魔法について
三週間後。
教会の教室には、何十人もの子供たちが発する、抑揚のない合唱のような音読が響き渡っていた。
「では始めます。二十三ページから」
ウィルは手慣れた動作で、角の擦り切れた教科書を開いた。見開きの左側には、版画風の荒いタッチで、真っ赤な炎に包まれ崩れ落ちる都市の挿絵が描かれている。
『千年前、一人の魔法使いがいました。魔法使いは悪魔の誘いにも乗らず、質素に暮らしていました』
子供たちの声が、石造りの冷たい壁に反響する。この教会の教典において、魔法使いが悪役ではない導入は珍しい、とウィルは文字を追いながら思った。
『しかしある日、彼の家は強盗に遭い、最愛の妻が殺されました。彼は怒りに駆られ、とうとう悪魔と契約してしまいました。そして王都ごと、すべてを灰にしてしまったのです』
――王都まで焼く必要があったのか。ウィルは淡々と綴られた惨劇の挿絵を見つめる。やり過ぎだとは思うが。
「例え元が善良であっても、魔道に触れれば身を汚し、災厄を呼び起こす。これはその良い例です」
教師の眼鏡が、窓からの光を反射して白く光った。彼は机の間を歩き、ウィルの前で足を止める。
「ウィル君、今日が最終日ですね。……決して、汚れてはなりませんよ」
その視線には、哀れみと観察するような鋭さが混じっていた。
「分かりました」
ウィルは短く答え、視線を教科書に戻した。
***
翌日、空は抜けるような青だった。
レインの仕事は休みで、ウィルももう教会へ通う必要はない。とはいえアルたちに会いに行こうと考えていたウィルだったが、その計画はレインの唐突な一言で霧散した。
「ウィル、出かけよう。これから暫くの君の家さ」
連れて行かれたのは、町の外壁を越えた先、深い緑が沈殿する森の中だった。
しばらく歩くと、突如として前方の空気が密度を増した。匂いや音の変化ではない。視界の向こう側が、蜃気楼のごとく歪んでいる。
「触ってみて」
レインに促され、その歪みへ手を伸ばす。指先が触れた瞬間、コツンと硬質な手応えが返ってきた。透明な壁が、そこには確かに存在していた。
「結界魔術だよ。ルンの町の半分くらいの広さを、この結界で覆っているんだ。見てて」
レインが指をパチンと鳴らす。物理的な接触もないのに、硬固な壁に人が一人通れるほどの穴が、音もなく穿たれた。
「すごい……」
ため息が漏れる。だが、それを自分が再現できる未来は、まだ一欠片も想像できなかった。
結界を潜り抜けた先も、景色に大きな違いはない。ただ、鬱蒼とした木々の間に、ぽつんと小さな木の家が佇んでいた。
家の中に入ると、そこには本棚とダイニングテーブルが設えられていた。似たような間取りだ。テーブルの上には、三週間前には一文字も読めなかった本が山積みになっている。
「じゃ、勉強の成果を見せてもらおうか」
レインが適当な一冊を広げ、ウィルの前に突き出した。
「『神のみわざを疑いし者は……』。これ、聖書だったんだ」
「そうだよ。次、これね」
「『魔物とは体内に魔石を持つ動物の総称であり、例外なく子に乳を与える事が分かっている……』」
……。
結果から言えば、ウィルが読めたのは半分に満たなかった。それでもレインは、満足げにウィルの頭を乱暴に撫でた。
「若いって良いね。簡単な指導書なら読めるようになったか。じゃ、早速講義を始めよう。と言っても、今のところ指導書の内容なんて関係ないんだけどね」
レインはテーブルに腰掛け、細い指を立てた。
「魔法というのは本来、念じるだけで出来るものなんだ。出来ることは二つ。『何かを作り出すこと』と、『作った物を動かすこと』。それだけ。でもね、その組み合わせで色々できるんだ。今はそれだけ覚えていればいいよ」
「……出来てたら、スリなんてやってない」
「そりゃあ、『出来ない』っていう刷り込みがあるからだよ。魔法っていうのは、人類が使い方を忘れた技術の一つだと私は思ってるけど……今は関係ないかな。……君は、どうやってスリの技術を身に着けたんだい?」
「……スラムに来たばかりの頃だ。道を歩いてたら、尻ポケットに財布を突っ込んでる無防備な奴がいて……つい」
レインはくすくすと笑い、再びウィルの頭を撫でた。
「罪悪感さえ目をつむれば、誰でも盗れそうだ」
ウィルは顔を赤くし、肩をすぼめた。レインが言葉を継ぐ。
「君は、出来そうな事柄から段階的に学習した訳だ。自分の手の届く範囲から実践して、『出来そう』な領域を少しずつ広げていったんだよ」
――けど結局、あんたに捕まったけどな。ウィルは心の中で毒づき、口を閉ざした。
「でもレイン、魔法にはどこを探しても『出来そう』な隙なんてないだろ」
「その通り。魔法の難易度は、見た目の派手さと関係しない。必要な要素は三つだけだよ。魔法をどう使うかという『想像力』。魔法を働かせるための『魔力』。そして――魔法を使えるという『確信』」
「君にはまず元素魔法を覚えてもらう。
童話の魔法使いが使う、水を出したりする魔法と言って差し支えない。取り敢えずは、作り出す『発生』と作るのをやめる『停止』が自由自在に出来るようになることが合格条件だ。
それまでは一人で結界の外に出ちゃダメだよ」
レインは窓の向こうの森を指した。
「……は? なんでだよ」
「ヒヨッコの魔法は、暴発すると危ないからね。……火に触れて火傷したことはある?」
「あるけど」
「じゃあ、君も火を使えるだろうね。おすすめはしないけどさ、危ないから」
レインの目が細められた。
「分かるだろう? ついうっかり暴発してみなよ。大惨事だ。……孤児院にあの子たちがいるね。彼らを傷つけたいのかい?」
ウィルの頭にミリとアルの顔が浮かんだ。確かに、それはそうだ。
というかこんな森の中を子どもが一人で歩ける訳がない。どうせ許可は必要だ。
「……分かった。出来るようになるまでは、勝手に外に出ない」
「良い子だね。じゃあ、彼女を紹介するよ」
どこから現れたのか、影の中から一人の少女が音もなく踏み出した。
黒い生地に真っ白なエプロン。整えられたメイド服を纏った女性は、感情の読めない顔でぺこりと頭を下げた。
「ミレイ。この子は私の弟子だ。もし魔法を暴発させたり、勝手に出歩こうとしたら……止めてあげてね」
「かしこまりました」
ミレイと呼ばれた女性は再び機械的な正確さで深く頭を下げた。




