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白薔薇の牢獄〜王妃エレノアは愛したせいで死んだ。そして憎まれたせいで生まれ変わった〜  作者: 九葉(くずは)


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第5話

昨夜の出来事は、悪夢のように私を苛んでいた。


図書館でのカイル・ノルトランドとの遭遇。

無意識に出てしまった「カーテシー」の所作。

そして、脳裏に響いた『器よ』という不気味な声。


私は寮の硬いベッドの上で、膝を抱えて震えが止まるのを待った。

窓の外はまだ薄暗い。明け方の冷気が、隙間風となって部屋に入り込んでくる。


(……油断した)


爪が白くなるほど腕を強く掴む。

十六年かけてスラムの泥に染まったつもりだった。

言葉遣いも、歩き方も、思考回路さえも平民のそれに書き換えたはずだった。

けれど、極度の緊張と恐怖が、私の中から「エレノア」を引きずり出してしまったのだ。


カイルは勘付いたはずだ。私がただの平民ではないことに。

彼が所属するノルトランド家は、代々王家の「汚れ仕事」を請け負う一族だ。

彼らは匂いを嗅ぎつける。反逆の匂い、秘密の匂い、そして――死者の匂いを。


『見つけたぞ……』


あの声の主は誰だ?

カイルではない。もっとおぞましく、粘着質な何かが、学園の、いや王都の地下で蠢いている感覚。

私の首にある赤い痣が、警告するように熱を帯びていた。


「……んん、リゼ? もう起きてるの?」


二段ベッドの上から、ミアの眠そうな声が降ってきた。

私は慌てて表情を作り変える。


「ええ、ちょっと目が覚めちゃって。予習しておこうと思って」


「真面目ねえ……。私なんて、昨日の公爵令嬢の夢見ちゃってうなされてたわよ」


ミアの言葉に、心臓が跳ねる。

私もだ。

ただし、私の夢に出てくるのは、公爵令嬢ではなく断頭台の刃だ。


私は冷たい水で顔を洗い、鏡の中の自分を睨みつけた。

今日からは、もっと徹底しなければならない。

背中を丸めろ。視線を下げろ。気配を消せ。

私は石ころだ。誰の目にも止まらない、路傍の石になれ。


そう自分に言い聞かせて、私は部屋を出た。


***


その日の午後は、貴族科と平民科の合同講義だった。

場所は広大な第三温室。

薬草学の授業だ。


温室の中は湿気が高く、むせ返るような緑の匂いが充満している。

生徒たちは二人一組でペアを組み、指定された薬草を採取してスケッチすることになっていた。


「うわ、平民とペアかよ。最悪」

「触らないでよね、バイ菌が移るわ」


貴族科の生徒たちの露骨な嫌悪感が、温室の空気をさらに重くする。

教師は見て見ぬふりだ。ここでは、身分差こそが絶対のルールなのだから。


私はできるだけ目立たないよう、温室の隅にあるシダ植物の棚に向かった。

ペアになったのは、トビーだ。彼なら安心できる。


「なあリゼ、あの花知ってるか?」


トビーが指差したのは、温室の中央に鎮座するガラスのケースだ。

そこには、見事な真紅の薔薇が咲き誇っていた。

ただの薔薇ではない。花弁の先から、微かに魔力の燐光が漏れ出ている。


「『魔紅薔薇クリムゾン・ローズ』ね。魔力を養分にして育つ希少種よ。……確か、フォルジュ公爵家が品種改良したものだわ」


「へえ、詳しいな。……ってか、フォルジュってあのおっかない公爵令嬢の家だろ?」


トビーが声を潜める。

その瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。


気配。

昨日の図書館で感じた殺気とは違う。

もっと甘く、絡みつくような視線。


私はゆっくりと振り返った。

温室の入り口に、彼女が立っていた。


アデリーナ・フォルジュ。

今日も完璧な身なりだ。白と金の制服には一点の汚れもなく、白金の髪は湿気などものともせずにサラサラと流れている。

彼女の周りだけ、空気が研ぎ澄まされているようだった。


彼女は迷わず、まっすぐにこちらへ歩いてくる。

周囲の生徒たちが、モーゼの海割れのように道を開ける。

彼女の視線は、私一点に固定されていた。


(……逃げられない)


