第8話
夕闇が迫る王都の裏路地を、私たちは無言で駆け抜けた。
石畳を蹴る足音だけが、湿った空気に響く。
ミラの気配は、もう背後にはない。
彼女は言葉通り、騎士たちを引きつける囮になってくれたのだ。
胸が引き裂かれるような焦燥感に駆られながらも、私はアデリーナの手を離さなかった。彼女の冷たい手が、今は私の命綱だった。
路地を抜け、大通りに待機させていた馬車の前まで辿り着く。
御者が目を丸くして私たちを迎えた。
「お嬢様!? そのように息を切らして……何事ですか?」
「出しなさい。今すぐに」
アデリーナが鋭く命じる。
御者は彼女の剣幕に押され、「は、はい!」と慌てて御者台へと駆け上がった。
私たちは転がり込むように馬車に乗り込んだ。
重厚な扉が閉まり、外界の喧騒が遮断される。
直後、馬車が急発進した。車輪が石畳を噛み、身体がシートに押し付けられる。
「……はぁ、はぁ……」
私は膝に手をつき、荒い息を整えた。
心臓が早鐘を打っている。
恐怖と、運動による疲労。そして何より、懐に抱えた日記帳の重みが、私の精神を圧迫していた。
「……ごめんなさい、リゼ」
対面の席で、アデリーナが震える声で呟いた。
彼女は真っ青な顔で、窓の外――遠ざかる貧民街の方角を見つめていた。
「私のせいで、貴女のお母様を危険な目に……」
「謝らないでください」
私は顔を上げ、きっぱりと言った。
これはミラが選んだことだ。そして、私も選んだ道だ。
「母さんは、あんなことで捕まるほど柔な人じゃありません。……それに、今はこれを解読するのが先決です」
私は胸元から、古い日記帳を取り出した。
革の表紙は手脂で黒ずみ、微かにカビと古い香水の匂いがする。
これが、十六年前の真実。
「白薔薇の王妃」が処刑された裏で動いていた、陰謀の証拠。
アデリーナが視線を日記帳に移す。
その紅い瞳が、恐怖と決意に揺れていた。
「……学園に戻りましょう。私のサロンなら、誰にも盗み聞きされないわ」
***
王都学園、貴族科女子寮。
その最上階にある特別室が、アデリーナの個人サロンだった。
豪奢な調度品に囲まれたその部屋は、しかしどこか寒々しかった。
生活感がない。まるでモデルルームのように完璧に整えられすぎていて、ここに住む主人の孤独を映し出しているようだった。
アデリーナは部屋に入るなり、ドアに厳重な防音結界と鍵をかけた。
そして、重いカーテンを閉め切る。
部屋の中は、魔道ランプの青白い光だけになった。
「……座って」
彼女に促され、私はソファに腰を下ろした。
テーブルの中央に、日記帳を置く。
それがまるで、触れてはいけない呪いのアイテムのように見えた。
「開けるわよ」
アデリーナが白く細い指を伸ばす。
表紙をめくる音が、静まり返った部屋に大きく響いた。
最初のページには、見覚えのある筆跡があった。
私の専属侍女長だった、マーガレットの字だ。
彼女は私の処刑後、行方不明になったと聞いていたが……まさか、こんな手記を残して消えていたとは。
アデリーナが、ポツリポツリと読み上げる。
『神聖歴九九八年、冬。
陛下のご様子がおかしい。
以前のような聡明さは消え失せ、一日中、虚ろな目で玉座に座っておられる。
まるで、魂が抜けた人形のように』
私は息を飲んだ。
処刑される数ヶ月前、確かに夫であるフェリクス国王は変貌していた。
私との会話も上の空で、政務も側近任せ。
私はそれを、過労か、あるいは新しい愛妾にうつつを抜かしているせいだと思っていた。
『フォルジュ公爵が、頻繁に王の寝室へ出入りしている。
公爵が持参する「薬」を飲むと、陛下は一時的に生気を取り戻すが、薬が切れると以前より衰弱されるようだ。
……あれは毒ではないか?』
