務まると思っとんのか、一年以上やって学生みたいなこと言うとったらアカンで、って。耳の中にキンキン響くような大声で。関西弁って怒ったらヤクザみたいで迫力ありますよね。やかましいわこのボケカス、ってこっちが言い返したくなりました」

 西川は一息吐き出して、自嘲気味に少し笑った。

「出来るわけないけど」

 前田は西川の悔しさを全身で受け止めてやらなければ、と思った。相手が全身でぶつかってくるときは、自分の答はどうであれ全身で返すのが礼儀だと、何かの本で読んだことがある。だが、元の時代で銀行員を八年経験してきて、全身をかけて会話を交わしたことなど、おそらくない。前田は思い出そうとしたが、やっぱり記憶になかった。

 前田はこれまで何に対しても、そこそこにやって、あまり深く考えず、よく言えば要領よく、悪く言えば適当に過ごしてきただけのような気がする。だけどそれでいいのだろうかという感情が体のどこかからポコンと湧き出て、全身を環状線の電車のように各駅停車で走っているような気分を最近感じていたのだ。

「西川は間違ってないよ。おかしいのは支店長だから」

 西川は首を横に振った。

「でもじゃあどうすればいいんですか」

「俺がなんとかしてやる」

 反射的に、気付いたらそう言っていた。とはいえ言葉を吐き出した瞬間から、大変なことになったと前田の背筋に何かが走った。西川はカバンからポケットティッシュを取り出して鼻をかみだした。ジュルジュルーという音に混じって途切れ途切れに声が漏れる。

「いいですよ、井村さんに迷惑かけたくないですし」

「そういう問題じゃないから。任せとけって・・・」

 前田は格好いいことを言いながらも、自分の言葉に自信の無さが含まれているのが分かった。相手は支店長、こちらは主任。誰が見ても形勢の悪さは明らかだ。でも同時にペンギンの言葉が脳裏に甦る。「西川課長を変えられるかどうか」。細長いクチバシをカチカチ鳴らしながら、ペンギンは確かにそう言った。

 でも変わらなくていいじゃないか、と前田は思う。今、目の前にいる西川は、上司の言うことなら神のお告げのように聞き入れる二十年後の西川課長ではない。言葉も嘘くさいことはない。西川は憤っている、苦しんでいる。上司の言葉に「おかしい」と疑問を投げかけている。そして、それは確かに前田から見ても「おかしい」ことだった。おかしいことに対しておかしいと言えることは組織において大切で、かつとても難しいことだ。こんな西川がそのまま課長になったら、塚本も千夏も見直すんじゃないか。前田はうなだれる西川を見ながら、なんともいえないほろ苦い感覚になった。西川は足元の小石をポンと蹴りながらつぶやいた。

「僕、本気に銀行辞めたくなってきました」

「えっ」

 公園に入って西川が最初に言った「もうダメかもしれません」は、そういう意味だったのかと感じながら、前田は説得した。

「そう言うなよ。嫌なことは誰でもあるさ。俺だって何回辞めようと思ったかしれないけれど、続けていれば必ずいいこともあるし。せっかく厳しい試験乗り越えて入ってきたのに、勿体ないよ」

 西川はフッと笑みをこぼして話した。

「だけど、僕が最初に思っていたのとはあまりにもかけ離れていて。井村さんだから言えることなんですけど、正直、こんなにひどい職場だとは思いませんでした。すいません、侮辱するようなことを言ってしまって。井村さんのような人ばかりだったらいいんですけど」

 覚悟を決めたような言い方だった。今、杉田が目の前に現れたら、同じ事をそのまま言ってしまいそうな勢いがある。

「最初はどんなふうに思っていたんだ?」

 前田の問いに西川は、足元の小石を靴の裏でグリグリと転がしながら答えた。

「最初は、中小企業の社長さんたちとお付き合いして、一緒に会社を大きくしていきたいと考えていました。社長さんたちが何でも話してくれるような信頼を得て、必要なときに必要な融資をする。会社が落ち込んでいる時だって逃げない、むしろ悪いときこそタッグを組んで打開策を練っていく。そのために色んなことを勉強しなくちゃならないと、気を引き締めていました」

 前田は頭を金づちで殴られたような気がした。あの西川課長が、入社するときはそんな夢を抱いていたとはとても信じられない。上司ばかりを気にして、失点しないことを最優先に行動し、部下には酒の席で愚痴をこぼすのがせいぜいの小さな器の西川が「中小企業を一緒に大きくしたい」だと?冗談きついぜ。前田は西川が課長になって以来、二年の付き合いがあるが、そんな考えの持ち主だということは全く気付かなかった。でも隠していたとも思えない。ということは、課長になった西川はもはやそんな気持ちを失ってしまったというわけか。

 強いショックの原因はまだある。前田は銀行に入るとき、そんな目標はまったくなかった。ただなんとなく受けて、合格できたから入った。お金を貸して、いくらかの利子を上乗せして、返してもらう。その中から自分の給料をもらう。仕事だからそれ以上のことを考えなかった。不満に思うことはあっても適当に心の中の引き出しの一つにしまいこんでしまう。どこでもそんなものだろう、仕事だから仕方がない、と自分に言い訳をしながら。でも目の前にいる西川にはこうあるべきだという目標がある。希望がある。そして、だから苦悩する。

 衝撃を受ける前田をよそに西川はポツリポツリと続けた。

「だけど最近、あまり勉強する気しないんですよ。それより支店長や副支店長や、要は上司にどう思われているのかな、なんてことに気がいってしまって。家庭教師に呼ばれるのは嫌なんですけれど、断って嫌われるのはもっと嫌だし。ある程度気に入っている部下じゃないと、家まで家庭教師に呼ばないだろうとか思うと少し安心したりして。でも、そんな自分が嫌なんです。なんか違うんじゃないかって思うんです」

 前田が八年かけてようやく分かろうとしていたもやもやする霞のようなものを、二年目の西川はもう把握していた。何か違う。そうなんだ。西川の純粋な気持ちに対して何か言わなければならないと、前田は口を開いた。

「俺もそう思うよ。なにか違うって。違うんだよ、たしかに。でもみんな見て見ぬ振りをしてるんだ。そうやって組織がまわっているんだな」

「でも、それじゃあんまりじゃないですか。やっぱり辞めます」

「まぁまぁ、すぐそこに結びつけないでさ。今はちょっと俺に任せてみてくれよ。十年近く行員やってる先輩に少し頼ってみなよ」

 前田は西川の助けをしてやりたかった。お前は間違っていないと、言葉だけではなく行動で勇気づけたかった。

「はぁ」

 ため息交じりの西川の返事が、前田には「大丈夫ですか」と心配されているように聞こえた。西川にとっての井村は、本音を言える存在である一方で、上司との折衝の面では頼りない面があるようだ。仕事ができて上司にも気に入られているエリートや出世頭とは、残念ながら一線を画しているといえる。支店長の杉田のようなタイプとはかけ離れた存在だ。逆にその分、西川も色々と打ち明けてくれるのだろうけれど。前田は井村のことが段々、好きになってきた。普段の井村に会うことができたら、一体どんな会話ができるのだろう。

 西川は相変わらず靴の底で小石をゴロゴロと動かしている。前田は視線を隣の西川から正面に移した。赤いブランコが風に少し揺れていた。そうだ、と前田は心の中で、両手をポンと叩いた。

「西川、ちょっとブランコ乗ってみよっか」

「へ?」

 西川は驚いたように前田を見つめて言った。

「誰かに見られたら不審がられますよ」

「銀行の奴らに、ってことか?」

「えぇまぁ」

 前田はチラリと公園の出入り口に目をやった。

「大丈夫だって。ここは公園の一番奥だから、もし誰か歩道を通っても顔までは見えないさ。それにもう遅いから行員で通る奴じたいまずいないよ」

「はぁ、でもブランコなんて」

 乗り気の薄い西川をよそに前田はブランコに向かった。誘ってはみたものの、前田がブランコに乗るのは小学生の時以来だ。まず立ちこぎで勢いをつけよう。そう思って鎖を両手でしっかり握って、足を台にかけた。

「おっとと」

 予想以上に不安定だが、思い切って両足を乗せた。こんなにバランスの悪い遊戯だったかな、ブランコというものは。スパイクのないビジネスシューズが滑りそうで怖い。

「井村さん、大丈夫ですか」

 ベンチに座っていた西川が、見ていられないといった様子で駆け寄ってきた。

「おぉ、西川も乗れよ」

 前田は膝をくの字にして漕ぎながら、少しずつ振り子の幅を大きくしていく。怖いのは振り子の幅が小さくて、スピードが出ていないからだ。そう思いながら足に力を入れる。初めはなんでも怖いんだ。キィーッキィーッという鎖の音が、耳に心地よかった。

「そろそろ座ったほうがいいですよ」

 そう言いながら西川も隣でブランコに乗った。若いせいか、前田より遥かにうまい。あっという間に前田のスピードに追いつき、手本を見せるように座ってみせた。前田も座る。足を地面に触れないように気をつけないといけない。

「乗ってみると、意外と楽しいだろ」

 前田はドクドクと早く鼓動する心臓の勢いを感じながら呼びかけた。

「そうですね。僕、子供の頃は、漕いで漕いでどんどん高くなったらグルッと一回転できるんじゃないかって友達と挑戦してたんですよ。怖いもの知らずですよね」

 西川が気持ちよさそうに言う。前田も負けじとブランコの思い出を披露した。

「ブランコ鬼って知ってる?」

「なんですか、それ」

「柵があるだろう」

 そう言って前田はあごで二メートルほど先にある、腰の高さほどの赤い柵をさした。

「あの柵の向こうに友達が何人かいるんだ。ブランコに乗る奴は座らなけりゃならない。足にタッチされたら交代」

「足をたたんどけばいいんじゃないですか」

「いや、それでも向こうはかなり乗り出してくるからな」

「じゃあすぐタッチされるじゃないですか」

「そこがそれ、よけるテクニックがあるんだ」

 そう言って前田はブランコの振り子が一番前に出たときに、全身で体を右にねじってみせた。ギィーッと鎖が鳴って体の向きが少し斜めになる。

「うーん、子供の頃はもっと大胆に大きくねじれたんだけどな」

 言い訳をする前田に西川が答えた。

「なるほど、僕だってできますよ、それくらいっ」

 そう小さく叫びながら、西川も全身でブランコを右に曲げた。二本の鎖が弾けるように交差して、西川の体が一瞬後ろ向きになるほどねじれた。すぐに反動で左にねじれる。前田は純粋に褒めた。

「やるな、俺よりうまいよ。それだけひねられるとなかなかタッチできないんだ」

「どもっ」

 さっきより元気が戻った様子の西川を見て、前田はホッとした。ねじれた体勢を立て直しながら、西川が言った。

「でもなんだか、子供に戻ったような懐かしい気分ですね。目をつむると、当時の友達が目に浮かびます」

「うん」

 あの頃からたくさんの経験をした。そして失い、忘れた。それを成長と呼ぶのだろうか。

   ◇

 公園を出て西川と別れた前田は、電車に乗ったところで思い出した。妻の涼子に「晩ごはんを食べる」と言って出てきたのだ。腹は減っているから、帰宅して残っていたら食べよう。冷めている手作り料理を電子レンジで温めて食べるのも前田にとっては貴重な経験だ。

 電車を降りてバス停まで歩くと、もう最終の時間だった。時計を見ると午後十一時だ。娘の智美はまだ起きているだろうか。中学校の制服を着ていたから年齢は十二歳以上ということになる。ん、ちょっと待てよ、と前田は何かにひっかかった。仮に十二歳と仮定してみる。井村は三十五歳だ。ということは単純に引き算をして、二十三歳のときに生まれた娘ということになる。二十三歳といえば大学生か入社したてか、少なくとも若いうちに結婚したことはたしかだ。

「学生結婚かもしれないなぁ」

 十人ほどしか乗っていない最終バスに揺られながら、前田はつぶやいた。

 降りるバス停が近づくと、前田は再び緊張してきた。朝は少し不自然な様子をみせてしまった。不審な言動はなるべく繰り返さないようにしなければならない。でもどうすればいいのか。

 大切なのはあまりしゃべらないことだ、と前田は自分に言い聞かせた。なまじっかな知識を披露すると恥をかくのはいつの時代でも同じだ。と同時に涼子からは、なるべく色々なことを聞きだしたかった。仕事のこと、家族のこと、井村に関する知識を少しでも多く知って漠然とした不安を取り除きたかった。自分のことが分からないというのは、なんとも心細いものだ。

 前田の涼子に対する印象は良かった。今朝会った限りだが、明るくて柔軟性がある。妻に会って、まだ見ぬ夫を想像するときは、当たるときと外れるときの差が大きい。「あーなるほど」と納得することがあれば「ええっ、この人が?」と驚くこともしばしばだ。前田の視点で、涼子から夫の井村を想像してみる。たぶん気さくタイプなんじゃないだろうか。井村が憂鬱な性格だったら、今朝のように開口一番「おっはよー」とは言えないはずだ。だとすれば前田も基本的に同じだから、そんなに警戒して自分を隠す必要はないのかもしれない。

