孤児院
翌朝、窓から差し込む光が、本の背表紙が並ぶ壁を照らしていた。
ウィルが目を覚ましたのは、やはりあの学者の書斎のような個室だった。身に着けているのは、糊のきいた清潔な普段着だ。
机の上には昨日と同じく、革の小袋が置かれている。昨夜までは枚数を数える気にもなれなかったが、今は違う。彼女がこの施しを好んでいるのなら、それに応じるのが最善だ。
「ああ、起きたかい? そのまま寝入ってしまったから驚いたよ。夜は冷えただろう」
唐突にドアが開き、レインが部屋に入ってきた。ウィルは心臓を跳ねさせ、反射的に身を固める。
背中を動かすと、肩甲骨の間がヒリヒリと疼いた。微かな痛みだが、それが昨夜の出来事が現実であることを執拗に訴えかけてくる。
「おはよう」
「……おはよう」
レインは、銀貨の袋に触れていたウィルの手元をちらりと見て、満足そうに目を細めた。
「銀貨を数えていたのかい? 枚数が足りないのは、昨日君がスッた相手に補填しておいたからだよ。そこは我慢しておくれ」
「……どれだけ盗ったかも覚えてない。それでいい」
ウィルが数え直すと、中身は十一枚だった。スラムでは一生拝めないような大金だ。
「今日は、あの子たちのところへ行くのかい?」
言葉と共にレインは部屋からリビングへ移動する。ウィルもそのまま着いて行った。
「……ああ」
返事をすると、興味もなさそうにレインから布巾を渡された。食事の前に机を拭け、という無言の指示だ。昨日と変わらぬ穏やかな口調で接してくる彼女を見ていると、あの死臭に満ちた小屋の光景が悪い夢だったのではないかと思いたくなる。
「昨日……あんた、人を殺したよね? あの後、どうしたんだ」
布巾を返し、盛り付けられた料理を受け取りながら、ウィルは低い声で尋ねた。
「ああ。粉々にして、犬を寄せて放置だね」
「え、なんで……いつの間に?」
皿を取り落としそうになり、指先に力を込めて持ち直した。
レインは気にする様子もなく、大皿に最後の一品を盛り付けている。
「死体が残っていたら、一応は憲兵が動かないとも限らないだろう? 手間を省いただけさ」
レインは冷蔵庫を開いてハンバーグを取り出した。ひんやりとした空気が流れ込んだ。
「それはそうとして、今日は日が暮れるまでに帰って来るんだよ」
「分かった」
机に置いたハンバーグにレインが横から手を翳すと、やがて湯気を立て始めた。
「いただきます。」
レインは厚切りのベーコンを口に運び、咀嚼を始める。ウィルは昨日は味わう余裕のなかったハンバーグにフォークを伸ばした。
レインが仕事のために家を出た後、ウィルもしばらく椅子に深く腰掛けていた。
静寂が満ちた部屋で、目を閉じる。そして、外へと歩き出した。
***
教会付属の孤児院。そこは、すべての孤児に開かれた楽園ではない。
敬虔な信徒の血縁か、多額の寄付を払える者だけが許される場所だ。
門扉のすぐそこで、シスター達が集まっていた。レインと共にミリとアルを連れて行った時に会った相手もいる。ウィルの姿を認めると、すぐに迎え入れた。
重厚な木の扉の先は清潔な石鹸の匂いと、子供たちの快活な声が響いてきた。
「ウィル兄!」
弾丸のような衝撃とともに、アルが飛びついてきた。
煤とフケだらけだった髪は丁寧に洗われ、陽の光を反射して艶やかに輝いている。
頬の痩けはすぐには戻らないだろうが、その瞳には子供らしい輝きが宿っていた。
「……んふふ」
ウィルが頭を撫でてやると、アルは嬉しそうに何度も頭を擦り付けてくる。
「大丈夫だった?」
ミリが近づいてきた。見違えるほど綺麗になった彼女の金髪は、本来これほど美しかったのかと驚くほどだ。汚れを落とした彼女の顔立ちは整っていたが、その表情には消えない不安の色が混じっていた。
「ああ、大丈夫だ。……ありがとうな」
二人の元気そうな姿を目の当たりにし、ウィルの胸の奥に澱んでいた緊張が少しだけ解けた。
「ウィル兄、この本読んで!」
アルが持ってきた絵本の表紙には、『銀の姫様』という文字が踊っている。かつて母から教わったわずかな知識があれば、この程度は読み上げることができた。アルに手を引かれるまま、ウィルは日当たりの良いベンチに腰を下ろした。
「銀の姫様は、今日もわんぱく。舞踏会を抜け出して、虫さんと遊びます。お城のみんなは大わらわ……」
三冊ほど読み終える頃、膝の間に収まっていたアルの頭がこっくりと揺れ、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
「ウィル、私たちのことで我慢しなくていいからね」
ミリが隣に座り、小さな声で言った。
「……ああ。ありがとう」
レインには、感謝すべきなのだろう。彼女は、彼が命を懸けても守れなかったものを、金であっけなく守り抜いてみせた。
それならば、利用できるものはすべて利用してやる。
どうせ逃げられない鎖を刻まれたのだ。彼女からすべてを掠め取り、強くなる。
そうすれば、恩を返すか、あるいは彼女を殴り倒して逃げるか選べるはずだ。
***
帰宅したウィルは、迷わず廊下を歩いた。
どの部屋が彼女の居室か知らなかったため、端から順にノックを繰り返す。
玄関に近い扉を叩いたとき、「はーい」と気の抜けた返事が返ってきた。
扉を開けると、そこにはゆったりとした部屋着姿のレインがいた。手元の本に目を向けている。
自分から彼女に用向きを伝えるのは、これが初めてだ。喉の奥が乾く感覚がある。
「その……たまにでいい。魔法を、教えてくれないか?」
断られるか、あるいは 逃げるための力を貸すわけがないだろう と嘲笑われるか。そう身構えていたウィルの耳に届いたのは、拍子抜けするほど軽い声だった。
レインの視線は本からウィルへ移った。
「いいよ」
理由も問わない。条件もない。あまりにあっさりとした快諾に、ウィルは拍気が抜けた。
「……ありがとう」
「うん。よろしくね」
レインは楽しげに微笑み、手元の書物に視線を戻した。