アデリーナの声が微かに震える。
自分の父親が、王に毒を盛っていたかもしれないという記述。
ページをめくる手が早くなる。
『王妃様への反逆罪の嫌疑。
すべては公爵が仕組んだ狂言だ。
証拠の品とされた隣国との密書は、公爵の執務室で偽造されたものだと、下男が話しているのを聞いてしまった』
ここまでは予想通りだ。
だが、問題はその次だった。
日記の記述は、政治的な陰謀から、次第にオカルトめいた狂気へと変わっていく。
『公爵の真の目的は、王妃様の失脚ではない。
「白薔薇の王妃」の魔力そのものだ。
あの方は、王妃様の魂を抽出し、別の器に移し替える研究をしている。
「白薔薇の牢獄」。
そう呼ばれる魔導具の設計図を盗み見てしまった』
「……魂の、抽出」
アデリーナが顔を上げ、私を見た。
その顔には血の気がなく、唇は紫色に震えている。
「父様は……何をするつもりだったの? 人の魂を抜いて、どうする気だったの?」
「……続きを」
私は促した。
真実は、さらに残酷な形で記されていた。
『王家の血筋は、代々「加護」によって守られている。
だが、今の陛下にはそれがない。何らかの原因で加護が枯渇し、このままでは国を支える結界すら維持できなくなる。
公爵はそれを補うために、王妃様の膨大な魔力を持ち、かつ高潔な魂を「人柱」にしようとしているのだ』
人柱。
その言葉が、重くのしかかる。
私は裏切り者として殺されたのではない。
国の燃料として、消費されるために殺されたのだ。
『だが、大人の肉体では魂の定着率が悪い。
一度肉体を殺し、魂だけを取り出し、無垢な「器」に移し替えて管理する。
そのために選ばれた器は……』
そこで文字が掠れていた。
インクが滲み、筆圧が乱れている。
書いた本人が、極度の恐怖の中でペンを走らせていたことがわかる。
『……公爵家の……紅い瞳を持つ……』
アデリーナが息を止めた。
部屋の空気が凍りつく。
記述はそこで途切れていた。
その先は、ページが引きちぎられている。
誰かが隠滅したのか、あるいは書ききる前に追っ手が来たのか。
沈黙が支配する。
魔道ランプの光が、アデリーナの紅い瞳を照らし出していた。
「……私だわ」
アデリーナが乾いた笑い声を漏らした。
「器は、私だったのね」
「アデリーナ様……」
「おかしいと思っていたの。フォルジュ家の人間は代々、氷の魔力を持つ代わりに、色素の薄い瞳をして生まれる。……でも、私だけが血のような紅い瞳を持っていた」
彼女は自分の目元を指先で覆った。
「父様は言っていたわ。『お前の瞳は特別だ』『お前は国を救う聖女になる』って。……そういう意味だったのね」
彼女は身体を抱きしめるようにして、小さく丸まった。
「私は、貴女を閉じ込めるための『檻』として作られた。……貴女を殺した父が、その魂を私の体に押し込んで、一生飼い殺しにするつもりだったのよ!」
彼女の悲鳴のような声が、部屋に反響する。
あまりにも残酷な真実。
父親からの愛情だと思っていた言葉すべてが、道具としてのメンテナンス確認だったと知らされたのだ。
私の魂を、彼女の中に。
もし儀式が成功していれば、エレノアの人格は消滅し、ただの魔力バッテリーとしてアデリーナの中で生き続けることになっていたのか。
あるいは、アデリーナの人格が上書きされ、私が彼女の体を乗っ取ることになっていたのか。
どちらにせよ、それは地獄だ。
私は立ち上がり、震えるアデリーナの隣に座った。
そして、彼女の肩を抱き寄せた。
「……儀式は失敗しました」
私は彼女の耳元で、静かに告げた。
「私はここにいます。リゼとして、別の体で生きています。貴女の中には誰もいない。……貴女は、誰の檻でもない、貴女自身のものですよ」
