第7話
医務室での「契約」から数日が過ぎた。
体調は戻ったものの、私の日常は劇的に変化していた。
「リゼ、移動教室よ。鞄を持ってあげる」
「リゼ、今日のランチは私のサロンで食べましょう」
「リゼ、そのリボン、曲がっているわ」
アデリーナ・フォルジュ。
学園の頂点に君臨する公爵令嬢が、まるで過保護な姉のように私に張り付いているのだ。
当然、周囲の視線は痛いほど突き刺さる。
「あの子、公爵令嬢に脅されているんじゃないか」という同情の声と、「身の程知らずが取り入った」という嫉妬の声が半々。
だが、アデリーナ本人はそんな雑音など意に介さない。
彼女にとって世界には、「自分とリゼ」か「それ以外」しか存在しないようだった。
そして週末。
私は彼女から、とんでもない提案を受けた。
「貴女の家に行きたいわ」
放課後の教室で、彼女は優雅に紅茶を飲みながら言い放った。
「……はい?」
私は耳を疑った。
「家、ですか? 私の?」
「ええ。貴女が育った場所を見ておきたいの。どんな環境が、その歪で美しい精神を作ったのか興味があるわ」
「お断りします」
私は即答した。
冗談ではない。私の家は貧民街の娼館だ。
公爵令嬢が足を踏み入れていい場所ではないし、何よりあそこには「彼女」がいる。
ミラだ。
貴族を毛嫌いしている彼女が、アデリーナを見たらどうなるか。
「汚い場所です。泥と汚物の匂いがしますし、治安も悪い。貴女のような方が行けば、身包み剥がされますよ」
脅し文句を並べたが、アデリーナは楽しそうに笑っただけだった。
「あら、私を誰だと思っているの? 襲ってくるような愚か者がいれば、氷像にしてあげるだけよ。それに……」
彼女は声を潜め、私の耳元に唇を寄せた。
「貴女の育ての親――ミラ、と言ったかしら。彼女に会ってみたいの」
ドキリとした。
私がミラの話をしたのは、医務室でうわ言のように一度呟いただけのはずだ。それを聞き逃していなかったのか。
「……なぜ、母に?」
「貴女の過去を探るためよ。スラムの孤児が、なぜ王妃のような所作を身につけ、古代語を理解するのか。……そのルーツを知る者がいるなら、話を聞くのが一番でしょう?」
逃げ道は塞がれていた。
彼女は本気だ。
それに、カイル・ノルトランドの監視の目がある今、私が一人で里帰りするよりも、公爵家の馬車で堂々と乗り込んだ方が、逆に怪しまれないかもしれない。
「……わかりました。ですが、何があっても知りませんよ」
「ええ、覚悟の上よ」
こうして、前代未聞の「公爵令嬢のスラム訪問」が決行されることになった。
***
フォルジュ家の馬車は、漆黒の塗装に銀の装飾が施された、走る要塞のような代物だった。
車輪には衝撃吸収の魔法がかかっており、石畳のガタつきなど微塵も感じさせない。
窓の外の景色が、徐々に荒んでいく。
綺麗に整備された貴族街から、活気ある平民街へ。
そして、建物が低く、密集し、色が失われていく貧民街へ。
アデリーナは窓の外をじっと見つめていた。
眉をひそめたり、鼻をつまんだりするかと思ったが、彼女の表情は至って真剣だった。
「……これが、王都の影」
彼女が独り言のように呟く。
「父様たちは、王都の繁栄ばかりを語るわ。でも、実際にはこれだけの人間が、光の届かない場所に押し込められている」
「……見ない方がよかったですか?」
「いいえ。知るべきよ。……貴女がどこから来て、何を見てきたのか」
彼女は窓から視線を外し、私を見た。
その瞳には、憐れみではなく、敬意のような光があった。
それが少しだけ、私の胸を温かくした。
馬車が止まる。
御者が扉を開けると、むっとするような湿気と、腐敗臭、そして安香水の匂いが流れ込んできた。
「到着しました、お嬢様」
御者がハンカチで鼻を押さえながら告げる。
馬車の周りには、すでに人だかりができていた。
ボロを纏った子供たち、昼間から酒を飲んでいる男たち、そして客引きをする娼婦たち。
彼らは一様に、場違いな豪華な馬車を、値踏みするような、あるいは敵意のこもった目で見ている。
「降りましょう」
アデリーナは躊躇なくタラップを降りた。
泥で汚れた地面に、彼女の純白のヒールが下ろされる。
「おい、見ろよ。上等の獲物だぜ」
「貴族のお姫様が何の用だ?」
下卑た声が飛ぶ。
男の一人が、ニヤニヤしながらアデリーナに近づこうとした。
その瞬間。
キィンッ――!