 あれこれと考えをめぐらせながらバスを降りて歩いていると、もう団地が目の前だった。405の部屋にはまだ明かりがついている。気を引き締めようとしたが、なぜか心が弾んだ。勢いよく階段を駆け上がってドアに手をかける。鍵はかかっていなかった。

「ただいまー」

 中へ入ると涼子と智美がリビングでテレビを見ていた。

「あっ、おかえりー」

 涼子はチラリとこちらを見て言った。二人の見る番組は明石家さんまの出演するバラエティーだった。元の時代でもさんまは第一線で活躍する人気芸能人だ。浮き沈みの激しい芸能界を、なんの苦労もないように二十年以上トップで走り続けているさんまの才能に、前田は今さらながら気づいて感心した。

「さんま、ですか」

 当たり障りの無いように前田はたずねた。

「そっよ、智美が好きだからね」

 智美が笑いながら反論した。

「お母さんも好きじゃない」

「そっかなぁ、アタシは智美に付き合ってるだけよ。本当はニュースが見たいんだけどなー」

「へぇ、じゃ変えよっか?」

「今日のところはいいわよ、これで」

「またまた、ニュースなんて見ないくせに」

「こらっ」

 母と娘はとても仲が良い、と前田は頭の中の「井村情報ボックス」に収納した。テーブルの上の布巾をとると、白いご飯、春巻、白菜と油揚げのおひたしが姿を見せた。前田は大好物の春巻を見つけて顔をほころばせた。

「適当に温めて食べてね。冷蔵庫の中にポテトサラダとバナナもあるわよ」

 テレビに見入っているようでも、さりげなく気を配ってくれる涼子に前田は心強いものを感じた。

「遅かったねー今日は。とはいえ飲んだ様子はないし」

 涼子はあくび交じりに聞いた。二十代で結婚して十数年の付き合いとなれば、なんでもお見通しなのだろう。変に隠さずありのままを話すのが、とるべき道だと前田は直感で決めた。

「西川と話しててさ」

 涼子はその名前を聞いてニコッとした。テレビのほうから前田の方へ椅子の向きを変える。

「あんたも本当に好きねぇ、西川君が。一番弟子だもんねぇ」

 今度は前田が微笑む番だった。そうか、西川は俺の一番弟子なのか。少し嬉しくなりながら冷蔵庫を開けると瓶ビールが六本ほど目に入った。反射的に一本を取り出す。涼子は目の前に置かれた柿ピーをボリボリ食べながら続けた。

「この前、ウチに遊びに来たときも、支店長の家に行くより百倍落ち着きます、とか言って喜んでたもんね。西川君はあの素直さがいいよね」

「うん、そうなんだよな」

 前田は驚いているのを気づかれないように、相づちを打ちながら瓶の栓を抜いた。西川が井村を慕っていることは分かっていたが、自宅に遊びに来るほどとは気づかなかった。格別に仲がいいようだ。

「おっと、お注ぎしますよ」

 棚からコップを出してビールを注ごうとした前田に、涼子は大きく手を伸ばした。前田が瓶を渡すと涼子は少し腰を浮かせて並々と注いだ。

「あたしも飲もっかな」

「あぁ、はいはい」

 前田は棚からもう一つコップを取り出した。

「おっ、優しい。ありがとう」

 涼子は意外に思ったのか、椅子から立ち上がって前田の手からコップを受け取った。

「どういたしまして」

 前田もビールを注ぎ返した。

「いいなぁ、あたしも飲みたい」

 テレビ番組がCMになったため、画面から目を離していた智美が輪に加わってくる。

「残念、あと八年ですねぇ、お嬢さん」

 涼子がわざと深刻な表情をすると、智美は口を尖らせた。

「まだまだじゃん」

「すぐだって、そのあとはずっと飲み放題だしね」

「別に飲みたくないけどさ」

「どないやねん」

 涼子がさんまのマネをして突っ込んだ。CMが終わり、智美はテレビに向き直った。あと八年ということは十二歳、この春、中学校に入学したばかりということになる。

「で、西川君、どうかしたの?」

「あぁ、そうなんだよ。ちょっと支店長がムチャ言うから悩んじゃってさ」

 前田はビールを飲みながら、公園での話をかいつまんで説明した。聞き終わった涼子は怒りをあらわにした。

「ひっどい、ゲス支店長。あたしなら絶対そんな銀行に預金しないわ。何様のつもりだってのよ」

「あぁ、まったくだ」

 うなずく前田に涼子は空になったグラスを差し出す。前田はビールを注いで、自分のグラスも満タンにした。

「でも心配だなぁ、西川君。彼ってお父さんが何回か転職して苦労しているじゃない。だから話していて素直なところは、若いっていいなぁって思うけれど、同時に従順な面も感じるのよ。従順というとなんだな、忍耐強いっていうか。人間、苦労していると自然に打たれ強くなってくるでしょ」

「なるほど」

 前田は涼子の分析に聞き入った。お父さんが転職しているということも初耳だ。このままもっと涼子の話を聞きたい。

「あなたは、まぁこう言うとなんだけれどルートをそれた人間じゃない。出世も望んでないし。あたしもそれでいいと思うし。でも西川君は先がある人間でしょ。あの支店長に詰め寄られたら、従順に実行するのが彼の先につながるとは思うけれど、でもそんなひどいことしてほしくないしね、あの西川君に」

「従順に実行するのが西川の将来につながるとは限らないよ。支店長は時期がくれば代わるんだし、上司はたくさんいるわけだから」

 前田はルートをそれた人間ということを自覚しながら反論した。それにあと十数年たてば支店長は逮捕され、銀行を懲戒免職になるのだ。むしろ従わなかったことに誇りをもてる日がくる。もちろんそう口に出すわけにはいかないが。

「でも本店のだれだっけ、名前忘れたけどひどい左遷人事あったでしょ。あんなのみると誰だってゾッとするわよ。西川君も『正直あぁはなりなくです』って元気なかったし」

「あぁ左遷」

 誰のことが見当がつかなかったが、前田はとりあえず調子をあわせた。

「本店の審査部門で次長までいった人が、過疎の村の支店に異動でしょ。会社らしい会社もないわよ、あんな田舎。上司とムチャクチャ関係が悪かったからだっていうのが公然の秘密じゃない。ひどいわよねぇ、組織って」

「うん、まぁ組織というより上司なんだけどな、ひどいのは。結局、組織としての意思というのは、肩書きの偉い人たちが決めるわけだから」

「それにしても、その上司はとりわけ大人げないわよ。みんなの前で『嘘つき』呼ばわりして大声で怒鳴ったり、会話が全くないから、どうしても必要な指示だけ紙に書いて机に置いてたって言うじゃない」

「たまにいるよな、そういう人」

「あたし、別にいちゃいけないって言ってるわけじゃないのよ。ただ、なんでそんな人が上にいけるのか不思議なわけ」

「誰を昇進させるかを決めるのも上司だからね。上司の目には全く違うように映っているんだろうな」

「人を見る目のない上司が、人を見る目の無い部下を引き上げる。悪循環よね、これって。だって過疎の支店に異動になった次長、部下にはけっこう評判だったんでしょ。時と場合によっては、若手や現場の意見を上に伝えるつなぎ役になってたって、あなたも褒めてたじゃない。そんな人を左遷してよ。なんでこんな人の気持ちの分からない人が?って呆れ返るような人が昇進していくのよ。あーヤダヤダ」

 前田は涼子と話しているうちに、元の時代で自分が感じていた違和感の原因が見えてくるような気がした。「これでいいのだろうか」という漠然とした焦りや不安。その霧が少し晴れてきたような感じがする。原因が分かれば解決策も見つかるはずだ。ペンギンと話したときも少し感じた解決への兆しが、どんどん膨らむ手応えがある。そう思いながら、前田は涼子に疑問をぶつけてみた。

「そういう風にさ、やってられないバカバカしさに気づいたらどうしたらいいのかな、一社員としては」

 涼子は、待ってました、という風に口元に笑みを浮かべた。

「永遠のテーマね、それは。というか選択肢は限られているんだけどね」

「どんな風に?」

「情けないわねぇ、アンタの方が身をもって分かっているでしょうに」

 挑発するように涼子は両手を机の上に組んだ。口のあたりを親指で触りながら、視線を天井にむけて考えるそぶりをみせる。前田は思いつくままに答えてみた。

「そうだな、えーっと。まずはだな、会社を辞める」

「ピンポン。それが最も手っ取り早いわね。今日の西川君の例からも分かるように。さーて、ほかには?」

「ひたすら我慢する」

「おっと、やるねオッチャン。正解。最初は辛いけど割り切ってしまえば楽かもね。朝から晩まで耐え忍ぶわけじゃないし。さ、あとはどうでしょう?あたしなりの解答例でいけばあと二つね」

 涼子は組んだ手をほどいて四本の指を立て、そのうち二本をもう一方の手で折ってみせた。

「あと二つか。そうだなぁ」

 前田は少し悩んだ。思いつかない。涼子が見かねてヒントを出した。

「さっきの左遷された次長はどう考えればいいのよ?」

 前田は次長の身になって考えた。すると自然に一つの選択肢が見えてくる。

「なるほど分かった。自分を貫いて言いたいことを言って、左遷されても笑顔で前向きに生きる」

「ピンポンパン、正解。冴えてきたじゃない、笑顔で前向きにっていうのがいいわ。付け加えさせていただくなら、そういう道を選んだ人は仕事以外の生きがいを見つけるべきね。自分の趣味でも何でもいいわ。何かコンクールや大会とかで競い合うことができるものなら、緊張感や張りがでてさらにいいかも」

「生きがいかぁ、なるほど」

 前田には、生きがいなんて無かった。そんなことを考えたこともなかった。やっぱり霧は少しずつだが、確実に晴れてきている。

「そうよ、あたし、この前さ、実家から帰るとき、夜十時ごろにバスに乗ろうとしたらね、バス停のベンチに酔っ払ったおじいちゃんが二人いたのよ。おじいちゃんっていってもまだ初老の、六十過ぎかな。その二人が大きなかすれ声で話してるのよ」

「へぇ、何を」

「なんか、久しぶりに会ったみたいなんだけど、それをとても喜びあってたの。二人して肩たたきあったりして。そして二人で『やっぱり大切なのは生きがいじゃ。わしゃアンタに会えて本当によかった』って笑いあってるのよ。なんだかあたし、ジーンときちゃった。いいなぁって、二人が羨ましくなっちゃった」

 前田は空になった涼子のグラスにビールを注いで、自分のグラスも満たした。

「あ、ありがと。ね、すごく良くない?そういうの」

「うん、いいよ。文句なしで」

 前田はベンチで笑いあう老人を想像して、思わず言葉に詰まった。自分にはそんな風に肩をたたき合える友達などいない。二人の生きがいというのは一体なんなのだろう、と前田は思った。でもそんな中身はどうでもいいと、すぐに思い直した。大切なのはそれがあるかないかだ。

「あたしも生きがいみつけなくちゃなぁ。智美も最近は全然相手にしてくれないし」

 テレビに見入っていた智美がプッと吹き出した。

「なによー、それ。相手にしてるじゃん」

「そうかなぁ、最近、あんまり家の手伝いしてくれないし」

「だって忙しいときに限って言ってくるからさぁ。掃除とか買い物とか」

「どうせ、あたしは暇ですからねぇ」

 智美はテレビから目を離さずに答えていたが、すねてみせる涼子の言葉を聞いて振り返った。

「そうだお母さん、バレエやりなよ」

「バレエ?バレーボール?」

「違うったら踊るほう。白鳥の湖。ナオミちゃんのおばちゃんがさ、今年に入ってからバレエ習ってるんだって。すごい面白くて週三回くらい通ってるんよ。でもこの前、足けがしてたけど」

 前田も智美と会話したくなり、口を挟んでみた。

「全くの素人から始めたのかい?」

「そうだよ。経験ゼロ」

「おばさんでも楽しめるのかしら」

 涼子のつぶやきに、智美は勢いよく答えた。

「大丈夫に決まってるじゃん。おばさんと思うから本当におばさんになっちゃうんだよ。基本基本」

 そう言って智美はポンと手のひらを叩いた。

「あ、そうだ。明日の宿題、まだ残ってたんだ。中学になると色々大変だよ。校則もバカみたいに厳しいしさ。スカートの丈とか靴の色とか。ったく、見かけで人を判断すんな、馬鹿センコーって感じ」

「こーらー、言葉づかい悪いー」

「ひひっ」

 涼子の指摘に智美はペロッと舌をだしながら、自分の部屋へ帰っていった。

「まったくもー、日に日に下品な言葉をつかうようになるから参るわよ」

 涼子は愚痴をもらすが、前田は心強い一面を感じていた。

「うん、まぁ確かに言葉づかいは悪いけど、言ってることは正しいよな」

「何よそれ?」

「え、いや、見かけで人を判断するとロクなことはないって話さ」

 目をむく涼子をなだめながら前田は答えた。涼子はビールを一口飲んで、フーっと息を吐き出した。

「あぁ、そういう意味ね。服装を厳しくしたら、はみ出している子はすぐ目で見て分かるから、先生が楽なんでしょ。でも確かにそれは安易なことで、本当は心を見なくちゃダメなんだけれどね。先生は」

「はみ出すことは実は大切なことなんだけどな。みんなと同じにしなくちゃいけないっていう、このなんというか日本人の小心者な気質みたいなところは、実は小さい頃からの教育で自然に刷り込まれてしまうのかもな」

