第9話
息が詰まるような日々が続いていた。
王都学園の廊下を歩くだけで、背中に冷たい刃物を突きつけられているような感覚に陥る。
カイル・ノルトランド。
騎士科の制服を着た銀髪の死神は、どこにいても私を視界の端に捉えていた。
「……また目が合ったわね」
隣を歩くアデリーナが、扇子で口元を隠しながら低く囁く。
彼女の視線の先、中庭の噴水広場にカイルの姿があった。彼は同級生と談笑しているふりをしながら、鋭い眼光をこちらに向けている。
「まるでストーカーね。騎士団長の息子が聞いて呆れるわ」
「それだけ、私が怪しいということでしょう」
私は教科書を抱え直しながら、努めて平静を装った。
心臓は早鐘を打っている。
ミラから託された日記帳は、寮の床板の下に隠してある。あれが見つかれば、私だけでなくアデリーナまで破滅だ。
「……放課後、いつもの場所で。新しいことがわかったわ」
すれ違いざま、アデリーナが甘い香りと共に言葉を残していく。
私は小さく頷くだけで応え、足早に教室へと向かった。
***
放課後。
第三温室の特別管理区域は、今日も白薔薇の香りに満ちていた。
アデリーナはすでに待っていた。
彼女は鉄製のテーブルの上に、数枚の古びた羊皮紙を広げていた。
「これを見て、リゼ」
挨拶もそこそこに、彼女は羊皮紙を指差した。
「これは父様の書斎から持ち出した、十六年前の公文書の写しよ。……そしてこっちが、貴女のお母様が託してくれた日記に挟まっていた、王妃の『反逆の証拠』とされた手紙のコピー」
私は息を飲んで覗き込んだ。
王妃エレノアが隣国と内通していたとされる手紙。
私の処刑の決定打となったものだ。
「筆跡を見て」
アデリーナが指でなぞる。
流麗な飾り文字。確かに、エレノアの筆跡によく似ている。
だが、私は違和感を覚えた。
「……『g』の下の払いが、僅かに跳ねている」
私が呟くと、アデリーナは深く頷いた。
「そう。そしてこっちの公文書を見て。父様が書いた署名よ」
見比べた瞬間、背筋が凍った。
公文書にあるガラルド公爵の署名の癖と、偽造された密書の筆跡の癖が、完全に一致していたのだ。
「……なんてこと」
アデリーナの声が震える。
「父様は、自分の筆跡を隠しきれていなかった。いえ、隠す必要すらないと思っていたのね。どうせ誰も、公爵家の捏造を暴こうなんて思わないから」
彼女は拳を握りしめ、羊皮紙をくしゃりと歪めた。
「これが証拠よ。王妃エレノアは無実だった。私の父が、彼女を陥れて殺したのよ……!」
確定した真実。
わかっていたことだ。それでも、物理的な証拠を目の当たりにすると、胸の奥で燻っていた悔しさが再燃する。
私は無実の罪で、民衆に石を投げられ、愛する夫に見捨てられて死んだのだ。
「……酷い話ね」
私が絞り出すように言うと、アデリーナは突っ伏して泣き出してしまった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ッ」
彼女の嗚咽が温室に響く。
「私が……フォルジュの人間であることが、恥ずかしい。貴女の人生を狂わせた男の娘が、のうのうと貴女の隣にいるなんて……」
「アデリーナ、顔を上げてください」
私は彼女の肩に手を置いた。
彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。その紅い瞳が、罪悪感で揺れている。
「貴女のせいじゃありません」
「でも! 私の体は、貴女の魂を閉じ込めるために作られたのよ!? 私の存在そのものが、貴女への侮辱なのよ!」
彼女は自分の胸を強く叩いた。
「いっそ、私が死ねばよかった。そうすれば、父様の計画も……」
「馬鹿なことを言わないで!」
私は思わず声を荒らげていた。
アデリーナが驚いて動きを止める。
私は彼女の両手を強く握りしめた。
「貴女が死んでどうするの。……そんなことで、私が喜ぶとでも?」
私の口調は、完全に「リゼ」ではなく「エレノア」のものになっていた。
叱責する王妃の口調。
だが、今は構わなかった。
「生きて償いなさい。……いえ、償わなくていい。共に戦ってちょうだい。私一人では、あの化け物のような公爵には勝てないわ」
「リゼ……」
「私は貴女を利用する。貴女の権力も、魔力も、その立場も。……だから貴女も、私を利用して生き延びなさい」
アデリーナは瞬きをし、それからボロボロとまた涙をこぼした。