空気が凍りついた。
アデリーナが指一本動かしていないのに、彼女の周囲に冷気の結界が展開されたのだ。
地面が白く霜で覆われ、近づこうとした男の足元が凍りつく。
「ひっ……!?」
「私の許可なく半径三メートル以内に入らないで。……肺まで凍らせるわよ」
冷徹な声。
絶対強者のオーラに、野次馬たちがサァーっと引いていく。
スラムの人間は、危険を嗅ぎ分ける能力だけは高い。
彼女は「獲物」ではなく「捕食者」だと理解したのだ。
「行きましょう、リゼ。案内して」
彼女は平然と私に言った。
私はため息をつきながら、見慣れた看板の下をくぐった。
「こちらです。……歓迎はされませんからね」
***
「夜啼鳥」の店内は、昼間だというのに薄暗かった。
壁には染みが浮き、長年の紫煙で天井は黄ばんでいる。
「母さん、いる?」
私が声をかけると、奥の部屋から気怠げな足音がした。
「なんだいリゼ、早かったじゃないか。学校はどうし……」
カーテンを開けて現れたミラは、私の後ろに立つ人物を見て、言葉を失った。
咥えかけた煙草が、床に落ちる。
白と金の制服。
白金の髪。
紅い瞳。
ミラの顔色が、見たこともないほど蒼白になった。
それは恐怖ではない。
もっと根深い、憎悪と驚愕が入り混じった表情。
「……あんた」
ミラの声が震える。
「なんで、『フォルジュ』の人間がここにいる」
空気が張り詰める。
ミラが一目で彼女の家系を見抜いたことに、アデリーナも眉を動かした。
「私の家をご存知なのね。……初めまして、アデリーナ・フォルジュです。リゼの友として、ご挨拶に伺いました」
アデリーナは完璧なカーテシーを見せた。
こんな掃き溜めの娼婦相手に、公爵令嬢が頭を下げるなどあり得ないことだ。
だが、ミラは感動するどころか、般若のような形相で私を睨んだ。
「リゼ! どういうつもりだい! よりによって、この家の人間を連れ込むなんて!」
「母さん、落ち着いて。彼女は私の……」
「追い出しな! 今すぐだ!」
ミラが叫び、近くにあった酒瓶を掴もうとする。
私は慌てて彼女の腕を掴んだ。
その腕は、小刻みに震えていた。
「母さん! 彼女は私を助けてくれたの! 私が魔力暴走を起こした時、庇ってくれた恩人なのよ!」
「恩人……?」
ミラの手が止まる。
彼女は荒い息を吐きながら、アデリーナを睨みつけた。
「……フォルジュが、リゼを助けた?」
「ええ。信じられないでしょうけれど」
アデリーナが一歩進み出る。
「貴女が私の家を憎んでいる理由は察しがつきます。……私の父、ガラルド公爵のことでしょう?」
「その名前を出すんじゃないよ」
ミラは吐き捨てるように言った。
「……汚らわしい。あんたからは、あの男と同じ血の匂いがする」
「母さん、お願い。話だけでもさせて。彼女は父親とは違うわ。……彼女もまた、あの家の被害者なの」
私の必死の説得に、ミラは舌打ちをして、ソファにドカッと座り込んだ。
「……勝手にしな。茶の一杯も出さないよ」
それが、精一杯の妥協だった。
私はアデリーナを促し、向かいの古びた椅子に座らせた。
異様な光景だった。
スラムの娼館の一室で、公爵令嬢と元娼婦が睨み合っている。
「単刀直入に聞くわ」
アデリーナが口火を切った。
「貴女は何者? ……ただの娼婦ではないわね。その右腕の火傷、そして微かに感じる魔力の残滓。貴女は昔、宮廷にいたのではないかしら」
核心を突く問い。