「そうよ、そう。人と違うことをする人が新しいものを創り出していくのよ。それで人類は進歩してきたのに」

 そう言って涼子は席を立ち、冷蔵庫に新しいビールを取りに行った。栓をあけながら、何かに気づいたように声をあげた。

「あっ」

「なに?」

「今、分かったんだけど、これって西川君の問題にも通じない?ほら、はみ出さないってこと。だって上司の言うことに逆らったら目をつけられるって、イコールはみ出さないほうがいいってことでしょ」

「なるほど、確かにそうだ」

「校則だってそれが本当に必要なことかどうか、先生も生徒も理解しあって成立するものなはずよ。本来なら。例えばナイフは危ないから持ってきたらダメよね、それは分かる。でもじゃあ、黄色い靴下はダメっていう理由は一体どこにあるっていうのよ」

 涼子は前田のグラスにビールを注ぎながら、たまったものを吐き出すように言った。

「黄色はダメなのかい?」

「全然ダメよ、だって白しかいけないんだから」

「うーん、理由っていったら不良っぽく見えるからかな」

 前田も涼子のグラスにビールを注ぎ返した。涼子はゆっくり一口飲んだ。

「それこそまさに先入観の植え付けよ。黄色い服だからダメ、白なら大丈夫。そしたらゆくゆくは何かをするとき、相手が中卒だから不安、高学歴だから安心みたいに考えるようになっちゃうわ。でもそんなわけないわよね。人間って、そんなに簡単なはずないわ」

「西川の話につなげるとどうなるんだい?」

「上司の言うことに逆らうことが問題なんじゃないのよ。大事なのはその中身。部下の意見が間違っているなら、その理由を説明して納得させて動かすべきだわ。そのほうがいい仕事をすると思うし、人間としても成長できるでしょ。でも同じ人間なんだから、部下のほうが正しいことだってあるはずよ。もちろん、そこを認めたくないっていう意地は凄まじいものがあるだろうけれど『じゃあこうしろ』って指示を変えることはできるはずだわ」

「まぁ、そんな器の大きな上司が現実にいればいいけど。理想郷って感じは否めないね」

「私は理想を言ってるの。でも目指す理想に向かって努力することは大切なことじゃない」

 涼子は満足げにそう言い、すぐに少し寂しげな表情になって続けた。

「じゃあお前は何してるんだ、と言われると辛いところだけどさ。あたしなんか、いくら頑張ったところで一主婦だから上司にはなれないし」

「いやいや、僕もなれないから。これといって何もしてないし、でも・・・」

 前田は続く言葉を考えないまま、思わず「でも」と言っていた。「でも」涼子の指摘は正しいと、励ましてやりたかった。たとえ理想どおりにできていなくても、心の隅っこでいいから、そんな理想を持つことは大切なことだと思ったのだ。

「でも、そういう風に心がけるだけで自然と変わっていくものだよ。理想があるってだけで、とりあえずはオッケーなんじゃないかな。努力っつってもさ、大学受験みたいに、三月までっていう期限つきじゃないんだからさ。生きてる限りずっと続くものだから、なんかそんな気負わなくても大丈夫だよ、たぶん」

 涼子はうつむいた顔をあげ、心細そうな目を少し和らげた。

「そうかな」

「そうだよ」

 二人を静寂が包む。遠くで鳥の鳴き声がした。前田は「が、しかし」と心の中で大きく叫んだ。この一週間は、前田にとって期限付きなのだ。短期決戦、だから流れに身を任せるわけにはいかないんだ。二十年後の西川を変えるためには、まさに今こそ、理想へ向かって努力しなければならない。そう考えたところで、前田はさっき涼子が出したクイズの答を一つ、聞き損っていることに気づいた。

「ちょっと話がそれちゃったんだけど、さっきのクイズはどうなったのかな」

「あぁ」

 涼子は静寂を破られたことに少し不服そうだったが、ゆっくりと肩をほぐすように首をまわしながら言葉をつないだ。

「えっと、どこまで話したんだっけ?」

 校則の話をしているときに比べ、明らかに元気がなくなっている。しかし、会話をクイズ形式にしたのは涼子のほうだから、また活気が甦るかもしれない。前田は期待をこめて、クイズの経緯を振り返った。

「会社のくだらなさに気づいたら、どうすべきかって話だよ。辞める、我慢する、割り切って自分のやりたいことをする。あと一つは何かってところまで話したのさ。答えは四つあるんだろ」

「あぁ、えっと何だったっけな」

「エエッ?」

 前田は思わず動揺し、間抜けな声を発した。

「なによ、そんな驚かなくてもいいじゃない」

 確かにその通りだ。前田は驚いてしまい、回答をとても聞きたかった自分に気づいた。というか、気になるのだ。あと一つの選択肢は何なのか、それを踏まえたうえで西川にも接したい。そのためには涼子に思い出してもらうしかない。

「いや、ごめん。ちょっと、なんなのかなーって引っ掛かってさ」

「そうなんだ、わかった、大丈夫。すぐ思い出すから。辞める、ひたすら耐える、割り切って自分の道を笑顔で生きる、でしょ」

 ゆっくりとそうなぞりながら、涼子はニコリとした。

「思い出した。あと一つね。そうよ、確かにあるわ。でもこれはねぇ・・」

 涼子は少し言い澱んだ。

「これは?」

 前田が先を促す。涼子に笑顔が戻り、うれしかった。

「いや、これは四つ目というより、むしろひたすら耐えるの一枚上手バージョンという方が正確ね」

「ひたすら耐えるの一枚上手バージョン?」

 前田は言葉の意味を把握しようと、涼子の言葉を繰り返した。

「うん、そう。さて何でしょう?簡単よ」

「簡単?」

 そう言われても、前田にはさっぱり分からなかった。

「ひたすら耐えるには二通りあるのよ」

 涼子は顔の前で大きくピースサインをつくってみせた。

「二通り?」

「うん。あたしがさっき言ったのは、ひたすら耐えるだけの人」

「ほぅ。ということは、四つ目の答は、ひたすら耐えて、さらに何かがあるわけだな」

「そっよ。でも、組織でいえば耐える人の大部分は、この四つ目に分類されるのかも」

「俺の場合は?」

「あなたはあんまり耐えてないから、元々この部門に分類されてないわよ。割り切って仕事以外の趣味を見つけなさい」

「ひっどいなぁ。左遷されてねぇぜ」

「あら、左遷が悪いこととは限らないわよ。会社だけが人生と考えなければ」

 前田は涼子の切り返しに思わず言葉が詰まり、渋々答えた。

「まぁ、そういう見方もあるかな」

 前田は会話を通して、涼子が主婦だということを勿体なく感じた。社会の歯車にガッチリ噛み合って、大いに活躍してもらいたい気がする。

「で、分かった?答。ヒントはもう十分に出したんだけど」

 そんな前田の気持ちなど予想もつかないだろう涼子が催促した。

「なんとなく分かってきたよ」

「おっ」

 前田は頭の中に一人の上司を思い浮かべていた。すると、答えが自然と見えてくる。

「うん、でもそれって嫌な奴じゃない?」

 前田の問いに涼子はうなずいた。

「うん、嫌な奴よ、たぶん。でも、銀行みたいに上司絶対な組織だと無理からぬことかもしれないけれど」

 前田は正解を確信し、一言一言かみしめるように口に出した。

「ひたすら、耐えるけれども」

「けれども?」

「けれども、昇進を狙っている」

「ピンポン。上司の言うことを何でもよく聞いて気に入られて、出世したいのよ。怒られるのが嫌でビクビクしているだけの社員とは一線を画しているのよね」

 前田が思い浮かべたのは二十年後の西川だった。上司の犬となって生きる。自分の考えを殺し、心にも無いことを並び立てる。でもちゃっかり上のポストを狙っている。さっき、公園で会った西川とは変わり果てた情けない姿だった。涼子が続けた。

「たぶん、そういう人って、昇進が生きがいになっているんでしょうね」

「昇進が生きがい、会社が生きがいってことだな」

「そうよ。でも会社っていつか辞めなくちゃならない所よね。そのとき、どうするんでしょうね」

「だから会長や社長になれたら、いつまでも辞めなくて老害になってる人がいるんだろうな」

「あたしね、昇進して社内で権力を手にして、これを実行したい、っていうような人はそれでもまだましだと思うのね。でも、優先されるのはそんなことより肩書きでしょ。そういう人って、どんどん偉くなってみんなにハハーッて頭下げて欲しいのかしら」

「たぶん、そうなんだろうね。頭下げて欲しいというよりも、自己満足というか、それでその人の人生は格段に充実するんだよ。同業や社内のライバルに胸を張れる優越感も魅力だろうなぁ。どうだ、って見下ろせる、というか余裕をもてる」

 涼子が不満げに反論した。

「ただ、裏返せば彼らはそれ以外に人生を充実する術を見つけられないんじゃないの。三階建ての立派な一軒家に住んで、移動は運転手つきのクラウンやベンツで、自分の言うことは部下がハイッハイッ、って聞いてくれて。でもそんな生活、あたしは逆に怖いわ。一般市民の普通の感覚がなくなっちゃうのが怖い。これはおかしいんじゃないか、ここでこんなこと言ったら誰かを傷つけてしまわないか。イエスマンに囲まれてたらそういう人間の基本的な感覚を、知らない間に見失ってしまいそうな気がする」

「でもそういった意見を昇進できなかった者のひがみ、と解釈して切り捨てることも簡単なんだよ。ハイハイ、分かりました、そう言って傷を舐めあっておきなさい、みたいな」

「何よ、ケンカ売ってんの?」

 涼子の険しさに前田は慌てて弁解した。

「いやいや、僕がそう思ってるわけじゃないさ。ただ、そういう見方をする嫌な奴もいるんじゃないかなってことさ。たぶんなりふりかまわず昇進した連中はそう思うよ」

「あたしの言っていること、間違ってる?」

「間違ってない」

 涼子は深く息をつき、両手をバンザイするように大きく上に伸ばした。手を握ったり開いたりしながら、今度は明るく言った。

「世の中には色んな考え方があるねぇ」

「あるねぇ」

「色んな考えがあって大歓迎なんだけれど、ごくたまにおかしかったり間違ってたりする考えもあるわよねぇ」

「あるねぇ」

「そういうときに、それはおかしい、間違ってるんじゃないか、って声をあげるのがあなたの役割よ」

 前田はこれには相槌を打てなかった。そんなことを気軽に言えて許される組織風土なら世話は無い。それを殺して我慢して、いつの間にか自分自身がおかしくなってしまうのが組織の怖いところだ。そうじゃなければ以前の前田のように何事も深く考えず、間違っていることにもほとんど気づかない、いい意味での鈍感さが必要だ。涼子は返答に詰まる前田を予想していたのだろう、勝ち誇った口調で言った。

「でもそれはとても難しいことだし、百害あって一利なしのときもある。何せ上司のさじ加減一つですもんね、サラリーマンは。だーかーら、でも」

 涼子はここでいったん言葉を切った。

「ここからが今日の総括よ。でも、あなたは西川君にはそれをきちんと伝えなければならない。部下に言っても左遷されることはないわ。悩んでいるのは正しいことだからって、勇気づけてあげてよ、ね」

 前田は無言でうなずいた。

「良いこと言ったな、あたし。今日はけっこう盛り上がったわね、久しぶりに」

「うん、そうだな」

 久しぶりかどうかは分からないが、盛り上がったのは確かだった。すると涼子はふと思い出したように口にした。

「いつまで続くのかな―。こんなこと」

「へ?」

 前田はこれまでの脈絡を無視した唐突な言葉の意味を理解するのに数秒を要した。盛り上がったのは良いことだ。でも良いことが続くかどうか分からない。井村英彦と涼子の間には何か不安要素があるのだろうか。もし井村に聞くことができたら、何か心当たりはあるのだろうか。前田は気になりだすと、聞かずにはおれなかった。

「どういうこと?」

「えぇっ?」

 今度は涼子が驚いたように目を丸くした。

「やだ、別に意味なんてないわよ。ただ、そう思っただけ。なんとなく、そう思っただけよ」

 前田はもっと追及したかったが、なにせこれまでの経緯が分からないから、渋々矛を収めることにした。涼子は元来、こういうことをたびたび口にするタイプで気にかける必要はないのかもしれない。でもひょっとしたら十数年以上の付き合いで今日、初めて心の端っこにスッと忍び込んだ「恐れ」を、気づいたら口にしていたのかもしれない。だとしたら、今でなくてもいいけれど、近いうち何かをきっかけにきちんと話して合っておかなければならない。

 そんなことを考えていると、前田は変わりつつある自分自身に気づいてきた。自分の思考回路が成長している手応えを感じる。去年までなら、涼子が気になることを口にしても、決して立ち止まらなかったに違いない。不満に思ったとしても面倒くさい、大丈夫だろう、何とかなる。根拠もないのにそう思って聞き流し、いつも問題を先送りにしてきた。いや問題だという認識すらなかった。それが、ここ半年ほど漠然と感じる違和感の原因なのではないだろうか。「それは解決すべき問題なのだ」ということがようやく分かってきたのだ。

