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元素魔法

 ここ一ヶ月の停滞感は、ウィルの心にじわりと焦りを残していた。

 魔法の練習といっても、変化のない空を眺め、感覚を掴めない理論書と格闘する日々。やれと言われたわけではない家事や読書に没頭してみたが、それも現状から目を逸らすための逃避に過ぎないように思えてくる。


「ここに来てから一ヶ月経つけど……全然出来る気がしない。やっぱり、無理なんじゃ?」


 ウィルは頬杖をつき、力なくフォークをサラダの葉に突き刺した。今日はミレイが仕事で不在だ。


「諦めるのかい?」


 向かいに座るレインが、悪戯っぽく首を傾げた。


「そういう訳じゃないけど……」


 鬱々と視線を落とすウィルを見つめ、レインは一つの提案を口にした。


「ならまあ、町に行くかい? 今日は仕事もないし、たまには歩いてみるのもいいだろう」


「いいの……?」


「離れないと約束できるならね」


 人差し指を立ててからドアを指さす彼女に、ウィルの顔にも自然と笑みがこぼれた。


 ***


 久しぶりに足を踏み入れたルンの町は、ウィルが知る「狩場」とは全く違う顔を見せていた。

 

 かつては店の前から追い払われていたパン屋の店主が、今日は愛想よく笑いかけ、ベリーをふんだんに使ったシュトレーンを熱心に勧めてくる。

 敷居を跨ぐことすら叶わなかった本屋では、店主が自ら棚から本を取り出し、その表紙に触れることさえ許してくれた。


「無地の本なんて、あるんだな」


 ウィルの目の前にあるのは、美しい意匠が施された重厚な装丁の本。だが、その中身には一文字の記録もなく、真っ白な頁が静かに続いていた。


「欲しいのかい?」


 レインの問いに、ウィルは一瞬言い淀んだ。彼女が優しい大人ではないことを知っている。けれど遠慮する方が不自然に思え、正直な欲求を口にした。


「……正直、欲しい」


「そっか」


 レインはウィルが釘付けになっていたその本を手に取り、無造作にカウンターへ置いた。

「金貨二枚と小金貨三枚です」という店主の声に、ウィルの肩がびくりと跳ねた。それは、スラムの人間が一生を賭けても手に届かない、目も眩むような金額だった。


 レンガ造りの風格あるギルド、芳醇な匂いを漂わせる高級レストラン。そして、遠目に見える領主の館。

 ウィルは今日、今まで景色としてすら見られなかった町の息遣いを、肌で、鼻で、そして心で感じ取っていた。


 ***

「ありがとう、師匠! この本、大事にする」


 小屋に戻り、贈られた本を胸に抱きしめるウィルの顔には、子供らしい高揚が張り付いていた。レインは目を細めてその姿を眺め、戻っていたミレイも 良かったですね と静かに言葉を添えた。


 勢いのままに魔法の練習に取り掛かろうとしたウィルだったが、興奮で意識が散漫になり、すぐに断念した。

 ふと視線を向ければ、殺風景な結界内の光景が目に入る。

 ――ただの石小屋ではなく、いつかあんな商会のような、立派なレンガ造りの建物を建てられたら。


 ふと思い出した。砂漠には「日干しレンガ」というものがあるらしい。泥を火で炙れば、あるいは天日に干せば、硬い建材になるのだろうか。

 ウィルは持ち出したスコップを手に取り、土を掘り起こして水と混ぜた。泥塗れの手でレンガの形を二つ、丁寧に整える。片方は日干しに、もう片方は火で焼いて試すつもりだった。


 だが、火を起こす段階で手が止まる。

 火打石は手元にない。乾いた木片を集めようにも、この森の湿り気は強情だ。

 

 ――ああ、そうだ。俺は、魔法が使えるはずなんだ。


 レインは言っていた。ただ使い方を忘れているだけだと。イメージさえあれば、何だって生み出せると。

 

 もしそれが本当なら。

 魔法がそんなに簡単に手に入るものなら、俺はなぜスリなんてしていたんだ。

 誰にでも使える技術なら、なぜスラムのチビたちは親に捨てられたんだ。


 昼間の高揚が急激に冷え込み、代わりにどす黒い怒りが胸の底からせり上がってくる。


 ――ああ、腹が立つ。

 

 理不尽な運命に。無力な自分自身に。

 

 ――俺の体なら、俺の言う通りにしろ。力を寄越せ。寒さを、惨めさを打ち消すほどの、熱い火を!


 その瞬間だった。

 

 視界が、爆発的な輝きに塗り潰された。

 

 轟音とともに、ウィルの目の前で巨大な火柱が天を突いた。小さな星がその一生を終える瞬間の輝きにも似た、圧倒的な熱量。

 それはウィルの鼻先を焦がす寸前で、吸い込まれるように掻き消えた。

 

 熱を帯びた空気が、肺の奥まで侵入してくる。

 あまりの熱量に、喉が焼けるような激痛に襲われた。


「ウィル!」


 悲鳴のような声とともに、ミレイが駆け寄ってくる。彼女は目を閉じ、ウィルの喉をゆっくりと指で辿った。まるで見えているかのような手つきだ。そして最も痛みを感じる一点で止まった。

 

「ここですね。少し、我慢してください」


 違和感。何かが無理やり喉の奥に押し込まれるような、異物感と圧迫感。


「……っ、つ……!」


 苦しさに耐えかね、ミレイの手を引き剥がそうとするが、彼女の腕は鋼鉄のようにびくともしない。涙が滲むほどの痛みは数秒で引き、代わりに形容しがたい奇妙な感覚だけが残った。

 

 ミレイはゆっくりと目を開け、静かに告げた。


「初めての魔法――おめでとうございます」


 ***


 教皇。

 教会の頂点に君臨するその男が、今、一人の魔法使いの前に深く膝をついていた。


 対峙する男の名はウェルネス。魔法学校の学院長であり、千年の時を生きる、世界で最も古い魔法使いの一人だ。


「……それは本当かな?」


「はい。子供たちに確認を取りましたが、女は『レイン』と名乗っていたそうです。そして、最年長の子供を『うちの子になった』と言い、連れ去ったと」


 ウェルネスは長い沈黙の後、小さく嘆息した。


「……弟子として取ったのか、あるいは別の目的か。どちらにせよ、あの女を放置しておくわけにはいきません。確認が必要です」


 ウェルネスは窓の外、遠い空を見つめて呟いた。


「少し、確かめさせてもらいますよ。……姉さん」

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