アデリーナが顔を上げる。
その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「でも……私は貴女を殺した男の娘よ。私の存在そのものが、貴女を苦しめるためにあるのよ……!」
「いいえ」
私は彼女の涙を指で拭った。
前世の記憶が蘇る。断頭台の上で見せた、諦めの微笑み。
でも今は違う。
私の目の前には、加害者の一族でありながら、誰よりも私のために傷つき、泣いてくれる少女がいる。
「アデリーナ。貴女が私を見つけてくれた時、言ってくれましたよね。『私と同じ目をしている』と」
「……ええ」
「貴女もまた、被害者なんです。親の欲望に翻弄され、孤独を強いられてきた。……私たちは、同じ傷を持つ共犯者でしょう?」
「リゼ……」
アデリーナは私の胸に顔を埋めた。
子供のように声を上げて泣く彼女を、私は強く抱きしめ続けた。
かつて王妃だった私が、処刑人の娘を慰めている。
なんて皮肉で、なんて温かい光景だろう。
その夜、アデリーナは泣き疲れて、私の膝の上で眠ってしまった。
私は彼女をベッドに運び、毛布をかけてやった。
無防備な寝顔は、冷徹な公爵令嬢とは思えないほど幼い。
私は窓辺に立ち、夜の王都を見下ろした。
遠くに見える王城。
あそこのどこかに、フェリクスがいる。
彼は知っているのだろうか。自分が愛した妻が、国の燃料にするために殺されたことを。
それとも、彼もまた公爵の人形に成り下がっているのか。
(……許さない)
私の中で、静かな怒りが燃え上がった。
今までは「平穏に生きたい」と願っていた。
だが、もう逃げるわけにはいかない。
このままでは、アデリーナが次の犠牲になるかもしれない。
「白薔薇の牢獄」計画が失敗したと知れば、公爵は再び私の魂――リゼを探し出し、今度こそアデリーナという檻に入れようとするだろう。
それを阻止するには、公爵を倒すしかない。
そして、この腐った国の膿を出し切るしかない。
「……やってやるわ」
私は夜空に向かって呟いた。
リゼ・ヴァローナとして、そしてエレノア・ヴァレンティアとして。
これは、私たちの生存を懸けた戦争だ。
***
翌朝。
私はアデリーナより一足早く目を覚まし、彼女の部屋を出て寮へと戻った。
朝帰りを見咎められないよう、裏口から忍び込む。
幸い、同室のミアはまだ寝ていた。
私は自分のベッドに倒れ込み、少しだけ仮眠を取ることにした。
昨夜の興奮と疲労で、意識はすぐに闇へと落ちていった。
――夢を見た。
そこは、白亜の壁に囲まれた部屋だった。
王宮の一室。私の、王妃としての私室だ。
私は鏡の前に座り、髪を梳かしている。
鏡に映るのは、黒髪のリゼではなく、銀髪のエレノアだ。
「……美しいな、エレノア」
背後から声がした。
振り返ると、そこに立っていたのは夫のフェリクスではない。
初老の男。
整った髭を蓄え、優しげな笑みを浮かべた――ガラルド・フォルジュ公爵だった。
夢の中の私は、彼に微笑みかけている。
ああ、そうだ。彼は私のよき相談役だった。
若くして王妃になり、孤立していた私を、彼は父親のように支えてくれた。
私は彼を信じていたのだ。
公爵が私に歩み寄り、私の肩に手を置く。
その手が、氷のように冷たい。
「貴女のその魔力。……実に素晴らしい」
彼は私の髪を一房すくい、陶酔したように匂いを嗅いだ。
「国のために散るには惜しい。……永遠に残すべきだ」
「公爵様? 何をおっしゃって……」
「心配いりませんよ。器は用意してあります。……私の最高傑作がね」
彼の瞳が、ギラリと赤く光った。
アデリーナと同じ、紅い瞳。
いや、違う。アデリーナの瞳が宝石のような透明感を持つのに対し、彼の瞳は濁った血の色をしていた。