今度は、悲しみの涙ではなく、安堵の涙のように見えた。
「……貴女は、本当に強いのね」
彼女は私の手に頬を擦り付けた。
冷たい頬の感触。
「ねえ、リゼ。……時々、思うの」
彼女が濡れた瞳で私を見上げる。
「貴女と話していると、まるで……ずっと昔から知っていたような気がするの。本の中にしかいないはずの、気高くて優しい人が、すぐそばにいるような……」
ドキリとした。
彼女は勘付いているのだろうか。
私が、その「気高い人」の成れの果てだと。
喉まで出かかった言葉があった。
『私がエレノアよ』
そう言ってしまえば、どれほど楽だろう。
彼女の罪悪感を、少しは軽くできるかもしれない。「私はここにいる、死んでいない」と告げれば。
だが、それは同時に残酷な告白でもある。
『貴女の父親が殺した女が、目の前にいる』
その事実は、彼女をさらに追い詰めるのではないか。
それに、もし真実を明かせば、アデリーナの体にある「器」としての機能が、私の魂に反応して暴走するかもしれない。
(……言えない)
私は言葉を飲み込み、代わりに彼女の頭を撫でた。
「……買い被りですよ。私はただの、スラム育ちの雑草です」
アデリーナは少し寂しげに微笑み、それ以上は聞かなかった。
ただ、繋いだ手を離そうとしなかった。
「あなたを失いたくないの」
彼女が呟く。
「この学園で、私の名前や家柄を見ずに、私自身を見てくれたのは貴女だけ。……もし貴女がいなくなったら、私はまたあの暗闇に戻ってしまう」
その言葉は、私の胸を鋭く刺した。
私も同じだ。
前世で孤独だった私を、今世で最初に見つけてくれたのは彼女だった。
「……いなくなりませんよ」
私は誓うように言った。
「私が貴女の盾になります。……だから、もう泣かないで」
私たちはしばらく、言葉もなく寄り添っていた。
白薔薇の香りが、二人を優しく包み込む。
この温室だけが、世界から切り離された聖域のようだった。
だが、その聖域は、唐突に破られた。
コンコン。
ガラス戸を叩く音がした。
二人して弾かれたように振り返る。
そこに立っていたのは、カイル・ノルトランドではなかった。
灰色のローブを着た、初老の男。
私を入学試験に推薦してくれた、あの教師だった。
「……お邪魔かな、お二人さん」
男は穏やかな笑みを浮かべていたが、その目は笑っていなかった。
「グレイ先生……?」
アデリーナが訝しげに眉を寄せる。
グレイ先生は、学園でも影の薄い、歴史学の担当教師だ。なぜ彼がここに?
「アデリーナ様、公爵閣下がお呼びです。……急ぎ、屋敷へお戻りください」
「父様が? 今、この時間に?」
「ええ。何やら、重要な『実験』の準備が整ったとかで」
実験。
その単語が出た瞬間、アデリーナの顔色がさっと青ざめた。
私も背筋に悪寒が走る。
「……私は、今日は寮に残ると伝えてあります」
アデリーナが気丈に拒絶する。
「おやおや。……お父上の命令に背くのですか? 『あの方』が機嫌を損ねれば、どうなるかご存知でしょう?」
グレイ先生の視線が、ちらりと私に向けられた。
それは明確な脅しだった。
行かなければ、この友人がどうなるかわからないぞ、という。
アデリーナは唇を噛み締め、立ち上がった。
「……わかったわ。行くわよ」
「賢明なご判断です」
アデリーナは私の方を向き、不安そうに手を伸ばしかけたが、グレイ先生の視線を気にして引っ込めた。
「リゼ、また明日。……約束よ」
「はい。お気をつけて」
私は笑顔を作って見送った。
だが、胸騒ぎが止まらない。
アデリーナが出て行った後、グレイ先生はすぐには去らず、私に近づいてきた。
「君も優秀な生徒だ、リゼ君」
彼は私の肩をポンと叩いた。
「だが、あまり深入りしないことだ。……『白薔薇』は、遠くで眺めるからこそ美しい。手に取れば、棘で血を流すことになる」
彼は意味深にそう囁くと、音もなく温室を出て行った。
一人残された私は、彼に触れられた肩を強く擦った。
気持ち悪い。
今の言葉。彼は何かを知っている。
もしかして、彼も公爵の手先なのか?
***
その日の夜、私は寮の部屋で眠れずにいた。
アデリーナは無事に屋敷に着いただろうか。
「実験」とは何なのか。
不安を紛らわせるために、私はミラの日記を読み返していた。
公爵の署名と、日記の記述。
証拠は揃いつつある。
だが、これを誰に提出すればいい?
