第6話
カイル・ノルトランドによる尋問と、部屋の捜索。
その事実は、ボディブローのように私の精神を蝕んでいた。
翌日の朝、私はベッドから起き上がることすら億劫だった。
首の痣が熱い。
まるで焼けた鉄の首輪を嵌められているかのように、じりじりと皮膚を焼く感覚が消えないのだ。
「リゼ、顔色が最悪よ。保健室に行く?」
同室のミアが心配そうに覗き込んでくる。
鏡を見ると、目の下には隈ができ、唇はカサカサに乾いていた。
これでは、誰の目にも「私は追い詰められています」と宣伝して歩いているようなものだ。
「……大丈夫。今日は実技試験があるから、休めないわ」
私は冷たい水で顔を叩き、無理やり意識を覚醒させた。
今日の午後は、魔法実技の定期試験だ。
これを休めば、ただでさえ危うい特待生の立場が悪くなる。
それに、逃げればカイルの疑惑を肯定することになりかねない。
(平静を装え。私はただの平民、リゼ・ヴァローナ)
呪文のように唱えながら、私は重い足取りで寮を出た。
空は晴れ渡っているのに、私の視界には灰色の靄がかかっているようだった。
***
第三訓練場は、生徒たちの熱気で溢れかえっていた。
今日は貴族科と平民科、合同での実力測定だ。
といっても、同じ土俵で戦うわけではない。
貴族科の生徒が見守る中で、平民科の生徒が「見世物」のように課題をこなす。その後、貴族科が模範演技を見せて格の違いを知らしめる。
それがこの学園の恒例行事だった。
「次、リゼ・ヴァローナ。前へ」
教官に名前を呼ばれ、私は進み出た。
視線が突き刺さる。
二階の観覧席には、優雅に紅茶を飲みながら見下ろす貴族たちの姿。
その最前列に、アデリーナ・フォルジュがいた。
彼女は頬杖をつき、無表情でこちらを見ている。
そして、教官の隣には、腕組みをして目を光らせるカイル・ノルトランドの姿もあった。
(……最悪の布陣ね)
胃がキリキリと痛む。
課題は『防御壁』の展開。
指定されたエリアに魔法障壁を作り、教官が放つ魔弾を一発防げば合格だ。
私は支給されたボロ杖を構えた。
手が震えそうになるのを、左手で強く握りしめて誤魔化す。
「始め!」
教官の合図と同時に、杖先から魔弾が放たれる。
速い。
手加減なしの一撃だ。
「……防御!」
私は反射的に魔力を練り上げた。
イメージするのは、頑丈な壁。私を守る盾。
だが、その瞬間。
首の痣が、ドクンッ! と大きく跳ねた。
視界が歪む。
教官の放った魔弾が、あの日の「石礫」に見えた。
観客席のざわめきが、私を罵倒する群衆の声に聞こえる。
そして、カイルの冷たい視線が、処刑命令を下した夫の目と重なった。
――殺される。
本能的な恐怖が、理性を食い破った。
制御なんてできない。
守らなければ。もっと強く、誰も寄せ付けないほど強固に、絶対的な拒絶を!
「嫌あぁぁぁぁッ!!」
私の口から、悲鳴に近い詠唱がほとばしった。
ズガガガガッ!
地面が爆ぜる音がした。
私が展開した『防御壁』は、透明な壁などではなかった。
地面から黒い茨のような魔力の棘が噴き出し、ドーム状に私を覆い尽くしたのだ。
それは防御というより、触れる者すべてを串刺しにする「拒絶の檻」だった。
「な、なんだこれは!?」
「暴走だ! 下がれ!」
教官が慌てて後退する。
茨の檻はさらに巨大化し、訓練場の石畳を砕きながら周囲を威嚇した。
魔力の色は、薄汚れた灰色の中に、毒々しい赤が混じっている。
とても平民科の生徒が出せる出力ではない。
(止まって……お願い、止まって……!)