私は息を飲んだ。ミラが元・宮廷関係者? 初耳だ。
ミラは冷ややかに笑った。
「公爵サマのお嬢ちゃんは、探偵ごっこがお好きなようだね。……ああ、いたよ。下っ端の侍女としてね。魔力なんて、生活魔法で火を起こす程度さ」
「嘘ね」
アデリーナは断言した。
「貴女の火傷は、ただの火傷じゃない。『呪詛返し』を受けた痕だわ。……それも、かなり強力な呪いを身を挺して防いだ時の」
アデリーナの視線が、ミラの腕の傷に注がれる。
「十六年前。王妃エレノアが処刑された日。貴女はどこにいたの?」
その日付が出た瞬間、部屋の温度が下がった気がした。
ミラの目が、殺気を帯びて細められる。
「……あの日、私は王都の広場にいたよ」
ミラが静かに語り始めた。
「雪が降っていた。……みんな、魔女が死ぬのを見ようと熱狂していた。石を投げ、罵声を浴びせ……狂っていたよ」
彼女の手が、無意識に自分の腕の傷をさする。
「でもね、私は見たんだ。断頭台の上の彼女は、一言も命乞いをしなかった。ただ、悲しそうに笑っていた」
私の心臓がドクリと跳ねる。
あの日、私は笑っていただろうか。
諦めと絶望の中で、確かに最期に微笑んだ記憶がある。
「刃が落ちた瞬間……」
ミラがアデリーナを指差す。
「あんたの父親、フォルジュ公爵が、最前列でそれを見ていた。……そして、彼の手には『白い薔薇』が握られていたんだ」
「白薔薇……?」
「ああ。王妃の首が落ちた瞬間、その白薔薇が一瞬で真っ赤に染まった。……血を浴びたわけじゃない。まるで花が血を吸ったみたいにね」
アデリーナの顔色が蒼白になる。
彼女が見る悪夢と同じ光景だ。
「公爵はそれを大事そうに懐にしまって、笑っていたよ。……満足げに、そしてどこか狂信的にね」
ミラは私の方を見た。
その目には、いつもの母としての慈愛ではなく、もっと深い、何かを守ろうとする戦士の色が宿っていた。
「その直後さ。路地裏で赤ん坊の泣き声が聞こえたのは」
「それが……私?」
「そうだよ。誰かが捨てたのか、それとも『逃がした』のかは知らない。……でも、あんたを抱き上げた時、私は震えが止まらなかった」
ミラは私の頬に手を伸ばした。
ザラザラとした指の感触。
「あんたからは、あの王妃と同じ匂いがしたんだ。……香水じゃない。魂の匂いだ」
沈黙が落ちた。
ミラは知っていたのだ。
私が何者であるか、あるいは何を引き継いでいるのかを、ずっと前から。
アデリーナが震える声で問う。
「……私の父は、何をしたの?」
「さあね。でも、ろくなことじゃない。王妃を殺して、その魂を何かに利用しようとしたのか……あるいは、歪んだ愛情で縛り付けようとしたのか」
ミラはアデリーナを睨み据えた。
「いいかい、お嬢ちゃん。あんたがリゼに近づくってことは、あんたの父親にリゼを差し出すのと同じことなんだよ。……自分の家の闇を暴く覚悟はあるのかい?」
アデリーナは唇を噛み締め、膝の上で拳を握った。
彼女の美しい顔が、苦悩に歪む。
父親への愛情と、疑惑。そしてリゼへの想い。
「……あります」
長い沈黙の後、アデリーナは顔を上げた。
「私は、父様の人形にはならない。……リゼが何者であれ、私は彼女を守ると誓いました。たとえ、敵が私の父であっても」
その瞳に宿る決意の光を見て、ミラはふぅーっと長く息を吐いた。
「……口だけは達者だね」
ミラは立ち上がり、棚から古い木箱を取り出した。