「ちょっと」

 涼子の言葉が冷たい水のように耳に入ってきた。

「なに考え込んでるのよ、黙りこくっちゃって」

「いや、なんでもないよ、ゴメンゴメン」

「なんでもないなら、あたしもなんでもないからね。気にしないでよ」

「分かった、気にしない」

「本当よ」

 涼子は上目使いに疑いの眼差しを投げかけた。

「分かってる」

 前田は続けて、じゃあこれからはそんなことを言わないでくれよ、と念を押そうとしたが止めた。言葉は心のバロメーターだ。涼子の心を推察する判断材料を自ら放棄する手は無い。

「じゃ、あたしは寝るね」

 疲労感を周囲にばら撒きながら涼子は立ち上がった。

「あぁ、おやすみ」

 前田は出来る限りの快さをこめて見送った。

「うん、おやすみぃ」

 涼子はこちらを見ずに右手だけを少し上げ、今朝、前田が初めて井村であることに気づいた寝室へ消えていった。

 一人残された台所で晩ごはんを食べながら、前田は明日からの西川への接し方を練った。一週間で出来ることは限られている。ペンギンには西川課長を変えられるますかね、と挑発された。でもそれは違うのではないか。今の西川を変える必要はない。大切なのは変わってしまうのを防ぐことだ。

 前田は八年間銀行に勤めて、恥ずかしながらやっと問題意識が芽生えてきた。不満を抱くだけでその先を何も考えてこなかった自分に対して、とても社会人とはいえなかったなと、今は少し反省もしている。だが、西川はすでに考え、どうすべきかについて気づいている。それを二十年たっても三十年たっても忘れさせてはならない。このまま前田が何もせずに長い時間がたてば、西川は完全に今の怒りや理不尽さを忘れてしまう。それは前田がこの目で見ているから確実だ。

 忘れさせないことが、二十年後の西川を変える。ならば具体的にどう行動して何を言えばいいのか。西川がすでに気づいている「すべきこと」を実現させてやらなくちゃいけない。そのためには・・・前田は物思いにふけりながら、涼子の春巻にかぶりついた。

   ◇

 翌日、前田が出勤すると、西川はまだ来ていなかった。今の気持ちを西川に忘れさせないようにするにはどうしたらいいのか、前田は一晩考えたが結局、答えを見つけられないでいた。だけど昨晩、「俺が何とかしてやる」と西川に言い切った以上、何もしないわけにはいかない。「結局、井村さんは口だけなんだな。ちょっとでも期待した僕がアホだった」と、後輩の西川に思われるような形にだけはするわけにいかない。それでは何のためにタイムスリップまでして他人の体に乗り移っているのか分からないじゃないか。

 最も手っ取り早い方法は、関西弁の杉田と直談判して、七千万円の預金依頼指示を撤回させることだ。しかし、何回考えてもそれは勇気のいる難しいことだった。どうせこの時代にいるのは一週間だけだから、と割り切ることができれば簡単なことだが、井村自身はこれからもこの銀行で働かなければならない。井村の立場を考えると、あとはどうにでもなれというような無責任な行動はとれなかった。妻の涼子が会社での地位にこだわっていないことは大きな救いだったが、そうだとしてもいざ自分が遠い過疎地に転勤する立場になれば、どう感じるか分からない。でも理由を説明すれば、涼子なら理解してくれそうな気もする。むしろ褒めてくれるかもしれない。

「井村さん」

 後ろから若い女性行員に声をかけられ、前田はふりむいた。胸のネームプレートには「若田」と書かれている。昨日も会った、二〇代後半と思われるぽっちゃりした体形の女性だった。話したことはなかったが、ほかの行員はたしか「若ちゃん」と呼んでいる。最初、前田にはそう呼ぶ声が「赤ちゃん」に聞こえたため、赤ん坊のように肌がつるつるで顔が真ん丸だからそう呼ばれているのかと思ってしまった。人によっては馬鹿にされていると受け止めかねない、ギリギリのあだ名だなと感じたので印象に残っている。

「もう、さっきから何度も呼んでるのに井村さん、全然気づかないんですから」

 若ちゃんは真ん丸な顔をさらに膨らませた。フグのようだった。

「あぁ、ゴメンゴメン。ちょっと考え事しててさ」

「あら、またキャバレーのことでしょ」

「ブッ」

 若ちゃんの予想外の言葉に、前田は思わず漫画のように噴き出してしまった。井村は若ちゃんとも気さくな関係のようだ。

「馬鹿なこと言いなさんな。朝からそんなエッチなこと考えるわけないでしょ」

 前田はなるべくオッサン臭く答えてみた。若ちゃんは見るからにおっとりしているためか、人の緊張を解いてしまう才能があるようだ。前田は初めて会うのに、ずっと前からの後輩のように自然に話すことができた。

「ふふふ、分からないですよ。男は狼ですからね」

 若ちゃんは両手の指を牙にみたてて、口元に持っていった。

「ガオー」

 うなり声を発しておどけてみせる若ちゃんに、前田は心の中で「でも、どんなことがあっても若ちゃんだけは狙わないから」と返答した。実際、口に出しても若ちゃんなら「エ―、もうひどいなぁ」あるいは「またまた、無理しちゃって」で済みそうな気もしたけれど。本音を言う代わりに本題へ入ることにした。

「で、何かあったの?」

「あぁ、そうですよ」

 若ちゃんは口元から両手を下ろしながら言った。

「西川君、今日、休むみたいですよ」

「えっ、なんで?」

「なんか体調が悪いんだそうです。西川君、ずっと皆勤だったから、会社休むのは今日が初めてなんですよ。井村さん、西川君と仲いいし昨日、一緒に帰ったって話を聞いたから、教えてあげにきたんです。昨日からしんどそうでした?私、全然、気づかなかったんですけど」

「いや、僕も気づかなかったなぁ」

 そう言いながらも思い当たる節は十分にあった。でもそれを若ちゃんに言うわけにはいかない。

「そうですか、じゃあ急にこじらせたのかな」

 若ちゃんはそう言いながら自分の席に戻っていった。

 前田はどう行動するべきか考える時間を与えてもらったようで、少しホッとした。少なくとも今日は、杉田とやりあわなくて済みそうだ。

   ◇

 その日から西川の休みは三日続いた。前田も慣れない自分の仕事が忙しいうえ、疲れきって帰宅したらすぐに寝てしまう生活のなかで、頭の中を占める西川の割合は少しずつ減っていった。慣れというのは怖いものだ。何も考えていないのに、このままの生活がずっと続くような錯覚を抱いてしまう。西川に会わないでいると、この生活が一週間限定だということを時々ふっと完全に忘れることがある。

 前田は日々、着実に井村と同化しつつあった。忙しい毎日というやつは、物事を忘れるのになんと適しているのだろう。しかし歯車はあるとき、突然、動き出す。四日目の昼休み、銀行の近くの喫茶店でくつろぐ前田の所へ、久しぶりに西川が顔を見せた。

「井村さん、一人ですか」

「おぉっ、西川。うん、一人だ。まぁ座れよ」

 前田は小さなテーブルをはさんだ向かい側を手で指しながら勧めた。西川は席に座ると、勢い込んで話し始めた。

「しばらく休んじゃったんで、今朝は七時くらいに出勤して朝一から営業先をまわってたんですよ。昼前にいったん帰って、今から午後の出先をまわろうとしてたら、ガラス越しに井村さんの顔が見えたもんで」

「そうかそうか。朝から大変だったな。で、体調のほうは大丈夫か。俺のほうこそ何もしてやれずに済まなかったな。電話くらいかけようと思ってたんだが」

 前田は自分を慕ってくれる西川が苦しんでいるときに何もしなかったことを、急に申し訳なく思ってきた。電話一本かけるのにどれくらいの時間が必要だというのだ、情けない。

「いや、いいんですよ。井村さんも忙しいんですから、そんな、気を使ってもらわなくても。僕はただ横になって寝てただけです。精神的な疲れもあったし。あっ、すいません」

 西川は店員を呼び止めて、アイスコーヒーを頼んだ。額には大粒の汗が浮かんでいる。声の調子からすると、体調は完治したように前田は思った。だが、四日前に駅前で初めて会ったときの西川とは、どこか違うような気がする。あのとき感じた、明るさのなかにも垣間見える、落ち着きというか思慮というか、重しのようなものを今日は感じない。西川は、そんな前田の印象に気づくそぶりもなく、笑いながら話を続けた。

「この前、井村さんに相談した件なんですけれど。僕、寝ながら色々考えたんですよ。実はあのあと家に帰って親父にちょっと」

 西川はいったん言葉を区切ると、目をクルッと動かしながら周囲に知り合いがいないのを確認し、さらに声を落とした。

「ちょっと、銀行を辞めたい、って漏らしたんです。そしたらえらく憤慨されまして。働くということは嫌なことの連続だ。そのたびに辞めてたら何回転職しても終わりがないって、大声で怒鳴られたんですよ。親父が言うには、一つの勤め先に長くいることで、社内の信頼や評価も上がっていく。銀行っていう入ろうと思ってもなかなか難しい良い就職先を、二年もたたずに辞めるような奴など、どんな会社に再就職してもうまくいくはずがない、という訳なんですよ。なんかそう言われると、僕もそんな気がしてきて」

「うん、そっか」

 父親としては当然の対応だろうな、と前田は思った。涼子によると、何度が転職しているみたいだし、その苦労は実体験として体に染みついているのだろう。

「それで、ちょっと考え方を変えてみたんです。悩まず前向きに。くよくよしないっていうふうに。ポジティブシンキング、っていうんですか。で、午前中、さっそく、それを実践してきたんです。考える前に動かなくちゃと思って」

「考える前に動く」

 前田は西川の言葉を復唱しながら、頭に嫌な予感が走るのを感じた。

「何をしてきたんだよ?」

 実践の中身が重要だった。西川は気持ちを奮い立たすように、笑顔をつくってみせた。自然じゃない笑顔だった。

「事故で娘さんを亡くした家に、さっき行ってきたんです。支店長命令では三日前に行かなくちゃならなかったんですけど、ちょっと休んでたもんで。早く行かなくちゃと思って」

「えぇっ」

 前田の素っ頓狂な声に、女性店員がチラリと視線を向けた。

「いやだな井村さん。そんなに驚かないでくださいよ」

「お前、だって」

 前田は言葉に詰まった。喫茶店に来るまでは、西川に再び七千万円の預金依頼をさせてはいけないと思っていたのだ。そのうえで、公園で吐露した心境は間違っていないからと、自信をつけてやりたかった。娘を交通事故で亡くした遺族の感情に思いを馳せる優しさ、理不尽な指示に対する反発。それは大切なことだから、忘れてはいけない、失わすわけにはいかない。そのために行動しようと前田は決めていたのに、まさか、すでに行ってしまったとは。

 予想外の展開に何を言えばいいのか分からず、あえいでいる前田を見かけねて西川は口を開いた。

「いや、この前、公園で話したときはもう行きたくないって気持ちで一杯だったんですけど。やっぱり一人でゆっくり考えてみたら、行くしかないかな、みたいな。だってそれで給料もらっているわけですから」

「そうとは限らないだろう。そんな相手の気持ちを無視したようなことしなくても、仕事して給料もらえるよ」

「でも仕方ないじゃないですか。支店長には逆らえないし。僕、クビにはなりたくないですから」

「バカ、たった一つの指示に従わなかったからってクビになるわけないだろ」

 前田はこの三日間、銀行の仕事に没頭し、本来の任務である西川問題を置き去りにしてしまったことを悔やんだ。前田が関与しなかった間に目の前の青年は、元の時代の西川にググッと近づいてしまった気がする。

「でも聞いてください、井村さん。ご遺族のところへ行って、支店長に褒められたんですよ」

 西川は前田の懸念を強引に無視して、陽気な声で言った。

「はぁ?」

 前田は全身から力が抜けていくのを感じた。褒められたということは、定期を獲得できたということか。一体、相手にはどんな思いをさせたのだろう。無意識のうちに前田の語気は荒くなっていた。

「七千万円をとってきたのか?母親にはどう接したんだよ」

 前田の言葉の鋭さに、西川は顔をこわばらせた。

「いえ、預金は、獲得できなかったんですけど」

「じゃあ何してきたんだよ。家のピンポンを押して、まず誰が出てきて、お前はなんて言ったんだよ」

 前田は徹底的に問い詰める気でいた。西川が遺族を再訪問したことは、仕方がないことかもしれない。加えて前田はこの三日間、西川のために何もしてないのだ。支店長との直談判も、体調を崩して考え込む西川の相談相手になることも、放ったらかしだった。しかし、勝手なことに自分の責任は棚に上げながら、西川に対しては込み上げる気持ちを抑えることができない。強い語気の原動力には、自らに対する不甲斐なさも含まれていた。

「そんな、すいません。井村さん、怒らないでください」

 さっきの陽気な声から一転、西川は泣きそうな顔になった。うっすら涙を浮かべてうつむく西川の姿に前田は少し我に返り、「イカンイカン、冷静にならなければ」と自分に言い聞かせた。

「いや、スマン。ちょっとキツくなってしまって。怒ってないよ、別に。ただ、何をしてきたのかを知りたいだけだ」

 西川はうつむいたまま、一つ一つ、言葉を選んで説明した。

「ピンポンを押したらお母さんがでてきて。居間にあげてもらって、僕は仏壇に線香をあげました。雑談をして、預金の話になって、お母さんは自分じゃ決められないから、夫のいる土曜に来てくれ、と言いました」