心の中で叫んでも、魔力は止まらない。
むしろ、恐怖を感じれば感じるほど、防衛本能が過剰に反応し、棘を鋭くしていく。
呼吸ができない。
魔力の奔流に飲み込まれ、意識が遠のいていく。
「……闇属性の変異種か。やはり危険因子だ」
冷徹な声が聞こえた。
茨の隙間から見えたのは、剣を抜いたカイルの姿だった。
彼の剣に、青白い聖なる光が宿る。
騎士科主席の実力。あの一撃なら、私の茨ごと私を両断できるだろう。
「排除する」
カイルが地面を蹴った。
死が迫る。
ああ、まただ。
また私は、何も弁明できないまま、裏切り者として殺されるのか。
私は目を閉じた。
その時。
キンッ!
硬質な音が響き、カイルの剣が弾かれた。
茨の檻の外で、冷気が爆発する。
「……そこまでよ、カイル」
凛とした声。
目を開けると、私の茨とカイルの間に、氷の壁が立ちはだかっていた。
そして、その氷の向こうから、白金の髪をなびかせた少女が歩いてくる。
アデリーナだ。
彼女は、暴れ狂う私の魔力の茨を見ても、眉一つ動かさなかった。
まるで庭の散歩でもするかのように、棘の森へと足を踏み入れる。
「アデリーナ様! 危険です! その女は暴走しています!」
カイルが叫ぶが、彼女は止まらない。
「危険? ……これが?」
アデリーナは、私の目の前まで来ると、鋭く尖った魔力の棘に、素手を伸ばした。
「やめて! 触れないで!」
私が叫ぶ。
その棘は、触れれば肉を削ぐ凶器だ。
だが、彼女の指先が触れた瞬間、パキン、と乾いた音がした。
赤い茨が、白く凍りついていく。
彼女の膨大な氷の魔力が、私の暴走する熱を中和しているのだ。
アデリーナは棘をかき分け、檻の中に入り込んできた。
そして、地面に座り込んで震える私の前に膝をついた。
「……酷い顔ね」
彼女は呆れたように笑うと、私の頬に両手を添えた。
冷たい手。
でも、その冷たさが、火傷しそうに熱くなっていた私の思考を冷やしてくれる。
「リゼ。私の目を見て」
赤い瞳が、至近距離で私を捉える。
「何を怯えているの? あの騎士? それとも、自分自身?」
「……殺される……また、殺される……」
うわ言のように呟く私に、彼女は強く額を押し付けた。
ごつん、と痛いくらいに。
「誰も貴女を殺させないわ。私がここにいる限り」
傲慢で、不遜で、けれど絶対的な響き。
「貴女の魔力は、悲鳴を上げているだけよ。『助けて』って。……うるさくて敵わないわ」
アデリーナが私を強く抱きしめた。
甘い花の香りと、氷の冷気。
そして、ドクン、ドクンと脈打つ、彼女の心臓の音。
不思議だった。
彼女の体に触れた瞬間、私の中で暴れていた黒い感情が、急速に凪いでいく。
首の痣の熱が、彼女の冷気に吸い取られていくようだ。
「……っ、うぅ……」
張り詰めていた糸が切れた。
私の目から、大粒の涙が溢れ出した。
前世で処刑が決まった時も、スラムで飢えていた時も、決して流さなかった涙。
それを、こんな衆人環視の中で流してしまうなんて。
「大丈夫よ」
アデリーナが私の背中を優しく撫でる。
その手つきは、不器用で、ぎこちなかった。
きっと、誰かを慰めるなんて初めてなのだろう。
「私は貴女を怖がったりしない。……だから、戻ってきなさい」
周囲の茨が、ガラス細工のように砕け散り、キラキラと光の粒子になって消えていった。
訓練場は静まり返っていた。
誰もが息を飲み、公爵令嬢が平民の少女を抱きしめる光景を見つめていた。
カイルだけが、剣を収めることも忘れ、複雑な表情で私たちを睨みつけていた。
***
私は医務室のベッドで目を覚ました。
魔力欠乏による気絶だったらしい。
窓の外はすでに夕焼けに染まっている。
「……起きた?」
枕元に、アデリーナが座っていた。
彼女は優雅にリンゴの皮を剥いている。ナイフの使い方が洗練されすぎていて、リンゴの皮が芸術的な一本の紐になっている。
「アデリーナ、様……」
体を起こそうとして、激しい頭痛に呻く。
「寝ていなさい。魔力を使い果たしたのよ」
