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スリの少年

 ガタン、ゴトン。

 鋼鉄の車輪がレールを叩く規則正しい振動が、座席を通じてウィルの背に伝わる。

 ウィルが乗っているのは、つい先日一般解禁されたばかりの「電車」という乗り物だ。鉄の道の上を、生き物のような唸りを上げて走っている。


「師匠、綺麗ですね」


 個室の窓は大きく、今は枠いっぱいに開け放たれていた。

 流れる景色から吹き込む風はまだ少し鋭いが、向かいに座る銀髪の女性は、目を細めてそれを受け入れている。

 壮年に見えるその肌は雪のように白く、海を映したような碧眼が、窓外の流れる緑を追っていた。彼女がわずかに口角を上げると、彫刻のような横顔に柔らかな温度が宿る。


「……そうだね」


「ちょっと温めますよ」


 ウィルはコップ半分ほどの魔力をくみ上げ、直接室内の温度を上げた。

 肌を刺していた冷気は霧散し、春の陽だまりのような暖気が部屋を満たす。

 彼にとっては、呼吸をするよりも容易い作業だ。その気になれば、電車どころか、この大国すべてを灰燼に帰す熱量すら、彼はにはたやすい。


「ありがとう」


 師は再び窓の外に視線を戻した。

 かつての彼女は、こうも虚空を見つめることはなかった。そしてかつてのウィルには、これほど強い力を持たなかった。


 ――パシャリ。


 静かな個室に、硬質な機械音が響いた。

 ウィルが構えた小型の箱――カメラのシャッターが切られた音だ。


「もう、言ってから撮ってよ」


 師匠は苦笑をこぼし、ウィルからカメラを取り上げた。レンズを覗き込んだり、裏側を確認したりと、不思議そうに手元で傾ける。


「……何も見えない」


「現像してませんから」


 ウィルは手際よくカメラを回収した。指先に触れる金属の冷たさが心地よい。


「こんなものが出てくる前で良かったです」


 彼が「最強」の高みに至った頃、この世界にカメラなどという便利な道具は存在しなかった。肖像画を残してもらえるような身分でもなかった。

 師匠は歴史の要所に名を残す人物ではあるが、その容姿を記した絵画の類は、すでに時を経て風化している。


「写真をばら撒かれていたら、逃げることすら出来なかったかもしれない」


 ウィルの振るう魔法は、一部の例外を除けば、適切な訓練で誰にでも習得可能な技術だ。

 それはつまり、誰もが大国を焼き払う「個の武力」を持ちうるという証明に他ならない。

 ウィルはその生きた証拠であるがゆえに、常に誰かに追われ続けてきた。


 ウィルはカメラを胸に抱き、静かに瞼を閉じた。

 車輪の音を聞きながら、少年時代の記憶をたぐり寄せる。


 それは、魔道具以外に機能を持つ道具など存在しなかった時代。或いは魔法の魔の字も知らず這い回っていた少年時代の話だ。

 

 ***


 かつて、ウィルという少年はスリだった。

 女手一つで育ててくれた母は、流行病であっけなく逝った。家賃が払えなくなれば、屋根のある場所から追い出されるのは一瞬だ。流れ着いた先は、腐った空気と埃の匂いが立ち込めるスラム街。後はお決まりの転落コースだった。


 活気だけは無駄にある昼の食品街は、絶好の狩場だ。

 買い物客はみな旨そうな匂いに気を取られ、懐の警戒が薄れる。

 ウィルは、向こうから歩いてくる一組の男女を目標に定めた。


「レイン、アンタがここに来て三ヶ月だろ。もう慣れたか?」


 栗毛のひょろりとした男は、隣の女に媚びを売るのに必死で、足元もおぼつかない様子だ。


「ええ、よくして貰ってますし」


 若く美しい茶髪の女は、興味なさそうに短い相槌を返す。

 狙うのは、隙だらけの男の方だ。

 ウィルは人混みの隙間を縫うように小走りで近づき、すれ違いざま、わざとらしく男の胸にぶつかった。

 その衝撃の瞬間、指先を男の懐へと滑り込ませる。


 確かな手応え。財布を抜き取った。


「おお、すまん」


 男がぼんやりと謝る。すべては計画通り。

 ――その手首を、掴まれるまでは。


「……助かったよ。コイツを憲兵に引き渡そう」


 掴んだのは、ぶつかった男ではなかった。隣にいた女だ。

 血の気が引く。全力で腕を振り払おうとしたが、びくともしない。岩にでも固定されたかのようだった。当然だ。十歳程度の子どもが、大人の手を振り払えるわけがない。


「そうだね」


 女の声に、奇妙な違和感を覚えた。抑揚がないわけではない。だが、どこか遠くから響いているような、底冷えのする響きだ。


「坊主、可哀想だが、どんな事があっても人から物を盗っちゃいけないんだ」


 男はもっともらしい正論を吐く。その優越感に浸った顔に、無性に腹が立った。


「そうだよ。この財布はノルグのものだからね」


 女がこちらを覗き込んできた。

 その瞬間、怒りは吹き飛んだ。


 彼女の青い瞳には、ウィルも、隣のノルグという男も映っていない。

 光の届かない深い谷底のような目。

 人ではない何かが、精巧な作り物の皮を被り、人の言葉を喋っている。


「君、何を見ているの?」


 一瞬、嘘をついて逃げようと考えた。だが、この瞳の前では、あらゆる欺瞞は剥がれ落ちる。直感がそう告げていた。


「……アンタが、化け物に見えたから」


 必死に絞り出した言葉だったが、視線を合わせ続ける勇気はなかった。


「おい、失礼だろ!」


 憤慨するノルグをよそに、女は小さく、短く呟いた。


「へえ」


「決めた。君の事は私が引き取るよ」


 恐怖が跳ね上がる。無理だ。こんな得体の知れない女のそばにいたら、食い殺される。


「放して! ごめんなさい、もうしないから!」


 使い古された謝罪を叫ぶ。憲兵に突き出される方が、まだマシだと思えるほどの圧迫感だった。


「おい、こんなガキは早く憲兵に引き渡しちまえ。行こう」


 ノルグが苛立ちまぎれに吐き捨て、ウィルの腕を強引に引こうとする。

 派出所までの道中で、どうにか隙を見て逃げ出すしかない。ウィルが必死に脱出の算段を立てようとした時だった。


「ノルグ、私これからこの子に付き合うから。午後休み貰うって言っといてくれる?」


 女が顔の前で、ひらひらと軽く手を振った。


「ああ。分かった」


 つい先ほどまで反対していた男の目が、ふっと濁った。夢遊病者のような足取りで去っていく。

 洗脳か、暗示か。とにかく、ここにいてはいけない。


 だが、逃げようと足掻くほどに、女の指はウィルの手首に深く食い込む。


「じゃあ、行こうか」


「い……嫌だ。放して!」


 抵抗を無視し、子供を荷物のようにズルズルと引きずっていく。

 暴れ続けるウィルの顔に、女の手が被せられた。ノルグの時と同じだ。

 咄嗟に息を止め、肺を固めて耐える。


「随分頭が回るね。益々気に入ったよ」


 ――それなら、これはどうかな。


 今度は直接、剥き出しの首筋を掴まれた。

 体が激しく震え、硬直する。急所を完全に掌握された絶望的な感覚。

 首に触れる女の手が、じっとりと湿り気を帯びていく。


 同時に、頭を殴られたような強烈な眠気が襲ってきた。

 抗う術はなく、視界が急速に黒く塗り潰されていく。


 やがて、ウィルの意識は深い闇へと沈んだ。

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