初めての魔法
ウィルは『レイン』と言いかけて、その喉元まで出かかった名前を飲み込んだ。この三週間、彼女から与えられたものを考えれば、いつまでも呼び捨てで通すのは道理に合わない気がしたからだ。
「……師匠は、これからどうするの?」
「私を師匠と呼ぶのかい? それは嬉しいね。……自分の仕事だよ。知り合いに少し頼まれてね」
レインは相槌を打ちながら、使い込まれた革の鞄を手に取り、軽やかな足取りで家を出て行った。
「ふうん……」
生返事を返したものの、ウィルの頭の中は、先ほどまで机に広げられていた魔法の講義内容で飽和状態だった。
「最初はやはり、水が良いだろう」
レインはそう言った。だが、その言葉の前に見せられたのは、細い蔦が絡まり合ったような複雑な魔法陣の図解や、古めかしい言い回しの難解なテキストばかりだ。あれだけ理屈を並べ立てておいて、最後は とりあえずやってみろ という。
魔法とは想像以上に、複雑な理論と無茶な根性論の混ざり物だった。ウィルは耐えきれなくなり、勢いよくべちゃりと机に突っ伏した。硬い木地に打った額が、じわじわと熱を持って疼く。
「……ミレイさん。師匠は魔法のことを『人類が使い方を忘れた技術』だと言ってたけど……傷が治る理由も、魔法だったりするのかな」
顔を伏せたまま問うと、ミレイはわずかに目を大きく見開き、ウィルの向かいに腰を下ろした。
「何故、そう思われたのですか?」
ウィルは顔を上げ、視線を落として指先で木目をなぞった。
「少し前まで、俺はスラムにいたんだ。その時、別のグループのやつと喧嘩をして……」
スラムには、孤児たちが身を寄せ合って暮らすグループがいくつも点在している。ウィルはスリとしての腕があったため、比較的規模の大きなグループに属していた。
「おい泥棒。今日も稼いできたんだろ? さっさと寄越せよ」
ウィルの前に、岩のような体躯の少年が立ちはだかり、汚れた手を突き出してきた。後ろには二人の取り巻きが、ニヤニヤと品定めするように控えている。
ウィルは喧嘩が得意ではない。いつもは通行料と割り切って財布を差し出していたが、対策はしていた。本命の金は靴下の中に隠し、奪わせる用の中身の薄い財布を懐に忍ばせていたのだ。
おかげで自分たちはそれなりに食えていた。だが、この日は運が悪かった。
少年は差し出された財布の軽さに顔をしかめ、ウィルを射抜くような目で見下ろした。
「お前さ、もっと隠し持ってんだろ。……コイツを取り押さえろ」
迫りくる脂ぎった手が怖くて、ウィルは反射的にそれを強く払い除けてしまった。それが、少年の矮小な自尊心を逆撫でするには十分すぎる火種となった。
数分後。ウィルは泥を舐め、ボロボロになった体を引きずって、ミリとアルの待つあばら家へと帰り着いた。
「ウィル! どうしたのその怪我! 早く手当てしないと」
ミリの悲鳴のような声が聞こえたが、不思議と痛みは遠のいていた。ウィルは『すぐ治るから放っておいて』とだけ返し、冷たい床に横たわった。
次にウィルの様子を見に来たミリとアルが、口をぽかんと開けて驚愕の声を上げた。
『……あれだけの傷が、もう塞がりかけてる』
「とまあ、そういうことがあったんだ」
ウィルが話を締めくくると、ミレイは静かに頷いた。
「それは原始魔法ですね。あなたが初めて無意識に振るった魔法なのでしょう」
ミレイは淡々と、だが確信を持って続けた。
「魔法において、術者自身の体に作用するものは例外的な扱いです。原則から大きく外れても発現することがあります。これを原始魔法と呼び、レイン様の魔法についての仮説の根拠……まあ、今回の課題は『元素魔法』ですので、頑張ってくださいね」
ミレイは綺麗な微笑を浮かべながら、あっさりと突き放した。
「でも、これで魔法という存在を自分事として信じられるのなら、一歩前進ですね」
それもそうか、とウィルは空のコップを手に取り、指が白くなるほど強く握りしめた。
(水よ出ろ。水よ出ろ……)
念じてみるが、透明な底には埃一つ動く気配がない。一向に何も起きない事実にうんざりし始めた頃、ミレイが立ち上がった。
「少し気分転換をしましょうか」
鬱々としていたウィルにとって、それは願ってもない提案だった。
小屋を出ると、森の冷ややかな空気が頬を撫でる。
四方を透明な壁で仕切られたこの場所は、何度見ても奇妙だった。巨大なガラスの箱の中に閉じ込められ、空だけが四角く切り取られているような、不思議な閉塞感と開放感。
「結界に沿って歩きましょう」
「散歩だなこりゃ」
ウィルは結界に近づき、指先で表面をなぞってみた。
見た目は虚空なのに、指先にはざらざらとした、細かい砂を固めたような確かな感触がある。
レインの話では、魔法にできるのは「物を作ること」と「作った物を動かすこと」だけのはずだ。けれど、この巨大な障壁はどう考えてもその原則を超越している気がしてならない。
その疑問を口にしようとした、時だった。
地面に、不自然な影が落ちているのが目に入った。
ウィルは足を止める。
「ミレイ……これ、鳥が死んでるのかな」
指差した先には、一羽の小さな小鳥が転がっていた。羽を乱し、ぴくりとも動かない。
「あら。今夜は鳥料理ですね。大方結界にぶつかったのでしょう」
ミレイは弾んだ声で言うと、重力など存在しないかのような身軽さで、ふわりと結界の向こう側へと飛び越えた。
ウィルが呆気にとられている間に、彼女はすでに獲物を手に戻ってきている。
「鳥を捌いたことはありますか?」
「……全くない」
「では、まず羽をむしる作業から始めましょう。粉塵が舞うので、口元を布で覆ってくださいね」
差し出された鳥の体は、まだわずかに生温かかった。ウィルはその重みを見つめ、少しだけ顔をしかめてから、覚悟を決めてその羽に指をかけた。