「さあ、おやすみなさい。白薔薇の君」
公爵の手が、私の首にかかる。
ゆっくりと、力が込められる。
苦しい。声が出ない。
視界が暗転していく中で、私は見た。
部屋の隅に、小さな女の子が立っているのを。
五歳くらいのアデリーナだ。
彼女は泣きながら、その光景を見ていた。
そして、彼女の足元には、無数の「白い薔薇」が咲き乱れ、それがみるみるうちに赤黒い血の色に変わっていく――。
「ハッ……!」
私は飛び起きた。
全身が汗でびっしょりと濡れている。
心臓が痛いほど脈打ち、呼吸がうまくできない。
「……夢……」
ただの悪夢ではない。
あれは、私の記憶と、アデリーナの記憶が混ざり合ったものだ。
昨夜、彼女と深く共鳴したせいで、彼女のトラウマを夢として見てしまったのかもしれない。
首筋を触る。
痣が熱い。
まるで、夢の中で公爵に首を締められた感触が残っているようだ。
「……リゼ? うなされてたけど、大丈夫?」
ミアが心配そうに声をかけてくる。
私は「大丈夫」と手を振ったが、手足の震えは止まらなかった。
今の夢で確信したことがある。
アデリーナは、ただの器ではない。
彼女は、あの現場を見ていた。
そして、彼女の魔力が「白薔薇」を変色させた。
(アデリーナの魔力は、私の魂を固定するための接着剤……?)
もしそうなら、彼女が私に惹かれたのも、私が彼女に安らぎを感じたのも、すべては仕組まれた「機能」だったということになる。
私たちは、パズルのピースのように、くっつくように作られていたのだ。
「……ふざけないで」
私は拳を握りしめた。
運命? 機能?
そんなもので私たちの関係を定義されてたまるか。
私は彼女を利用しないし、彼女にも私を利用させない。
私はベッドから這い出し、制服に着替えた。
今日から、カイルの監視がさらに厳しくなるだろう。
それに、ミラの安否も確認しなければならない。
やるべきことは山積みだ。
けれど、迷いはなかった。
「待っていて、アデリーナ」
私は鏡の中の自分――リゼの瞳を見つめて誓った。
「必ず、その呪われた運命から貴女を救い出してみせる」
その瞳には、かつての「白薔薇の王妃」にはなかった、泥臭く、強靭な光が宿っていた。
***
一方その頃。
学園の騎士科詰め所では、カイル・ノルトランドが報告書を睨みつけていた。
机の上には、昨日捜索したスラムの娼館「夜啼鳥」から押収した証拠品が並べられている。
だが、決定的なものは何一つなかった。
店主のミラは、尋問に対しても「娘が金持ちの友達に誘われて出て行っただけだ」の一点張り。
王妃との関わりを示す物証は見つからなかった。
「……尻尾を出さないな」
カイルは苛立ち紛れにペンを置いた。
彼の勘は告げている。
リゼ・ヴァローナは黒だ。
そして、アデリーナ・フォルジュもまた、何かを隠している。
「隊長。フォルジュ公爵家から使いが来ています」
部下の騎士が入ってきて告げた。
「公爵閣下が、昨日の騒ぎについて説明を求めているそうです。『我が娘の名誉を傷つけた騎士団の暴挙について』と……」
「……チッ。狸親父が」
カイルは舌打ちをした。
公爵が動いたということは、アデリーナが手を回したのだ。
彼女は本気でリゼを守ろうとしている。
だが、それが逆にカイルの疑念を深めていた。
あの冷徹な公爵令嬢が、なぜ平民ごときにそこまでする?
そこには、公爵家の「闇」に関わる理由があるはずだ。
「公爵には適当に謝罪しておけ。……だが、捜査は続行だ」
カイルは立ち上がり、窓の外――女子寮の方角を見据えた。
「リゼ・ヴァローナ。お前の化けの皮、必ず剥がしてやる」
彼の瞳に、冷たい狩人の色が灯る。