 土曜といえば明日だ。前田はさらに聞いた。

「それで」

「それで、帰ってきたんです」

「その旨を杉田さんに報告したのか」

「はい」

「そしたらなんて?」

 西川はうつむいた顔を少しあげた。

「上出来だ、よくまた行ったって。土曜が勝負だから頑張ってこいと、言ってました」

 西川は褒められたというニュアンスを出来るだけ抑えているようだった。本当はさっきのように少し得意げに話したかったのだろうけど、前田が怒りの冷水をぶっかけたことで、西川はすっかり小さくなっていた。

「頑張ってこい、ってか。何か違うよな」

「へ?」

 前田の独り言に、西川は戸惑って目を泳がせた。自分に言い聞かせるように前田は続けた。

「頑張るところが、違うような気がする」

「あぁ、はい」

 西川はあいまいにうなずいた。こいつに俺の言いたいことは全然伝わっていないだろうな、と前田は思った。

 それにしても「よくまた行った」という杉田の言葉はどう考えればいいのだろう。杉田は意外感をもって西川の再訪問をとらえたのだろうか。最初からダメ元で発破をかけたのか、それともまさか本当に行くとは思っていなかったのか。

「あの・・・」

 黙って考え込む前田に、西川が遠慮がちに告げた。

「ちょっと午後からの予定が迫ってまして。すいませんけど」

 西川は腰を浮かせながら、わざとらしく腕時計を見た。予定があるのは嘘じゃないだろうが、この場から逃れたい気持ちのほうが大きいだろう。前田としてはもっとじっくりやりとりをして、最後はこれまで通りの気持ちいい別れ方をしたかったが、今はこれ以上話しても難しい気がした。ここはいったん解放して、仕切りなおしをしたほうがいいだろう。

「あぁそうか、分かった。すまなかったな、声を荒げちゃって。怒ってないから、これからも仲良しな関係で頼むぜ」

 前田の呼びかけに、西川は指でそっと涙をふき、やっと少し笑顔が戻った。

「はい。僕のほうこそすいませんでした」

 西川はそう言い残すと、一口も飲んでいなかったアイスコーヒーをグビグビッと一気に飲み干し、出て行った。


 前田は西川が出て行った扉をじっと見ながら、決意を固めた。これから銀行に帰ったら、真っ直ぐ杉田に会いに行こう。そして明日の再訪問をやめさすのだ。火曜から今日まで三日間と半日、何一つしてこなかった怠慢を取り戻すにはそれしかない。西川は前田と杉田の間で板ばさみになり、困り果てていた。支店長と主任に挟まれたら、支店長のほうへ顔を向けるのはむしろ当然だった。

「すまんかったな、西川」

 前田は誰にも聞こえないように小さくつぶやいた。現状をみると、無理を言って困らせているのは前田のほうだった。でも違うはずだ。理不尽なことを言って無用な板ばさみ状況をつくった主因は杉田にあるのだ。ねじれた事実関係を正常な形に戻さなければならない。杉田に直談判をして、筋を通さなければならない。

   ◇

 銀行へ戻ると、前田は二階の支店長室へ直行した。決済や営業結果の報告で何度も訪れたことがあるが、井村としてはもちろん初めてだ。いつの間にか、全身が緊張していた。開口一番、何を言えばいいのだろう。いや、そんなことを考え出したらキリがない。西川じゃないが、考える前に動くしかないのだ。そうだ、考える前に動くというのはこういう時に使う表現なんだ。自分の信念に基づいて正しいことをしようとするとき、余計な迷いを捨てるために使うんだ。心にもないことを無理して実行するときに、当てはめてはいけない。

 左側に木目調の扉が見えてきた。その上に「支店長室」の札が見える。近づくと、扉の隣に小さなプレートで「在室」と表示されていた。「支店長」「在室」。前田はその文字を目で確認しながら、ゆっくりと扉の前を通り過ぎ、五メートルほど先にあるトイレに入った。まっすぐ大便のブースに入り、鍵を閉める。ガチャっという無機質な音で体の緊張が少しだけほぐれた。

 迷わずに入る度胸がない。とりあえずいったん心を冷静にしてから、ノックをしよう。そう自分に言い聞かせながら、大きく深呼吸をした。それでも全然落ち着かない。

 ふと、前田は小学生のときの運動会を思い出した。一番得意なのは百メートル走だった。一緒に走るのはたしか六人だから、スタートラインに立つまでは縦六列になって待機する。交差する横の一列に並ぶ同級生が相手となるのだが、列の後ろだと自分の位置が前から何人目か分からない。それは皆、同じだ。だから、スタートが近づくまで自分の相手が誰かハッキリしない。だけど段々、分かってくる。クソッ四組の速い奴と一緒だ、ヤッタこの列なら一位を狙える。競う相手が分かれば、あとは思いっきり走るだけだ。トイレの中で呼吸を整える前田は、今まさに、この状態だと自覚した。

 運動場にクッキリ書かれた白線のスタートラインに立つと、緊張はピークに達する。でもあっけないほど簡単に号砲は鳴らされ、気がつけばゴールしている。自分の順位が書かれた旗の前に座ると小学生の前田は、例えようのない充実感を味わった。心臓は波打っているが、ついさっきまでの緊張は嘘のように消えている。心地よい疲労は快感に近かった。そういえばあんな感覚、社会人になってから経験していない。

 前田は百メートル走を思いだしながら、便器の前で両手を強く握った。スタートを待つとき、無意識のうちによくしていたのだ。パーにする、グーにする、パーにする、グーにする、それからゆっくりパーにしてブースのドアを勢いよく開けた。前田は手洗いには目もくれず、支店長室へ向かった。

 

 コンコン。頭を真っ白にして、前田はノックした。中から出てきたのは、杉田本人だった。

「おっ、井村君か」

 杉田は意外さと不審さが半分ずつ入り交じったような目で前田を眺め、つぶやくように続けた。

「ま、入りや」

 杉田は前田を招きいれ、手で指しながらソファーを勧めた。

「ああっ、どうも」

 前田は恐縮しながら、ソファーに浅く腰をかけた。

「で、どないしたんや。何か報告事項でもあったかいな」

 杉田は前田の向かいにドカッと腰を下ろすと、単刀直入に聞いてきた。前田の様子から、良いことで訪れたのではないと判断できるのだろう。口元は笑っていても目つきは厳しくなっている。

「いや、別にたいしたことじゃないんですけど」

「うん」

「実は、西川のことで、ちょっとお願いがありまして」

「西川?アイツ、何かやらかしたんかいな」

「いやいや、そんなことではないんですが」

 前田は杉田の顔の前で両手を大きく振り、否定した。

「そら井村、そない深刻な顔して来たら、誰でも良からぬことが発生したと思うで。まさか客の金に手をつけとかやないやろな」

「いやだから、その手の悪いことじゃないんですよ」

「ほんなら、なんや?」

 杉田の目は依然、厳しいままだ。

「その、ご遺族の家に定期を依頼する件なんですけど」

 ここまできたら、すべての本音を出し切って頼むしかない。前田はやっと覚悟を決めた。

「定期依頼?あぁ、昼前に報告に来た件のことか。なんや、井村君、西川からその話、聞いてんのか」

「えぇまぁ。一応、上司なもんで」

 前田は「井村」との呼び捨てから「君」付けに杉田の言葉が戻って、ホッとした。

「そうか、なんて聞いてるんや?」

 杉田の質問にどう答えるか、前田は一瞬、迷った。その隙を逃さず、杉田は畳み掛ける。

「支店長に怒られましたって、泣きついてきたか」

「いやいや、まさか。そんなことは全くありません」

「そうかぁ?いや別にそやからって俺はなんとも思わへんけどな。あいつが怒られるんは、当然の話や」

「当然?」

 前田は反射的に疑問を呈した。無意識だったが言葉に反発が込められていた。

「当然やろ。目の前に九千万もの金があって、むざむざ撤退するような甘ちゃんに払う給料はないで」

 杉田は自信満々だった。自分の話に酔っているような気配すら漂う。

「それは」

 前田はそう言って、ゴクリとつばを飲み込んだ。杉田は自分の手にタバコサイズの前田を乗せているような余裕を醸し出しながら、ゆっくりと口を開いた。

「それは?」

 握りつぶすのも火をつけるのも、杉田の思うとおりだ。小さな所有物の前田は、しかし全身の力をこめて、静かに切り返した。

「それは、おかしいと思います」

「おかしい?どこがや」

 予想外だったのだろう、杉田の言葉にかすかだが怒気がこもった。声が低くなる。

「井村、俺にそう言うってことは、どういうことか、分かってるんやろうな。おかしいやと。どこがおかしいんか、説明してくれ」

 前田はその迫力に、思わず黙った。杉田は真っ直ぐにこちらを凝視している。逃げ出したい気持ちが頭をよぎる。そして何もなかったことにしてほしい。だけれど、必死に情けない自分を打ち消した。状況を打破するには、前へ進むしかない。

「杉田さんの指示は拙速すぎると思います。お客様の気持ちというのがありますから、大切な娘さんを亡くなった直後にお金の話を持ち出さなくてもいいんじゃないか、と。何度か出向いて会話を交わして、十分に信頼関係を築き相手の気持ちもほぐれて、それから定期のお願いをしてもいいのでは、と思うんです」

「はぁ?」

 杉田は大げさにため息をついた。

「井村、その間に他行に定期預金されたら、お前、九千万、ウチに預けてくれんのか」

「いや、そういう話じゃなくて」

「できるんか、できへんのか。それを聞いてんのや」

「そりゃ、そんな大金、あるはずないですけど」

「お前、どないしたんや。熱でもあるんちゃうか?西川みたいなこと言うて。そりゃそんなことが通じたら、なんでもそうやで。担保足りへんけど目の前にいる零細企業の社長さん、もう七十歳すぎでうなだれてるし、融資してやったほうがエエやろうなぁ。ほな可愛そうやから五千万円貸しますわ。そんな道理になるんかい、え?」

 杉田の言ってることは、金融に携わる人間なら当たり前の常識だった。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。前田は無我夢中だった。

「たしかに、それはおっしゃる通りです。けれど、法人に対する融資と一般家庭への営業は一緒にしなくてもいいケースがあるのではないかと」

 勢い込んで言ったが、言葉が続かない。説得力のある理論構成で劣勢を跳ね返さなければならないのに。杉田が余裕をみせた。

「どっちも大事な業務やけどなぁ。ほんなら一緒にしなくてもいい理由を言わんかい」

 そう投げつけると、杉田はスーツの胸ポケットからタバコを取り出し、火をつけた。正面に座る前田の脳はフル回転していた。一時間に考えるトータルを十秒に圧縮しているような密度を感じる。法人と一般家庭の違いは・・・。どうすれば杉田に分かってもらえるのか。急に一つの言葉が頭に浮かんだ。脳の中の茶色の荒野で、その言葉は青く光っていた。

「杉田さんは、お子さんを亡くしたことがありますか。もしなければ、誰か身近な人を若くして失ったことはありますか」

「お前、ケンカ売ってんのか」

「売ってません。すいません、お子さんの話を持ち出したのは不適切だったと思います。だけど、昨日まで元気だった身近な人がある日突然、なんの前触れもなくいなくなってしまった経験がある人と無い人とでは、たぶん色んな物事を考えるときに大きな差がでると思うんです」

「そんな経験、あるわけないやろ。縁起でもない」

「私はあります」

 タバコを持つ杉田の手が一瞬、止まった。前田は塚本の顔を思い浮かべていた。

「二十二歳のときです。大学の後輩だったんですが、彼はとても私を慕ってくれました。よく飯も一緒に食べたし、男三人で北海道旅行へ行ったこともあります。ハリウッド映画が嫌いで、スペインやイスラエルとかの、注目は集まっていないけれど人間味があふれる作品を見るために、小さな映画館を一日に何軒もはしごするような男でした。ですが」

 前田は一呼吸置いた。大学時代を銀行に置き換えれば、すべて塚本にあてはまることだった。杉田はタバコをくゆらしながら、黙っていた。前田は、それを確認してから続けた。

「ですが、交通事故で亡くなりました。本当に突然で、さよならさえ言えませんでした。前日まで元気だったのに、もう電話してもソイツが出ることは二度とない。いやそれより、二度と会うことができない、という事実を受け入れるまで、何年もかかりました」

「で、言いたいのは何やねん」

 杉田が苛立たしげに聞いた。前田はひるまずに、話す速度を落として、続けた。

「言いたいのは、そんなときに慰謝料の営業へ行っても、逆効果になることがあるんじゃないか、ということです。相手の気分を害したら、むしろその後の取引を停止される恐れもあるます。交通事故の被害者やご遺族らは同じ立場の人どおしで横のつながりをもつことも多いです。何かの集会や講演会で、ウチの銀行への批判が出て、もしもテレビや新聞で報道されたりしたら、悪影響は計り知れません。西川の行った家庭は、これまで母親が対応していたのですが、明日は父親が出てきます。父親は非常に正義感が強くボランティアにも熱心で、感情の起伏が激しいそうです。母親に比べたら、ですけど。亡くなられた娘さんへは、何でも納得してから実行しろ、と教えていたそうです。筋を通さない人間は大嫌いだって。実際、もうすでに同じように交通事故で家族を亡くされた遺族団体の資料とかを取り寄せています」