彼女は小さく切ったリンゴを、フォークに刺して私の口元に突き出した。
「はい」
「え……?」
「『あーん』よ。手が震えて食べられないでしょう?」
拒否権はないらしい。
私はおずおずと口を開け、リンゴを食べた。
甘酸っぱい果汁が、乾いた喉に染み渡る。
「……助けていただいて、ありがとうございました。それに、申し訳ありません」
私は俯いた。
「目立たないようにしていたのに……あんな騒ぎを起こしてしまって」
これで退学処分は免れないかもしれない。
いや、それ以上に、カイルに「危険分子」として確定されてしまったことが致命的だ。
「カイルには私が釘を刺しておいたわ。『私の所有物に手を出したら、フォルジュ家の全権力を持って潰す』ってね」
アデリーナは事もなげに言う。
「し、所有物……?」
「ええ。貴女は今日から私のものよ。命を救ってあげたんだから、それくらいの権利はあるでしょう?」
彼女は悪戯っぽく笑ったが、その目は笑っていなかった。
真剣そのものだ。
「リゼ。貴女の魔力……あれは、普通の魔法じゃないわね」
核心を突く言葉。
「あの茨。あれは『拒絶』の形。……そして、貴女の首の痣から溢れ出ていた力は、私の家の地下にある『何か』と同じ波動を感じたわ」
私はシーツを握りしめた。
誤魔化せない。
この少女は、感覚が鋭すぎる。
「……私の家、フォルジュ公爵家には秘密があるの」
アデリーナはナイフを置き、窓の外を見た。
「父様が隠している、開かずの間。そこから、夜な夜な聞こえるのよ。……泣き声が」
「泣き声?」
「ええ。貴女が今日上げた悲鳴と、同じ声が」
心臓が止まるかと思った。
公爵家の地下。そこに何がある?
まさか、私の遺体? それとも奪われた魂の一部?
アデリーナは私の方を向き、寂しげに眉を下げた。
「私はね、ずっと一人だった。家では『魔公爵の娘』として恐れられ、学園では『完璧な令嬢』を演じさせられ。……誰も本当の私なんて見ていなかった」
彼女の手が、私の手に重ねられる。
「でも、貴女の暴走を見た時、初めて思ったの。『ああ、ここにいた』って」
「……ここにいた?」
「私と同じくらい傷ついて、世界を憎んで、それでも泣きながら立っている子が」
共感。
それは、貴族と平民という壁を超えた、魂の共鳴だった。
彼女もまた、家という檻に閉じ込められた囚人なのだ。
「リゼ。私、貴女のことが知りたい。貴女の秘密も、私の家の秘密も……二人なら暴ける気がするの」
「それは……危険すぎます。下手をすれば、貴女の立場も危うくなる」
「構わないわ。どうせ、人形のように生きる人生なんて飽き飽きしていたもの」
アデリーナは私の手を強く握った。
「ねえ、リゼ。私と共犯者になってくれない?」
共犯者。
その響きは、甘美で、そして恐ろしい誘惑だった。
王妃エレノアとしての復讐。
平民リゼとしての平穏。
そのどちらでもない、第三の道。
「……私を利用するつもりですか?」
「お互い様よ。貴女も、カイルから身を守るために私の権力が必要でしょう?」
彼女は不敵に微笑む。
それは悪役令嬢のような、けれど頼もしい笑顔だった。
私は彼女の手を握り返した。
その手はまだ冷たいけれど、通い合う熱があった。
「……後悔しますよ、アデリーナ様」
「望むところよ」
契約は成立した。
夕闇に染まる医務室で、私たちは初めて「友人」として、そして「共犯者」として手を結んだ。
だが、私たちはまだ知らなかった。
この契約が、王国の歴史を覆す大事件の幕開けになることを。
そして、アデリーナの言う「地下の泣き声」の正体が、私の想像を絶するものであることを。
廊下から、カツ、カツと硬い足音が近づいてくる。
カイルだ。
彼はまだ諦めていない。
「……来るわね」
アデリーナが視線を鋭くする。
「ええ。……でも、もう怖くありません」
私は震えの止まった手で、首の痣に触れた。
不思議と、痛みは引いていた。
隣に、同じ傷を持つ少女がいる。ただそれだけで、世界は少しだけ呼吸しやすくなっていた。




