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家族

 陽が大きく傾き、世界は濃いオレンジ色に染まっていく。

 一日の労働を終え、どこか気の抜けた足取りの大人たちが家路を急ぐ時間帯だ。注意力が散漫になるこの黄昏時は、スリにとって最高のかき入れ時でもある。


 ウィルは、前方から歩いてくる疲れ切った男に狙いを定めた。両手に大きな荷物を抱え、足元もおぼつかない。その男の懐は不自然に膨らんでおり、そこに分厚い財布が収まっているのは明白だった。


 かつてノルグにしたのと同じように、小走りで近づき、胸にぶつかった。その一瞬、ウィルの指先は吸い付くように男の懐へ潜り込み、目当ての革財布を抜き取った。


「あぁ? 気ぃ付けろよ坊主……」


 男が掠れた声で毒づく。普段のウィルなら、 気を付けるのはお前だろ と内心で鼻で笑ったかもしれない。

 だがこの時はばかりは財布の重みが、罪悪感となって胸を強く締め付ける。

 

「……もう、『やむにやまれぬ理由で』なんて言えないな」


 自分を納得させるための言い訳が、通用しないことを悟っていた。

 閉店間際のパン屋の店先には、気力のない店番が案山子のように突っ立っている。ウィルは盗んだばかりの金から銅貨三枚を差し出した。


「黒パンを、四つお願い」


 包まれたパンを抱え、闇が濃くなり始めたスラムの路地へと逃げ込むように戻っていく。


 ひときわ傾いた小屋のドアを開けた途端、小さな塊がウィルに飛びついてきた。


「ウィル兄! 捕まったのかと思った!」


 弟分のアルだ。ウィルは安堵を噛み締め、その頭を撫でる。


「ゴメン、心配させた」


「本当だよ。何があったの?」


 くすんだ金髪を揺らし、少女ミリが厳しい表情で詰め寄ってきた。家族同然の仲間たちからの、当然の追及。

 しかし、その問いに答えたのはウィルではなかった。


「この子を引き取る事にしたんだよ。せっかく渡したお小遣いを使わないで盗みを働くなんて、悪い子だね」


 ウィルの頭の上に、ポンと何かが置かれた。ずしりとした重み。昨日、机の上に置かれていたあの銀貨の袋だ。

 振り返ると、そこに彼女がいた。

 昨日のような町娘の装いではない。深い青の生地に金糸の刺繍が贅沢に施された、豪奢なローブを纏っている。手に持つ杖には、夕闇の中でも怪しく輝く巨大な宝石が嵌め込まれていた。


「お姉ちゃん、誰?」


「私はレイン。ウィルの保護者になったんだよ」


 ミリの誰何も、素性を知られたことも、今のウィルにはどうでもよかった。

 周囲の空気が一変していた。小屋の影から、ガラの悪い男たちがじわじわと距離を詰めてきている。


 やがて、大柄な三人組が土足で小屋の中に踏み込んできた。髭面、吊り目、そして鷲鼻。この界隈で幅を利かせているゴロツキ共だ。

 鷲鼻の男が、ニヤついた顔をレインのすぐ近くまで寄せた。


「ようネーチャン、そのお小遣い、俺たちにもくんねーか? ついでに今夜付き合ってやるよ」


「うちの子じゃないから無理かな。他を当たってちょうだい」


 レインは羽虫でも追い払うような仕草で断るが、ウィルの状況は絶望的だった。

 背後から首筋に、氷のような冷たさが押し付けられる。ナイフの刃だ。


「動くなよ坊主」


 ミリは恐怖に震えながらアルの目を塞ぎ、吊り目の男がそれを嘲笑うように眺めている。


「そういうことだ。腕に覚えがあるかは知らねぇが、大人しくしてろよ」


 後ろの男の声を聞きながら、ウィルは拳を固く握りしめた。いくら魔法使いだと言っても、この狭い小屋で三対一、さらに人質を取られた状況では手も足も出ないだろう――そう思った、次の瞬間だった。