 父親の性格は、前田の創造だった。今回の強引な営業に対し、西川にとって最も面倒な相手をとっさに創り出したのだ。前田はゆっくり話していることもあってか、自分でさえ驚くほどスムーズに作り話をつむぎだすことができた。

 営業や勧誘で最も扱いやすいのは気の弱い人、自分の意見をきちんと主張しないタイプだ。こちらのペースに引きずり込みやすい。逆に、キッパリ断られると「あぁダメだったな」で済む。

 問題なのは、断るのはもちろんのこと、さらに理詰めで反論されることだ。第三者的な立場でみれば、西川の営業に否があるのは明らかだった。それを、質問に次ぐ質問で浮き彫りにされてしまうのだ。「お宅の銀行はいつもこんなことをしているのか」「遺族の感情を少しは考えろ」「新聞に投書してやる」「金さえもぎとれればいいのか」「本店に苦情を言う」「預金先をすべて他行に変える」。

 問題が大きくなればなるほど「来なければよかった」ということになってしまう。今回はそういう最悪の状況が見越せる相手だと、前田は杉田に伝えたかった。嘘でも何でもいい。西川に営業へ行かせないことが目的なのだ。クレームが大きくなればなるほど、当然、支店長自ら火消しに動かねばならない。西川と一緒に謝りに行ったり、本店に処理報告をしたりする事態は、杉田だって避けたいはずだ。

「そんなこと、西川は一言も言っとらんかったぞ」

 杉田は不満そうだった。

「そこまで言わなくていい、と思ってたみたいです。営業マンといっても新人研修の時期を除けばやっと一年たつかたたないかくらいの経験しかないし、厄介な相手に、あたったこともないんでしょう。そんなに考慮すべきことじゃない、と判断しているみたいでした」

「ふーん。活動的なタイプか」

 杉田はそう言ってタバコを灰皿に押し付けた。前田は黙って次の言葉を待った。

「井村さ、それ最初に言うことちゃうんかい。お客様の気持ちとか、信頼関係とか、御託並べる前にオヤッっさんの面倒なキャラクター報告するほうが先やろ」

 前田は風向きが変わるのを感じた。

「あぁっ、スイマセン。気が回らなくて」

「いや、回る回らへんの問題やなくてよ。俺が仕事にクサい感情持ち込むの嫌いなん知ってるやろ。そういう人間味持ち出したら負ける世界なんや。それはよく分かってるやろ」

「はい、もちろんです」

 前田は全く同感しなかったが、勢いよく頭を下げた。

「せやったらエエけどやな」

 杉田は呟いてから、また黙ると、おもむろに席を立った。そのまま自分の机に戻って、読みかけていたファイルに目を通し始める。

 ソファーに座ったまま凍りつく前田を残して、時間は刻々と過ぎていった。どうすればいいのだろう。それでも西川に指示どおり営業に行かせるのだろうか。とっさの作り話で手応えを感じられたが、とはいえ杉田なら当然あり得る選択肢だけに、前田は落ち着かなかった。かといって、これ以上、言うことも無い。

 前田の正面に支店長室の壁時計があった。前田がソファーに一人残されてから五分がたとうとしている。沈黙を破ったのは杉田だった。

「よっしゃ、分かった」

 杉田はバタンと音をたててファイルを閉じると、真っ直ぐに前田の方へ向き直った。視線がぶつかり合う。そらすわけにはいかない。前田も負けずに、力をこめて杉田の目を見た。

「猶予期間を与えたろう」

「猶予期間?」

「そや。西川に九千万引く二千万の七千万円、獲得してこいっちゅう指示は変わらへん。そらそうやろ。支店長が一度出した命令を、二年生相手に変えられるかっちゅう話や。なめられるわ」

 杉田はそこで一呼吸置いて、すぐ続けた。

「せやけど、明日中にとってこいというのは止めにしたる。確かに井村君の言うとおり、厄介なオヤジさんやったら逆効果になりかねん。自慢やないが、俺、西川を結構追い詰めてやったからな。相手の家で話がこじれたら、ビックリするような下手こくかもしれん。若いもんは何するか分からんからな。そこでや、そうやなぁ、一ヶ月、いや二ヶ月やろか。二ヶ月後に残りの七千万円、とってきたという報告をしたら勘弁してやるっちゅうことにする。それやったら文句ないやろが」

「はい」

 前田は目の前の霧が晴れていくような快感を覚えた。

「この件に関しては、井村君も共同責任やからな。二ヶ月たってもとれへんかったら、そのときはここで二人並べて怒鳴りつけるから、覚悟しとけよ。先輩の面目丸つぶれや。あくまで競争やねんから。俺らは毎日、他行に負けへん、大きく水をあけるために生き馬の目を抜く戦いをしとんねや。目の玉を円マークにしてな」

 杉田は両手の親指と人差し指で丸を作り、自分の目に重ねた。

「まぁでも二ヶ月間は何も言わんから、西川には君から伝えといてくれ。以上」

「ありがとうございます」

 前田は深々と頭を下げた。意外と話の分かる奴じゃないか。前田はうれしくて涙が出そうだった。早く西川に伝えてやりたい。スキップしたい気分を抑えながら、前田は支店長室を出て行った。目的を達成した充実感が胸を渦巻いていた。

   ◇

 夜九時ごろ支店に戻ってきた西川は、前田の顔を見るとすまなそうにうつむき、目をそらした。喫茶店で怒られ、逃げるように席を立ったことが尾を引いているのだろう。前田はなるべく自然な笑顔を意識しながら、声をかけた。

「おぅ、お疲れさん」

「あぁっ、どうもお疲れさまです。昼間はすいませんでした。話が途中だったにもかかわらず」

「いいんだ、いいんだ。そんなこと気にするな。というかもう解決したんだ」

「解決?」

 不思議そうな顔の西川に、前田は満足感を覚えた。

「そう、解決。ちょっと休憩でもすっか。冷たいコーヒーでもおごるよ」

「はぁ」

 西川はまだ納得いかないようだ。

「教えてやっから。その中身を」

 前田はそう言い残すと、さっさと先に部屋を出て行った。


 廊下の奥の自販機で前田はレモンティーとコーヒーを買った。隣にあるプラスチックのベンチに腰を下ろすと、西川も隣に座った。視界に他の行員はいない。西川に缶コーヒーを渡すと、前田は正面を向いたまま、口を開いた。

「ご遺族の家に七千万円の定期を依頼しに行く件だけどな。あれ、急がなくてもいいことになったから」

 西川は黙っている。前田は気にせず説明した。

「支店長に頼んだら、明日すぐにではなくて、二ヵ月後でいいことになったんだ。その間、この件は俺が担当する。それも支店長指示だ」

「えぇっ」

 西川の表情に驚きとうれしさが走る。前田は西川のその変化を見ながら、肩を手でポンと叩いてやった。

「というわけで、ちょっと考えたんだけどな。明日は予定通り、父親に会いに行くんだ。ただ、金の話は絶対にするな。そして、ご両親の話をよく聞くんだ。手土産も忘れずにな。相手が気を使いすぎるような、高すぎるもんはダメだぞ」

「ちょっと待ってください。本当ですか、それ」

「当ったり前だろ。俺がこんなことで嘘つくと思ってんのかよ」

「いや、すいません。でもなんか夢みたいで」

「現実。それより、分かったんだろうな。明日は金の話をしないんだぜ、絶対」

「はい」

 西川は素直にうなずくと、抑えられないように疑問をぶつけた。

「それにしても、支店長がよくオッケーしてくれましたね」

「ふふっ、まぁな。俺もこの会社、長いし」

「なんて言って頼んだんですか?」

「まぁいいじゃないか。詳しいことは。西川の不利になるようなことは言っちゃいないから安心してくれ。あ、そうだ。父親についてはな、すぐにクレームをつけそうな厄介なタイプだと強調しておいたから。もし支店長に何か言われたら、話をあわせておいてくれ」

「へへぇ、分かりました。なるほど、それが支店長の気を変えさせた理由ですね」

「理由の一つではある。でも後は俺と支店長の人間関係だよ」

「さっすがぁ。格好いい」

 西川の声や表情に月曜、初めて駅前で見かけたときの新鮮さが戻っていた。ホッとする前田に、西川は礼を言った。

「井村さん、ありがとうございます。実は本当に気が重かったんです。今日も営業しながら、ズッと明日のことが頭から離れませんでした。昼間、前田さんに怒られて、というか指摘されて、やっぱり自分のしていることはおかしいんだ、と自覚したんです。でも自分ではどうしようもなくて、やっぱり辞めるしかないのかと、困ってました」

「いや、俺も悪かったよ。支店長と俺の板ばさみにしてしまって。もっと早く支店長に話をつけるべきだったんだ」

 前田は本当に申し訳なく思っていた。でも、これでなんとか取り返せたんじゃないだろうか。前田は口調を明るくして付け足した。

「もし二ヶ月たっても獲得できなかったら、二人で怒られりゃいいさ。二人ならだいぶ衝撃も薄れるし、そうなりゃその夜は、嫌なこと忘れられるようにパーッと大騒ぎしようや」

 西川は表情を引き締めた。

「ええ。でも、こうなればあとは僕の力量です。そんなことにならないよう、頑張ります」

「おっ、頼もしいね。ま、肩の力抜いて、一緒に頑張ろうや」

 前田はそう言って、もう一度、西川の肩を軽くたたいた。

   ◇

 土曜の夕方、西川は嬉しそうに報告しに来た。

「井村さん、ご遺族の家でお父さんに会ってきました」

「おっそうか。どんな人だった?」

「温和な人でしたよ。クレームつけるようなタイプじゃなかったです。でも、やっぱり大切な娘さんを亡くされた悲しみというのは本当に深くて。僕みたいな部外者にこの気持ちは絶対分からない、って言われました」

「そうか」

「だけど、娘さん、由美さんというんですけど、由美さんの話をたくさんしてくれました。僕、もちろん会ったことも無いんですけど、なんだかこう目に浮かぶようでした。中学生で、サザンオールスターズが大好きだったって。僕もサザン、好きなんで、よけい身近に感じてしまいました」

「なるほど。その悲しさや喪失感みたいなものを、ご両親と共有できるようになれたらいいな」

「はい」

「これから毎週、できれば二回、最低でも一回は顔を出せよ。忙しくてそれさえ無理なら手紙を書く。とにかく毎週、誠意を見せるんだ」

「分かりました」

「でも、あれだぜ。その誠意も預金獲得のため、っていうんじゃ最低だからな。そんな奴は死んだほうがマシだ。二ヶ月たって七千万円の獲得ができたら、連絡が途絶えて音信不通、なんてことになれば、逆にご両親の気を落とさせることにもなりかねない」

「本当にそうですね。僕、昨日ちょっと寝る前に考えたんですけど、とりあえず預金のことは忘れて、人生勉強のつもりで行くことにしたんです。二ヶ月あるし、ご両親から少しでも信頼を得られたら、何かの拍子に『あっ、そういえば銀行員の方でしたね、じゃついでだし定期もお願いしておこうかな』ということも起き得るんじゃないかなって。そうなったら理想的だなぁって」

 西川の言葉に、前田は少し感動していた。前田の気持ちが西川に伝わっていた、と実感した。いや、伝わったのではなく、西川が自分で考えてたどりついたんだ。それがたまたま前田と同じだっただけだ。誰かに方向付けられるのではなく、自由な発想で自ら考える。その結果は人から言われるより、はるかに身につくだろう。

「うん、理想的だ。やっぱ、銀行員である前に一人の人間でなくっちゃな」

 前田は相槌を打ちながら、もう西川に言うことはないかな、と思った。あとは、来週以降の井村本人に、どうやってこの経緯を引き継ぐか、だ。

 西川課長を変えられるか、というペンギンの宿題には答えられたのだろうか。前田には分からなかった。もっと一生懸命、西川に付きっ切りで何かをしてやるべきだったのかもしれない。もっとたくさん、指導するべきだったのかもしれない。わずか一週間という時間を、有効に使いきれなかった気もする。だけど、考え出したらキリがないし、とりあえず及第点には達した満足感があった。

 ひょっとしたら、今日が若い西川に会う最後の機会かもしれない。何か言い残したことはないだろうか。前田は西川の顔を見ながら考えた。そうだ、一つだけ、言っておこう。

「西川」

「はい」

「今の気持ちを忘れんなよ」

「えっ?」

「この一週間、自分に起こったこと、そして感じたことを何十年も忘れないように生きてくれ。お前の人生はこれからが大切なんだ」

「何十年ですか。気の長い話ですねぇ」

 前田は顔を引き締め、厳格な口調で念を押した。

「真面目な話なんだ、これは。頼んだぞ。忘れてはいけない」

 西川は少し驚いたように目を丸くして、うなずいた。

「分かりました。忘れません」

「手帳に書いておくといいかもな」

「はっ、はい。書いておきます」

 前田は最後のメッセージが西川の心の奥へ届くことを願った。そして小さくなってもいいから、その奥でいつまでも、ずっと消えずに残っていることを。

   ◇

 今日でたぶん、この職場も最後かぁ。とはいっても荷物の整理や離任のあいさつまわりとは無縁の世界だけれど。前田が妙な感慨にふけりながら帰り支度をしていると、若ちゃんが笑顔で近寄ってきた。