埃を被ったその箱を、テーブルの上に置く。
「なら、これを持って行きな」
「これは?」
「私が王宮から逃げ出す時、どさくさに紛れて持ち出したもんだ。……エレノア様付きの侍女長が、隠そうとしていたのをくすねた」
ミラが箱を開ける。
中に入っていたのは、一冊の日記帳だった。
表紙には、見覚えのある紋章。
そして、挟まれていたのは、枯れて茶色くなった『押し花』。
「これは……!」
私は息を飲んだ。
それは、私が王妃時代に書き留めていた日記ではない。
筆跡が違う。
震える文字で書かれている。
アデリーナが最初の一ページを開く。
『王妃様は嵌められた。
証拠は、フォルジュ公爵が捏造したものだ。
あの方は、王妃様の魔力を狙っている。
”白薔薇の牢獄”計画……。
魂を器に移し替え、永遠に自分のものにするための、狂気の儀式……』
そこまで読んで、アデリーナは口元を押さえた。
「白薔薇の……牢獄……」
タイトルの意味。
それは比喩ではなかった。
私の処刑は、私を殺すためではなく、私を「捕獲」して閉じ込めるための儀式だったのか。
「リゼ」
ミラが真剣な顔で私を見た。
「あんたが生きてるってことは、儀式は失敗したんだ。……魂が器に入らず、別の赤ん坊に入っちまったからね」
彼女はアデリーナの方を向く。
「でも、公爵は諦めていないはずだ。……あんたがリゼと一緒にいれば、いずれ公爵は気づく。『器』の失敗作が、娘の近くにいることに」
アデリーナは青ざめながらも、私の手を握りしめた。
「……だからこそ、私が守らなきゃいけない。父様に気づかれる前に、父様の計画を潰す」
「できるのかい? 相手はこの国の影の支配者だ」
「やります。……私には、リゼが必要だから」
二人の視線が交差する。
敵対していた空気が、奇妙な共犯関係へと変わっていく瞬間だった。
その時。
ドンドンドンッ!
激しく扉を叩く音が響いた。
「おい、ミラ! いるか!」
低い男の声。
ミラが舌打ちをする。
「チッ、また地上げ屋の連中か。……いや、違うな」
ミラは窓の隙間から外を覗き、表情を険しくした。
「……制服を着た男たちだ。騎士団の連中だよ」
心臓が跳ねる。
カイルだ。
嗅ぎつけられた。
「リゼ、お嬢ちゃん。裏口から逃げな」
ミラは日記帳を私の胸に押し付けた。
「これはあんたが持っておきな。……真実を知るための鍵だ」
「でも、母さんは!?」
「私はうまく誤魔化すさ。……元娼婦の口八丁を舐めんじゃないよ」
ミラはニヤリと笑い、私の背中を強く押した。
「行きな! そして、二度とこんな場所に戻ってくるんじゃないよ! ……幸せにおなり」
その言葉が、今生の別れのように聞こえて、私は涙が溢れそうになった。
だが、アデリーナが私の手を引く。
「行くわよ、リゼ! 躊躇っている暇はないわ!」
私はアデリーナに引かれ、裏口へと走った。
背後で、扉が蹴破られる音と、ミラの啖呵が聞こえた。
「うるさいねぇ! 客商売の邪魔をするんじゃないよ!」
母さん。
私は唇を噛み締め、薄暗い路地裏を駆け抜けた。
握りしめた日記帳が、私の手のひらで熱く脈打っていた。
白薔薇の牢獄。
その恐ろしい計画の全貌が、これから明かされようとしている。
そして、私とアデリーナの「運命」は、もう後戻りできないところまで来てしまっていた。
路地を抜けると、夕闇に沈む王城のシルエットが、まるで巨大な墓標のように黒々と聳え立っていた。




