魔法使いの家
ゆっくりと意識が浮上すると、まず視界に飛び込んできたのは、木目が走る板張りの天井だった。
意識を失う直前、首筋に触れたあの奇妙な感触――。だが、今の体に痛みや重さはない。それどころか、頭皮の痒みが消え、肌に触れる布地からは、腐ったの臭いではなく、日向の香りがした。
「寝ている間に丸洗いされた上、着替えさせられたのか……」
一度持ち上げた体を再びベッドへと預けた。
ウィル自身の声が、静かな室内に響いた。
部屋には、簡素だが頑丈そうなベッドと机、壁一面を埋める本棚、そして木製のロッカーが並んでいた。机の隅には、使い込まれた風合いのペンと、深い青色をしたインク瓶が置かれている。
ベッドから降りると、足の裏にひんやりとした床板の感触が伝わった。まるで、学者の書斎にでも迷い込んだかのようだ。
「何だ、あれ……」
机の端に、革製の小袋がひっそりと置かれていた。
そっと指先で持ち上げると、中で金属同士がぶつかり合う音が鳴る。紐を緩めて中を覗けば、鈍い光を放つ銀貨が十数枚、乱雑に詰め込まれていた。
「これがあれば……」
その時、背後でガチャリと乾いた音がした。
慌てて小袋を机に置く。振り返ると、そこにはあの女が立っていた。
肩まで届く茶髪に、底の知れない青い瞳。そして、白い肌。光を透過させる陶器のような質感が、この部屋の影の中で浮き上がって見える。
「……なんで起きたって気づいたの?」
「物音がしたから」
女――レインは、事もなげに答えた。
確かに、ベッドから降り、銀貨の袋を弄っていたのだ。板敷きの部屋であれば、金属音も響くだろう。超常の力を使う相手だと身構えすぎていたのかもしれない。
「家に帰して」
「君の家はここだよ」
レインはわずかに首を傾げ、口角を上げた。その淀みのない微笑に、ウィルは無意識に眉根を寄せる。
「勘違いしているようだけど、別に外出を止めたりしないし、お小遣いもあげるよ。確認したろう?」
彼女は顎の先で、机の上の小袋を指した。
あの銀貨を自由にしろというのか。裏の見えない親切が、尚更不気味に感じられた。
「朝ご飯を食べよう。……そういえば、自己紹介がまだだったね。私はレイン。魔法使いだよ」
朝ごはん。その言葉に、ウィルは戸惑う。
意識を刈り取られたのは、まだ陽の高い昼下がりだったはずだ。それほど長い時間、眠らされていたのか。
レインの後に続いて部屋を出ると、そこはダイニングテーブルと、やはり壁一面の本棚がある広間だった。
「たまに集まって話しに来る奴がいるんだけど、普段の私には広すぎてね。君が来てくれて良かったよ」
レインの言葉は、ウィルの耳には半分も届いていなかった。
並べられた料理に、視線が釘付けになる。
湯気を立てるたっぷりのミルク、殻の混じった香ばしいパン、瑞々しい緑のサラダ。そしてジャガイモのポタージュに、脂の浮いた燻製ベーコン、厚みのある大きなハンバーグ。
暴力的なまでの匂いが鼻腔を突き、喉の奥が勝手に鳴った。
「じゃ、いただきます」
レインは迷いなく席に着き、ナイフとフォークを手に取った。
だが、ウィルはその場に立ち尽くす。これほどのご馳走が、無償で与えられるはずがない。
「俺を太らせて食べる気?」
かつてスラムの片隅で聞いた、悪い魔法使いの残酷な童話を口にする。
ハンバーグを頬張っていたレインの動きが止まり、その顔にわずかな陰りが差した。
「そーゆー事をする奴もいるけど、私はやらないよ。体がおかしくなるからね。理由は知らないけど」
レインは咀嚼を終えると、目を伏せて続けた。
「君は牛乳かポタージュから手を付けなさい」
抗おうとしたが、空腹という本能には勝てなかった。
言われた通り、ポタージュの匙を口に運ぶ。野菜の甘みと乳のコクが舌の上で弾け、気づけば飲み干していた。
「逃げないからゆっくり食べな」
その言葉も聞かず、ウィルは胃の隙間を埋めるように次々と手を伸ばす。
脂の乗ったベーコンを一切れ、噛み応えのあるパンを一つ。
「うっ……」
急に胃が膨れ、こみ上げるものがあった。それでもハンバーグに手を伸ばそうとしたとき、その手首をレインに制された。
「ちょっと食べ過ぎ。お腹いっぱいでしょ。冷蔵庫で冷やせば数日保つから、そこらでやめな」
『れいぞうこ』とやらが何かは分からなかったが、数日もここに留まるつもりはなかった。だが、体が悲鳴を上げているのも事実だった。
「昨日早退しちゃったからね。今日は仕事に行かないと。遊びに行ってもいいけれど、日が暮れる前には帰るんだよ。詳しい話はその後でしよう。あ、鍵はかけなくていいからね」
レインは流れるような動作で荷物をまとめると、背を向けて玄関へと向かった。
あえてチャンスを与えて、外での行動を試そうとしているのか。
考えている暇はない。レインの足音が遠ざかるのを待ち、ウィルは家探しを開始した。
机の引き出し、本棚の隙間。一通り目を通したが、怪しい物品は見当たらない。ただ、いくつかあるドアは力を込めても動かなかった。
一通り確認を終えると、自分が目覚めた部屋に戻り、木製のロッカーを開いた。
「あった……」
奥に押し込まれていたのは、昨日まで着ていた薄汚れた服だった。
だが、手に取ってみれば、ゴワゴワしていた汚れは落ち、石鹸の淡い香りがする。丁寧に洗濯されたらしい。
今着ている上等な服は惜しかったが、迷わず着替えた。スラムに近い場所で小綺麗な格好をしているのは、襲ってください と言っているようなものだ。
最後に、机の上の銀貨の袋を見つめる。
これがあれば、どれほどの食べ物が買えるか。どれほどの夜を凌げるか。
伸ばしかけた手を、強く握りしめて引っ込めた。
そのまま靴を履き、音を立てずに外へ出る。
真っ直ぐスラムへは戻らなかった。
胃袋はまだ満たされている。ウィルは人混みに紛れ、顔を隠しながら、獲物を探して歩き出した。
銀貨を手にせず、他人の懐から端金を奪おうとしている。
その皮肉に少しだけ笑ってしまった。