「井村さん、毎日遅くまで大変ですね。働きすぎ働きすぎ」

「えっ。そうでもないよ。みんなこんなもんだろ」

「そんなことないですよぉ。元々井村さん、残業多すぎる、ってみんな気にしてるんですから。あんまり根詰めると過労死しちゃうから注意してくださいね」

「過労死。死んじゃうの?怖いなぁ」

「いや、実は昨日テレビで見たんですよ。ニュースの特集なんですけど、働きすぎで死ぬ人が増えている、って。だから色々みんなに教えてあげたくて。今日は井村さんで五人目、いや六人目かな、言うの。なにせ突然なんですよ、ホントに。ストレスがたまって無理してるとね、急に頭や心臓がキューって」

 若ちゃんは右手で頭、左手で胸をおさえて苦しそうな表情をつくった。たこ焼きの屋台で見かける、ハチマキをしたひょうきんな図柄のタコのようだった。前田には笑わそうとしているとしか見えない。

「キュー?」

「やだな、悲鳴ですよ。擬音擬音。助けてくれーって叫ぶんです」

「そりゃ怖いな。声が聞こえるんだ」

「もう、真面目に聞いてくださいよ。自殺する人もいるんですからね」

「自殺?」

 そういえば、と前田は突然、思い出した。ウチの銀行でも昔、過労自殺した人がいたんだ。前田が入行する前だから直接は知らないが、労災認定などをめぐり、たしか遺族側が弁護士をたてて会社と争っていたはずだ。一連の経緯は小さくだが、新聞記事にもなり、前田はそのスクラップを読んだ記憶があった。

「そうです。朝会社に行くと、その人が首吊ってるんです。課長の机の上とかで・・・」

 若ちゃんの声が急に前田の耳から遠くなった。全身から汗が噴き出し、心臓が壊れそうなほど大きく脈を打ち始める。恐ろしいことを思い出したのだ。そんなはずはない。あり得ない。前田はガタッと椅子を後ろに倒して席を立つと、わき目も振らずに外へ向かった。嘘に決まっている。じっとしていられない。若ちゃんが何か言っているが、聞こえない。歩いて、動いて、走って走って壊れたい。訳が分からない。だってそんなことがあるはずない。あっていいはずがない。前田の頭の中を過労自殺した社員の名前が駆け巡っていた。井・村・英・彦。

 四つの字はそれぞれ独立して、大きくなったりねじれたりしながら前田の脳内を縦横無尽に飛び回っている。嘘だ。冗談じゃない。文字は脳の壁にぶち当たると、パチンコ玉のように勢いよく跳ね返り、一層濃く、力強い動きになっていく。やがて、四文字はなんの規則性もなく突然、磁力で吸い付けられるように一列になった。井村英彦。自殺したのは間違いなく井村だった。俺じゃないか。やめてくれ。前田はしがみつくようにその四文字を、また一字ずつにばらそうとした。でも、さっきまで自由気ままに宙を舞っていたのが嘘のように、文字はガッチリ、セメントでくっつけられたようにピクリとも動かなかった。井村英彦。前田の顔はいつの間にか涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。冗談じゃない。信じたくない。

   ◇

 どれくらい時間がたったのだろう。気が付くと前田は、月曜の夜に西川と話し込んだ公園に来ていた。ベンチに一人で座り、風に揺れるブランコを眺めている。

 どうすればいいのか。途方に暮れる前田をよそに、公園脇の歩道からは若い女性らのにぎやかな声が聞こえた。今日は六月、夏を控えた土曜の夜だ。友人や恋人と笑顔で語り合う若者と今の前田との間には、奇怪で深い溝があった。一体、今の状況をどう説明すればいいのか。だが、もし若者らに話しても、精神病院に連れて行かれるのが関の山だった。

 前田は自殺した社員名について、何度も記憶違いだと言い聞かせた。スクラップを見たのはもう四、五年前だ。名前に勘違いがあっても不思議ではない。でも、そう思い込もうとすればするほど、逆に記事の名前の四文字だけがクッキリと脳裏に甦ってくる。「井村英彦」に間違いなかった。

 ただ、歯がゆいことに記事のほかの部分はおぼろげだった。肝心の自殺理由が、どうしても思い出せない。第一、理由が載っていたかどうかも曖昧だった。一体、井村はなぜ自殺したのだろうか。

 前田は気を取り直して、冷静になろうと心がけた。井村が自殺をするのは、どうやら確実のようだ。ならば、事実は事実として受け入れ、対策を練るしかない。明日までに何ができるか分からないが、やるだけのことはやらないと大きな悔いが残る。

 防止策をたてるには原因解明が不可欠だ。前田は自殺の時期からたどってみることにした。前田の入行は一九九七年だから、それ以前なのは間違いない。記事の記憶からして、その数年前にあたる九〇年代前半だったような気がする。だとすれば、今より七~九年後。三十五歳の井村が四〇代前半になった時だ。まさに働き盛りで、過労死をしやすい時期ともいえる。

 しかし、前田は一週間、乗り移ってみて思うのだが、井村の仕事量は標準の範囲内だった。少なくとも現段階では、自殺するほど多いとはとてもいえない。西川や若ちゃんからの接し方をみても、明るいタイプと判断できる。悩んで自殺するような人間とは、とても思えなかった。

 だけど、あくまでそれは表面上のことで、実は心中で思い詰める性格だったのかもしれない。これから九〇年代後半にかけて、思いもよらない悲惨なことが井村を襲うのかもしれない。

 前田は一息いれて頭を真っ白にし、夜空を眺めることにした。ボーっとしていると、何か突然、アイデアを思いつくかもしれない。あいにくの曇りで、月も星も見えなかった。両手を頭の後ろにまわして、思いっきり伸びをしてみる。この肉体が、この腕が、十年もたたずに灰になってしまうというのか。ウゥッ、ダメだ。また泣きそうになる。でもこれ以上、泣いている時間はないのだ。原因を考えなくては、対策を講じなければ。

「あぁっ、ダメだ」

 前田は声に出して言った。どんなに考えても推測の域を出ない。手がかりが少なすぎた。

「原因は、予想もつかない。以上」

 あきらめと疲労と悔しさと、それでも何かをしなくてはならない焦りを込めて、前田は夜の公園に深いため息を吐き出した。

   ◇

 涼子には何と言えばいいのだろう。帰宅する電車に揺られながら、前田はそればかり考えていた。一週間、世話になった駅へ着くと、いつもどおり井村の財布から定期券を取り出して、改札を抜けた。バス停までの道は小さな商店街のようになっているが、どの店もすでに閉まっていた。

 この駅へは元の時代に戻っても訪れることができるな、とボンヤリ思いながら歩くと、ふと視界の右隅に何かが光っていることに気づいた。その光はとても微かで、ある店のショーウィンドウから発せられていた。前田の心臓の鼓動が、また早くなる。ショーウィンドウには見覚えのある大きなぬいぐるみが飾っていた。三体あり、真ん中の猫は手に西洋ランプを持っている。一週間前、前田が新聞広告を見てビルを訪れたとき、隣の邸宅の二階窓に見えたものとソックリだった。

 三体のぬいぐるみを飾る店はおもちゃ屋だった。ショーウィンドウには仮面ライダーの変身ベルトやお姫様の人形、積み木などが並べられているが、この三体は明らかにバランスを欠いて巨大だった。体型はスマートだが、高さは一メートルほどある。ショーウィンドウに並べられていた品々を突然、蹴散らして占領したようなあつかましさを感じた。前田は毎日、この駅で降りて営業時間を終えた商店街を通り抜け、帰宅しているから断言できる。昨日までこのぬいぐるみはなかった。あれば気づかないはずがない。

 前田はゆっくりと近づいてみた。ペンギンのビルへ入る前は分からなかったが、真ん中は猫、両脇はウサギだった。いずれも二本足で前かがみに立ち、猫だけが半袖、半ズボンの動物らしい?奇妙なスーツを着てネクタイを締めていた。表情は冷たくニコリともせず、ぬいぐるみなのにふくよかさが全くない。とても商品とは思えない、生々しさだった。とはいえ値段があるなら見てやろう。そう思ってさらに近づくと、猫がしている腕時計に目が留まった。黒いバンドに銀色の時計の針を見て、前田はギョッとした。長針も短針も、あり得ないスピードで回っている。秒針よりもはるかに早く、短針が長針を何度も追い越していた。前田は思わず一歩、さらにもう一歩下がった。

 猫は相変わらず二匹のウサギをしたがえて、前かがみでランプを持っている。

 一体、どういうことなのだろう。前田は少し考えてから、すぐに二、三度うなずいた。そうか、分かった。そういうことかよ。前田は目の前の事情を自分なりに解釈し、言い聞かせた。

「そういうことだな」

 猫の方に顔を向けつつも、直視したくないので視線を微妙にそらしながらつぶやいた。もう時間がない、ということだな。そろそろタイムスリップする時間だと、教えにきたのだろう。前回は、邸宅の窓に飾られたぬいぐるみを見かけてから数時間で今の時代に来た。というか自分の意思とは関係なく、大きな波に飲み込まれるように、気づいたら二十年をさかのぼっていた。今回も数時間なのかは分からないが、この時計の針の動きが何よりのメッセージだった。急いだほうがいいぜ、という。元の時代へ戻る時が、確実に近づいているのだ。

「分かった、ありがとう」

 前田は精一杯の虚勢を張って、猫の顔に向けて右手の人差し指を突きつけた。猫は相変わらず微動だにせず、黙ってランプを持っていた。

 前田はショーウィンドウにくるりと背を向けると、バス停に向けて歩き出した。時間がない。方法はまだ思いつかないが、なんとか自殺防止へむけて涼子と話しあわなければ。井村には手紙を書くことにしよう。頭のなかでグツグツと考えを煮込みながら商店街を抜ける頃、例のショーウィンドウから西洋ランプの微かな光がフッと消えたが、前田が気づくはずもなかった。

   ◇

 帰宅すると、涼子は台所のテーブルで雑誌を眺めていた。

「おかえりー。ご飯食べた?」

「いや」

 前田は涼子の笑顔を見ると、言葉に詰まった。これまで自分の結婚など意識してこなかった前田だが涼子と接していると、何となくだけれど、一人の女性と支えあって生きられるのなら、それもいいかなと思い始めていた。前田の気ままな考えに、正面から涼子自身の言葉で返してくれるのが嬉しかった。だけど、その涼子を数年後に悲劇が襲う。まったく、井村は一体、なんの理由があって大切な家族二人を残し、自分だけ死ぬなどという勝手な選択をしてしまうのか。前田は腹立たしくなった。

「どしたの?黙りこくっちゃって」

 涼子の言葉に前田は慌てて我に返った。

「いやいや、なんでもないよ」

「まーたー、西川君のことじゃないの。あっ、そういえばどうなったのかな、ご遺族への営業の件。辞める辞めないの話は大丈夫なのかしら」

 西川のことを涼子に話すのは、月曜の夜以来だった。

「あぁ、あれね。いや、あれは行かなくてもいいことになったんだよ。だから辞めることもない」

「ウソ、本当に?支店長が許してくれたの、それで」

「うん、まぁね。気が変わったみたい」

「へぇー、そぉー」

 涼子は疑い深げな目を前田に向けた。

「あっ、と。行かなくてもいいというのは間違いだな。正確には明日あさっての間に全額獲得してこいって指示を二ヶ月後でいい、っていう風に延長したんだ」

「あの支店長が、急に?」

「うん、まぁ」

「信じられない、何か隠してるでしょ」

「いやいや、そんな」

 前田は自分の功労を涼子に自慢するような気になれなかった。「いやいや僕がちょっと支店長に直談判してね」などと呑気なことを言っている場合ではない。今は自殺防止のために、時間を使わなくてはならないのだ。でも、何と言えばいいのかさっぱり分からない。「近い将来、私は自殺する可能性があるので、なんとか察知して止めてほしい」。直球で勝負するとこうなる。もしくは「今後、挙動不審な点があったら見過ごさずに、その場で対応、解決してほしい」か。だけど、どちらにしろそんなことを口に出せば涼子に「この人、頭がおかしくなったのかしら」と思われるだろう。「精神病院に行く必要があるのでは」などと余計な心配を抱かせては、一体何をしたいのか訳が分からなくなってくる。気づいたら前田は独り言のように言葉を漏らしていた。

「色々なことがあるからなぁ、人生は」

 涼子は目を丸くした。

「何よ、いきなり」

 前田も自分がどういうつもりで言ったのか、よく分からない。なんとか危機感を共有したかったのかもしれない。

「いや、ごめん。一般的なことなんだけどさ」

「ふーん。そりゃ色々あるわよ。生きてたら。当たり前じゃない。でも、運が悪いとしか言いようがない悲しいことは、無いにこしたことないわね」

 前田はドキッとした。涼子と話していると、たまに心を読まれているような感覚に襲われる。前田は涼子の直感の鋭さに脱帽するしかなかったが、努めて冷静に答えた。

「そりゃそうだ。その通りだよ。悲しいことは無いほうがいい」

 井村の自殺は涼子にとって、まさしく不運だ。でも、なんとか止められないだろうか。横断歩道を渡っていたら突然、信号無視の車が飛び出してきて、跳ねられ亡くなってしまうような理不尽極まりない事故でも、発生することがあらかじめ分かっていれば、その時間、その場所へ行かないことで予防できる。その点で考えると井村が自殺する日時と場所さえ分かれば、その場へ涼子を向かわせて、寸前で思いとどまらせることが可能なのだ。しかし、日時どころか年さえハッキリしない。