 窓もない小屋の中で、一陣の鋭い風が吹き抜けた。


 ――ゴトリ。


 重い物が床に落ちる音が響く。


「へ?」


 事態を把握するのに、数秒を要した。

 目の前にいた吊り目も、髭面も、肩から上が消失していた。

 焦げたような嫌な匂いと、強烈な血の臭気が一瞬にして小屋を満たす。二つの体は、自分が頭を失ったことすら気づいていないかのような緩慢な動きで、床へと崩れ落ちた。


 ウィルの首にかかっていたナイフの感触が力ない物に変わる。ナイフを持つ男の腕は軽く押しのけることができた。

 ウィルの後ろにいた鷲鼻の男もまた、首から上がなかった。

 床を転がった頭部だけが、下卑た笑みを顔に貼り付けたまま、壁際で止まっている。


「何? これ……」


 ミリが震える声で呟き、視線を彷徨わせる。そして、その視線はレインの姿で止まった。


「やあやあ、また保護者らしいことをしてしまった。大丈夫かい?」


 レインは春風のような穏やかな笑顔を浮かべていた。返り血どころか、埃ひとつ付いていない清浄なローブのまま、彼女はそこに立っている。


「お前……わざと……」


「何が?」


 戸惑うウィルに返ってきたのは一言で、その瞳からは高揚以外、何も読み取れなかった。


「ごめんねー、私のせいで。怖い思いをさせてしまったね。ここに住むのは厳しいだろう?」


 世間知らずな貴族が、自分の不手際を軽やかに謝るような口調。ミリに優しく微笑みかけるその姿は、憐れな子供たちに施しを与える聖女のようにすら見えた。


「悪いけど、教会に案内してもらえるかな? 引き取ってもらえるだけの金は持っているから」


 レインは、銀貨か金貨が詰まっているであろう小袋を、チャラチャラと景気よく鳴らして見せた。


「アル、目を開けちゃダメだからね」


「? うん、わかった」


 ミリはアルを抱き上げ、死臭の漂う小屋を飛び出した。ウィルも、逃げるようにその後に続く。


 レインは小屋から出た三人に、そっと囁いた。


「さっき起こったことは秘密だよ?」


 三つの物言わぬ死体が残る小屋の前で、人差し指を唇に当てる彼女の姿は、まさにお伽話に出てくる 悪い魔法使い そのものだった。


 孤児院へ向かう道中、ミリがポツリと口を開いた。


「ウィルも……その、教会で引き取ってもらえるんですか?」


「いいや、私が引き取ると言ったろう? あ、こっちで良いのかな?」


 レインはミリを見ようともせず、前方の道を指さす。


「合っています。……ウィルが、それを望んでいるんでしょうか?」


 ミリはウィルをちらりと見てから、レインを真っ直ぐに見上げて聞いた。その問いに、ウィルは胸の奥が熱くなるのを感じた。だが、状況は何も変わらないだろうという予感もあった。


「それ、大事?」


 レインはわずかに眉を顰め、歩調を速めた。

 居場所を一瞬で特定し、屈強なゴロツキの首を蚊でも払うように落としてみせた怪物。ウィルは、これ以上彼女を怒らせるべきではないと理解していた。


「大事です。ウィルのことなんだから」


「ミリ、大丈夫だから。ありがとう」


 ウィルが割って入ると、ミリは頬を少し膨らませたが、黙って頷いた。


 孤児院の扉は、夜でも開かれていた。

 自分たちだけで来れば、汚物を見るような目で見ただろうシスターたちが、レインの金の匂いを嗅ぎつけるなり、手のひらを返し恭しく出迎えた。二人の子供は、一度の嫌な顔もされることなく、暖かな奥の部屋へと消えていった。


「じゃあ、帰ろうか」


「兄ちゃん、元気でね!」


 アルの声を最後に、教会の前にはウィルとレインの二人だけが残された。


「……なんで、ねぐらまで来て、あんな事をしたの?」


「具体的に言ってほしいな」


「アンタ、わざとめかし込んで、ゴロツキ共を呼び寄せただろ! あいつらを、人質にでもするつもりだったのか?」


 金の匂いを漂わせる豪華な装束でスラムを歩けば、どうなるかなど分かっていたはずだ。ウィルの唯一の居場所を壊し、恐怖と恩義で自分を縛り付けるための芝居だったのではないか。ウィルは、抑えきれない怒りをぶつけた。


「ああ、それね。君の友達があんな場所に住んでいてはいけないだろう? 嫌われるのも好きではないし、ああいう手段を取らせてもらったよ。不満かい?」


 ウィルは顔を顰めて口をパクパクと動かすだけだった。

 しかしレインはそれを肯定と受け取ったようだ。


「そうかい。これから彼らは食うに困らず、犯罪にも走らずに済むだろうに。よく分からないな」


 レインは明後日の方向を見つめた。


「だからまあ、今回みたいに脱走しても連れ戻すけれど、人質だの何だの、そんな面倒な心理的対処はしないよ」


「まあでも、君は私の言いつけを守らないようだね。罰と躾を兼ねて、一つ『対策』をしようか」


 安堵させるような言葉を吐いた直後、温度感も変わらない声で放たれた一言はウィルが後退りするには充分だった。

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