国王は公爵の傀儡だ。騎士団も信用できない。
唯一の希望は、他国の介入か、あるいは民衆を動かすことか。
その時。
窓ガラスが、カツンと鳴った。
小石が当たった音だ。
私は飛び起き、窓を開けて下を覗き込んだ。
三階の高さだ。誰かがいるはずがない。
だが、街灯の薄明かりの下に、一人の人物が立っていた。
フードを目深に被った小柄な影。
その人物は、私が見ていることに気づくと、手招きをして、寮の裏にある森の方へと指差した。
(……罠か?)
普通なら無視する。
だが、その人物の仕草に、既視感があった。
右手をひらひらと振る独特の動作。
あれは、ミラが客引きをする時の癖だ。
「……まさか」
私はカーディガンを羽織り、音を立てないように部屋を抜け出した。
寮監に見つかれば即退学だが、今はそんなことを言っていられない。
夜の森は静まり返っていた。
月明かりだけを頼りに、私は指定された場所へ向かう。
古びた井戸のそばに、その影は待っていた。
「……母さん?」
私が声をかけると、影がフードを取った。
現れた顔を見て、私は息を飲んだ。
ミラではない。
そこにいたのは、アデリーナの屋敷にいるはずの、メイド服を着た少女だった。
まだ十歳くらいだろうか。怯えた表情をしている。
「……あ、あなたが、リゼ様?」
「ええ、そうだけど。あなたは?」
「ミ、ミラ様に言われて来ました! これを!」
少女は震える手で、一枚の手紙を私に押し付けた。
封蝋には、フォルジュ家の紋章ではなく、歪な『鳥』のマーク。
夜啼鳥。ミラの店のマークだ。
私は急いで封を切った。
中には、走り書きのメモが入っていた。
『公爵が動いた。
今夜、儀式が始まる。
アデリーナ嬢ちゃんが危ない。
助けたければ、王城の地下水路へ来い。
……カイル坊ちゃんも連れてきな。一人じゃ死ぬよ』
「……っ!」
文字が踊る。
今夜? 儀式?
アデリーナは屋敷に連れ戻されたのではなかったのか。
いや、屋敷ではなく、最初から王城の地下へ連行されたのか。
「ミラ様が……お屋敷の地下牢に捕まっている私を逃がしてくれたんです。『この手紙をリゼに届けろ』って……自分は囮になって……!」
少女が泣き崩れる。
ミラは捕まったのか? それとも、公爵邸に潜入していたのか?
どちらにせよ、事態は最悪だ。
「わかったわ。ありがとう、よく届けてくれたわね」
私は少女の頭を撫で、寮へ帰るように言った。
少女が走り去るのを見届け、私は手紙を握りつぶした。
アデリーナが危ない。
「白薔薇の牢獄」計画が、最終段階に入ったのだ。
公爵はアデリーナを使って、何を呼び出そうとしている?
私の魂? それとも、もっと別の何か?
どちらにせよ、行かなければならない。
だが、ミラは書いている。『カイルを連れて行け』と。
あの天敵を?
正体がバレるリスクを冒してまで?
(……背に腹は代えられない)
私は決断した。
寮へ戻る足で、私は方向を変えた。
目指すは男子寮。騎士科の棟だ。
***
カイル・ノルトランドの部屋のドアを叩いた時、時計の針は深夜二時を回っていた。
「……誰だ」
不機嫌そうな声と共に、ドアが開く。
寝間着姿のカイルが、私を見て目を剥いた。
「リゼ……!? 貴様、こんな時間に何の用だ。まさか夜這いでも……」
「緊急事態よ。剣を持ってきて」
私は彼の言葉を遮り、ミラのメモを突きつけた。
「アデリーナ様が殺されるわ。……貴方の『正義』が本物なら、私についてきて」
カイルは私の目を見た。
そこには、いつもの怯えた平民の姿はない。
かつて彼が探していた、気高く、そして覚悟を決めた「王妃」の瞳がそこにあった。
カイルは一瞬の沈黙の後、メモを引ったくって読んだ。
そして、舌打ちをした。
「……五分待て。準備する」
彼は私を部屋に入れず、ドアを閉めた。
中から、鎧を着込む音と、剣帯を締める音が聞こえてくる。
私は廊下の冷たい壁に背を預け、首の痣に触れた。
熱い。
今までで一番熱い。
アデリーナが呼んでいる。恐怖の中で、私の名前を呼んでいる気がする。
(待っていて、アデリーナ)
扉が開き、完全武装したカイルが出てきた。
銀色の剣呑な光を纏い、彼は私を見下ろした。
「説明は後でしてもらう。……もしこれが嘘なら、その場で斬り捨てるぞ」
「望むところよ」
私は彼を睨み返した。
もう隠さない。
今夜、私はリゼであり、エレノアとして戦う。
私たちは夜の闇に紛れ、王城へと走り出した。
運命の夜が明ける前に、すべてを終わらせるために。