「まーた、考え込んでる。暗い顔して、感じ悪いよー」

 涼子が明るい声で言った。少し無理していることが、前田にも伝わった。

 やめよう、前田は頭を切り替えることにした。どんなに考えても、いい方法が思い浮かばない。このまま深刻な雰囲気をまとって悩んでいたら、それ自体が涼子の不安をあおることになってしまう。実際、今、そうなりつつある。将来の悲劇を防ぐことは大切だが、そのために今、涼子を不安にさせたくなかった。しかも今の不安に耐えれば悲劇を回避できるという訳では全く無いのだ。

「分かった。ごめん。感じ悪いな。よっしゃ、感じ悪いのやめっ。飯食おっと」

 前田は、自殺という言葉をひとまず捨てて、続けた。

「今日は何かなー」

 テーブルの上には何も載っていなかった。涼子は少し笑顔を取り戻した。

「今日はカレーよ。智美のリクエストでね。カツカレー。トンカツは今から揚げるから、ちょっと待ってね」

「おっ、カレーかぁ。いいねぇ」

 実際、前田はカレーが大好きだった。涼子がエプロンをつけながらぼやいた。

「我々中年にはカロリーが高いけどね。ホントに智美も男の子みたいなんだから。カツカレー食べたい、なんて」

「ハハッ。ま、食欲があるのはいいことだよ。育ち盛りだからな」

「でも、そろそろ男の子の視線も気になる頃だと思うけど」

「まだ先だよ。中一なんだから、そんなの。ダメダメ」

「そうかなー。分からないよー」

 前田は何気ない会話に宿る幸せをかみ締めていた。こんなことで幸せを感じる自分に驚き、少し居心地の悪さも感じた。だけど、現実に幸せを感じるのだ。初めて味わう不思議な気分だった。

 この環境がいつまでも続いて欲しいと心から思う。だけど、このままでは井村の自殺によって破綻してしまう。涼子と会話をしながら、前田の頭は井村への手紙に何を書こうかという方向に急旋回していった。

   ◇

 夜十二時を前に涼子は寝てしまった。前田は、涼子に何も言えなかった後悔と情けなさに一人、台所のテーブルでため息をついた。もっと賢ければ不安を抱かせずに、将来への危機感を伝えることができたのかもしれない。もしそんなうまい言い回しがあれば是非教えてほしい、と前田は心の底から思った。だけど考えれば考えるほど、不安と危機感というのはセットのような気もしてくる。どちらか一方だけ伝えたいなどと思うことじたいが、どだい無茶な作戦なのかもしれない。

 ならば開き直って、セットと分かりつつ涼子に不安と危機感を伝えてみるか。自分の正体をばらしてしまえば、気を使う必要もなくなる。人の命がかかっているのだ。しかも時間はない。悠長なことは言ってられない。

 しかし、前田はすぐにその考えを打ち消した。やはり「頭のおかしい人」にされるマイナスは大きすぎる。前田は元の時代に戻るからいいが、井村本人に迷惑がかることは極力避けたかった。

 その井村へ手紙を書こうと、前田はテーブルに便箋を広げていた。行の線だけが印刷された真っ白な便箋をじっと見つめる。自分のことをどう表現しよう、一週間の経緯をどう説明しよう。そして何より自殺のことをどう伝えよう。ペンを握ったものの、考え出すと一向に書き出すことができなかった。でも、書くしかないのだ。やがて、前田は金縛りが解けたように一気に書き始めた。

 

「拝啓 井村英彦様

 突然のお手紙、大変、驚かれることと思います。申し訳ありません。

 まず、私自身のことについて、単刀直入に申し上げます。私は一九八五年六月二十四日、月曜日から三十日の日曜日まであなたの体に乗り移っていた者です。私の想像ですが、井村さんは二十三日の日曜夜、寝室で眠りにつき、気づかれたら今なのではないかと思います。井村さんの感覚では、目覚めるのは二十四日の月曜朝ですよね。しかし、現実にはその一週間後です。どうかこの手紙を読み終えましたら、新聞などで今日の日付を確認してみてください。

 なぜ、私が井村さんの体に乗り移ることになったのか。これは私自身にも不可解なことばかりで説明できないので、省きます。訳が分からないと思われるでしょうが、許してください。

 では、引継ぎの意味をこめ、この一週間に起きたことをご報告します。会社へは毎日定時に出勤し、井村さんの仕事はきちんと消化しています。家族や同僚とは会話を交わしましたが、特段、ここに書くようなことはありません。ただ、西川君に関して、一点ご報告があります。

 月曜、西川君は交通事故で娘さんを亡くされたご遺族の自宅へ、定期獲得の営業へ行きました。気持ちの優しい彼は、まだ納骨も済んでいない打ちひしがれた母親に対し、事故の慰謝料全額を定期預金にしてもらうよう、強く依頼することができませんでした。私自身、これは当たり前のことだと思います。しかし、杉田支店長がそれをひどく叱責したため、西川君は会社を辞めようか、とまで思い詰めました。私は何とか理不尽な営業の指示を撤回させたく思い、金曜に支店長と直談判しました。こんなことで彼を辞職させるわけにはいきません。その結果、「今週中に全額回収」の指示を「二ヶ月以内に全額回収」に変更させることができました。

 西川君へは、お金よりもご遺族の気持ちのほうが大切だと伝え、今後毎週、自宅へ行くなり手紙を書くなりするように言いました。支店長からはこの件について、二ヶ月間、私が担当するよう言われました。二ヶ月間、支店長は何も首を突っ込まない代わりに、私が責任者として、定期獲得に努力する。そして二ヵ月後に獲得の報告をしてこい、という訳です。

 そのため、二ヶ月間、井村さんにはご迷惑をおかけますが、よろしくお願いします。ただ、私としては、ご遺族に無理を言うくらいなら、支店長に「すいません、無理でした」と頭を下げるのもありかな、と感じています。もっとも、そうなれば支店長の怒りの矛先は井村さんに向かうため、無責任なことはいえないのですが。あとはお任せします。

 蛇足ですが、西川君は非常に井村さんのことを慕っていますね。入行二年目の新人が、井村さんの年代の上司に接する態度としてはとても素直で楽しげで、驚きました。西川君にそうさせている井村さんに私は敬意を表します。

 

 さて、話は変わります。

 一週間の経緯とは別に、私はもう一つ、井村さんに伝えなければならないことがあります。

 唐突ですが、私は今から何十年か後の未来からきました。もちろん井村さんとは知り合いでもなんでもありません。ただ、一ついえるのは、井村さんはこれから、ちょっと予想もできない困難にぶち当たる可能性があるということです。ひょっとしたら人生が嫌になり、自ら命を絶ってしまいたくなる衝動に駆られるかもしれません。

 しかし、絶対、実行に移してはいけません。井村さんはそこを耐えれば、必ずそれまで以上の安定した日々を送れます。ですから、どうか思いとどまってください。今、これを読まれても何のことだか見当もつかないでしょうが、もしこの先、万が一窮地に追い込まれるようなことがあったら、必ずこの手紙を思い出してください。私が一週間、井村さんに乗り移っていたことは、とても信じられないことですが事実です。それはこれから数日もたたずに井村さんが一番、実感できるはずです。その現実離れした経験をした私が言うことなので、中身も現実離れしていますが、どうか信じてください。よろしくお願いします。

 

 涼子さん、智美ちゃんを大切に、よい人生を送ってください。私自身、とても勉強になった一週間でした。ありがとうございました。

 それでは、さようなら。

            井村さんとして一週間過ごした者より」

 

 前田は、何度も読み返した。こんな手紙を突然もらったら、さぞかし戸惑うだろうが、書かないよりはマシに違いない。

 ペンギンは井村としての前田の行動しだいで元の時代を変えることができる、と言っていた。ならば、この手紙で井村の心境に変化を呼べたら、自殺を思いとどまらせることもできるのではないか。涼子に何も言えなかった前田は、そう願うしかなかった。

 書き終えた手紙を封筒に入れ、表に「井村英彦様」と書いた。ひょっとして今晩寝てしまえば、もう井村として目覚めることはないかもしれない。タイムスリップする直前に感じた眠気はとにかく突然で、自分の意思ではどうしようもできないものだった。元の時代に戻るときもおそらくまた、同じような眠気に襲われるだろう。ならばいつ襲われてもいいように、前田は準備することにした。

 まず寝室に行き寝間着に着替えると、封筒をズボンのポケットにしっかり奥まで詰め込んだ。続いて黒のマジックペンで右手の甲に、目立つようにこう書いた。「ズボンに手紙」。

「こう書いておけば見てくれるだろう」

 前田は確認するように言って、布団にもぐりこんだ。隣では涼子が心地よさそうな寝息をたてていた。

   ◇

 前田が目覚めると、場所は相変わらず井村夫妻の寝室だった。どうやらまだ元の時代には戻っていないようだ。時計を見ると午前十一時。隣に涼子はおらず、布団がきれいに畳まれていた。

 前田は横になったまま全身で伸びをした。今日は日曜日。井村に乗り移っておそらく、最初で最後の休日だ。

「寝て過ごしたら勿体ないな」

 布団の中でつぶやくと、前田は全身の力を振り絞り、ガバッと上半身を起こした。せっかくだからどこかに行こう。時間旅行を満喫しなければ。

 寝間着のまま台所へ行くと、テーブルの上に涼子のメモがあった。

「智美とデパートに行ってきます。夕方までには帰ります  涼子」

 夕方なら待っている時間はないな、と思いながら前田は寝室に戻って服を着替えた。手紙を二つに折ってズボンのポケットにしっかりと詰め込む。財布と鍵を持ち、手の甲を見た。一晩寝たので「ズボンに手紙」の文字が薄くなっていた。前田は念のため、もう一度上からマジックペンで強くなぞった。

   ◇

 外は快晴だった。どこに行こう。当てもなくバスに乗り、電車に揺られ、気が付けば前田は通い慣れた仕事場のある駅で降りていた。せっかくの休日なのに、と思いつつも、これから出勤しなくていい気楽さが嬉しい。

 西川と夜中に話しこんだ公園では、数組の家族連れや子供たちが遊んでいた。

 昨晩も無意識のうちにここへ来ていた。泣きはらして途方にくれたベンチが目に入る。あれからまだ丸一日も立っていないのか。子供たちの歓声に吸い込まれるように、前田は公園の中へ足を踏み入れた。

 そういえば元の時代では、公園で遊んでいる子供に面識のない男が突然、後ろからハンマーで殴りかかった事件があった。スーパーで子供が突然包丁で刺された惨事も記憶に鮮明だ。元の時代なら、前田は公園に入らなかっただろう。暇そうな中年男が一人で公園に来れば、親に無用な不安を抱かせかねない。そんな時代になってしまった。だけど、今は二十年前。前田の前を幼稚園くらいの女の子二人が歓声を上げて通り過ぎた。のん気なものだ、前田は思わず笑った。

 ベンチに座って、前田は空を見上げた。青い空に絵筆で書き散らしたような白い雲が浮かんでいた。あの雲の向こうから、ペンギンや塚本が俺のことを見ているのかもしれない、と前田は感じた。ならば不幸な交通事故で亡くなった、あの女の子にも見てほしい。サザンが好きな由美ちゃんは、俺と西川や杉田のやりとりをみて、一体なんて思ったのだろう。死人に口無し、結局世の中は生き残った人たちの声だけが反映される。

 ただ、だからこそ少しでも、自分自身は亡くなった人の悔しさや無念を背中に受けて行動しなくちゃならないな、と前田は思う。格好良すぎるか、でも別に肩ひじを張る必要は無いんだ。いつも考えるのではもちろん無くて、何か大切な局面に立ったとき、ふと思い出すていどでいい。

 塚本なら今週の俺の行動をどう評価するのだろう、と前田は想像した。一週間前、思いもがけず話せたとはいえ、アイツも死人だからな。生きている時なら「前田さん、やるじゃないっすか」と言ってくれそうだが、死後だと考え方が深刻になっているかもしれない。「支店長に自分の鬼畜ぶりを自覚させてやらなきゃダメですよ」とか言われたりして。もっとも、元の時代に戻って、また塚本に会える保証など、どこにもないのだけれど。でも、もう一度会いたい。流れる雲を眺めながら、前田はぼんやりと考えた。

 「きた」。突然、前田は心の中で叫んだ。睡魔だ。一週間前、ペンギンの目の前で急に感じたあの眠気が、ついに襲ってきた。深い穴に落ちるような、この感覚。数メートル離れたブランコで遊ぶ男の子が、どんどん霧の向こうに沈んでいく。視界が白く濁り、暗くなる。右手を。薄れゆく意識のなかで、前田は最後に文字を確認した。「ズボンに手紙」。大丈夫だ。封筒は入っているよな。確認しようとポケットに手を突っ込んだ。ザラッとした紙の感触が指先に伝わった。それが最後の感覚だった。



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