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片頭痛

作者: 茶ヤマ
掲載日:2026/05/18

最初に変わったのは、夜の訪れ方だった。


もともと酷い片頭痛持ちだった私は、ある日、耐えがたい激痛に襲われて近所に新しくできた「頭痛外来」を訪れた。

目を閉じても、その暗闇の裏側で光の粒子がチカチカしている。

白を基調とした清潔な院内で、物静かな女医は、私のそんな話を親身に聞いてくれた。


「頭痛のせいで眠れない日があるのも辛いですね。一緒に、よく眠れるお薬も出しておきますよ」


処方された小さな白い錠剤を飲み下す。

それまで頑なに拒絶され、浅く、破れたような状態だった睡眠とは違って、意識が底なしの穴へ、引きずり込まれるようにすとんと落ちる。

その落下の感覚すら心地いい。


眠れる。

それだけで救いのはずだった。


ただし、目覚めはほぼ毎日、最悪だった。


「……っ、あ、つ……」


こめかみをにくる凄惨な頭痛。焼きゴテ、という言葉が一番近い気がするが、それも違う。

目の端で光が明滅する。

頭の奥、ちょうど視神経の裏あたりで、鈍くて重い痛みが脈を打つ。

姿勢を変えるたびに、痛みの震源地が移動する。

まるで「眠っている間に、誰かが中をかき回していた」ような痛みだった。


楽な姿勢を探そうとして、やめた。

横になれば重力が、起き上がれば血流が牙を剥く。

どの姿勢を取っても、必ず頭のどこかが痛いと、もう分かっていた。


枕元に置いていた鎮痛剤をフラフラと手を伸ばして口に放り込み、私は自分に言い聞かせた。


「寝ている間に、また発作が起きただけだ」と。




しかし、痛みと一緒に連れてくる「悪夢」の質が、徐々に変質していった。


私は見知らぬ古い日本家屋の廊下に立っている。

天井からは、どす黒く濡れた長い髪が何条も垂れ下がっている。

その髪の隙間から、濁った無数の「目」が私をじっと見つめている。


「……あな、た……」


髪の奥から、くぐもった女の声がする。その声を聞くと、頭が割れるような激痛が走る。

こめかみを押さえ、視界が滲み、誰かに「少し静かにして」と言っている。

その声が、目覚めた後の自分の声と、ぴたりと重なる。


じわじわと不快で、目が覚めても終わらない。



日中の変化は、もっと静かだった。

光が強すぎる。同僚のタイピング音や人の話が、まるで遠い水底から聞こえる音のように歪んでいく。

オフィスでパソコンに向かっている最中、ぼんやりとした眠気がつきまとい、気づくと時間だけが進んでいる。



そして、その悪夢の残滓は、ついに現実の光を侵食し始めた。


ある昼下がり、キッチンでコップを落とした。

割れた音を聞いた瞬間、強烈な既視感に襲われた。


――これ、今朝夢で……


その思考が浮かんだ途端、背筋が冷えた。

夢の中では、割れたコップを踏まないように避けていた。

現実の床にも、同じ位置に破片が散っていた。



給湯室でコーヒーを淹れている時、ふと視線を上げると、ステンレスの換気扇の隙間から、あの黒い髪が数本、ゆらりと垂れ下がっているのが見えた。


「ひっ……!」


思わず声を上げて後ずさりし、目を瞬かせる。……何も無い。ただの汚れの影だ。

耳元で心臓が打っているのかと思う程に、鼓動がうるさかった。



それから、区別が難しくなった。


起きているときに、夢の続きを思い出す。

眠っているはずなのに、天井の染みを数えられる。


かつては心臓の鼓動に連動していた痛みは、いつしか脈とは関係なく、思い出したように内側からガツンと殴られるような衝撃に変わっていた。


洗面所で顔を上げたとき、映った自分が、ほんの一拍遅れて瞬きをした。

その目が、疲れきったこちらを見て、口を動かした。


「まだ、起きてたの?」


声は出なかった。

出なかったけれど、その言葉は、確かに頭の中に残った。



昼間に街を歩いていても、すれ違う人々の顔が全部同じに見える。

頭痛外来の、あの医者の顔だ。

優しかった笑顔が張り付いている。

冷や汗を垂らしながら、人々を凝視すると、ごく普通の通行人の数人が怪訝な顔をしながら私をちらりと見ていた。



どれが現実で、どれが夢だ?



その夜、薬を飲む手が止まった。

飲まなければ眠れない。眠らなければ、また頭が壊れる。

そう分かっているのに、指が震える。


結局、恐怖に負けて飲んだ。



底なしの意識にすとんと落ちながら、ちらりと思う。

もしかして、あの白い錠剤を飲んだ最初の夜から、一度も目覚めていないのではないか?




今、私は自分の部屋のベッドに横たわっている。

頭痛はもう、痛みを通り越して痺れに変わっていた。

視界の端がぐにゃりと歪み、部屋の壁紙が生き物のようにうごめいている。


枕元を見る。

薬のシートはすべて空になっていた。

私が飲んだのか、それとも最初から無かったのか。


「先生、助けて……薬がもうありません……」


目覚めた私は、割れるような頭痛に涙を流しながら、這うようにしてカバンを引き寄せた。

あの優しい先生のところへ行けば、またあの薬をくれるはずだ。


病院の場所を確認しようと、震える手で財布を開き、あの日もらった領収書と処方箋を引っ張り出す。


しかし、床にこぼれ落ちたその紙切れを見た瞬間、私の思考は凍りついた。


「え……?」


あの日、確かに綺麗な活字で印刷されていたはずの「〇〇頭痛クリニック」という文字も、医師の名前も、そこには無かった。


白い紙にびっしりと書き殴られていたのは、人の手で書かれたとは思えない、狂ったような「呪文」の如き漢字の羅列。

いや、違う。

よく見るとそれは文字ですらなかった。

細く、黒い、縮れた線――無数の「黒い髪の毛」が紙にべったりと張り付き、蠢きながら文字の形を模していたのだ。

髪を見た時、医者の顔がよぎった。


私が薬をもらった、あの白く清潔な病院は、一体何だったのか。



ガサリ、と頭上で音がしたため、天井を見上げた。


ワンルームの、見慣れた白い天井。

そのひび割れたクロスの隙間から、じわり、と黒い液体が染み出し、細い髪の毛となって垂れ下がってきた。


一本、また一本。

それは驚くべき速さで増殖し、天井を埋め尽くし、私の顔目掛けてなだれ落ちてくる。

髪の隙間からは無数の視線を感じた。

そして、くぐもった、嬉しそうな声のようなものも聞こえる。


激痛。頭が、脳が、内側から爆発するような強烈な片頭痛。

私は叫ぼうとして、口の中に流れ込んできた冷たい髪の毛の束に、声を塞がれた。


――けれども……これで、やっと目が覚める。


そう確信しながら、私は深い、深い、眠りへと落ちていった。





翌朝も目が覚める。


――ただし、鏡の向こうの自分が、だ。


ゆっくりと起き上がり、慣れた手つきで頭痛薬を探す。

夢と現実の区別は、きちんとついている。


私が眠っているのは、あの古い日本家屋の畳の部屋。冷たい髪の毛に絡め取られている。

そして、今こうして起きて、何食わぬ顔で人間の生活を始めているのは……。


「……あ、つ……」


「私」はこめかみを薬指でトントンと叩いた。

今日も、頭が痛い。





ー了ー


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