私は観念して、その場に立ち尽くした。

石ころになれと念じた矢先に、宝石商に見つかってしまったような気分だ。


「ごきげんよう、リゼ」


アデリーナは私の前で足を止め、優雅に微笑んだ。

その笑顔は、昨日のような氷の冷たさではなく、どこか幼い子供が玩具を見つけた時のような無邪気さを孕んでいた。

それが余計に恐ろしい。


「……ごきげんよう、アデリーナ様」


私は深く頭を下げる。今度は意識して、少し背中を丸め、不恰好に。


「昨日はゆっくり話せなかったわね。……少し、付き合ってくださらない?」


「授業中ですが」


「先生には許可を取ってあるわ。私の研究の手伝い、という名目でね」


拒否権はないらしい。

教師の方を見ると、彼は「公爵令嬢の機嫌を損ねるなよ」と言わんばかりの目で私を見て、そそくさと視線を逸らした。


「……わかりました」


私が答えると、アデリーナは満足そうに頷いた。

そして、信じられないことに、私の手を取ったのだ。

彼女の手は冷たく、そして華奢だった。


「行きましょう」


ざわめく生徒たちの視線を背に、私はアデリーナに手を引かれ、温室の奥へと連れ去られた。


***


彼女が連れて行った先は、温室の最奥にある「特別管理区域」だった。

一般生徒は立ち入り禁止のエリアだ。

重厚なガラス戸を開けると、そこは別世界だった。


外の熱気とは裏腹に、ひんやりとした空気が肌を撫でる。

そして、視界を埋め尽くすのは――白だった。


白薔薇。

かつて私が愛し、私の象徴であった花。

それが部屋一面に咲き乱れている。


「……綺麗でしょう?」


アデリーナが私の手を離し、花壇の縁に腰掛けた。

白い花の中に佇む彼女は、まるで絵画のように美しい。だが、その瞳の赤色が、白の世界に不吉なコントラストを描いていた。


「ここは私の隠れ家なの。……本当は赤い薔薇の方が魔力効率はいいのだけれど、私はこの白薔薇の方が好きなのよ」


彼女は一輪の白薔薇に指を這わせる。

棘を恐れる様子もない。


「なぜだかわかる?」


試すような問いかけ。

私は喉が渇くのを感じながら、慎重に言葉を選んだ。


「……色が、ないからですか?」


「ふふ、いい答えね。でも少し違うわ」


アデリーナは花弁を一枚、指先で千切った。

白い花弁が、彼女の指の力で少し傷つき、汁が滲む。


「染まりやすいからよ。……どんな色にも、誰の血にも」


ゾクリとした。

彼女の言葉には、十六、七歳の少女が持つには重すぎる闇が含まれている。


アデリーナは私の方を向き、手招きをした。

そこには、白い鉄製のティーテーブルが用意されていた。

いつの間に準備させたのか、湯気を立てるティーポットと、焼き菓子が並んでいる。


「座って。お茶にしましょう」


私は言われるがままに、向かいの席に腰を下ろした。

アデリーナが自らポットを持ち、カップに紅茶を注ぐ。

芳醇な香り。

ダージリンの最上級茶葉だ。平民が一生かかっても口にできない代物。


「……毒なんて入っていないわよ」


私がカップを見つめて固まっていると、アデリーナがくすりと笑った。


「いえ、そのようなことは」


私はカップを手に取った。

香りだけでわかる。これは、王妃時代に私が好んで飲んでいた銘柄と同じだ。

偶然か? それとも――。


一口含む。

懐かしい渋みと甘みが広がり、同時に胸が締め付けられるような痛みが走った。

幸せだった頃の記憶。夫と二人、庭園で茶を楽しんだ午後の光景。

それが一瞬でフラッシュバックし、私は思わず目頭を押さえた。


「……どうしたの?」


アデリーナの声が近づく。

ハッとして顔を上げると、彼女がテーブル越しに私の顔を覗き込んでいた。


「泣いているの?」


「い、いえ! ……あまりに美味しくて、驚いただけです。こんな高級なお茶、初めて飲みましたから」


私は咄嗟に平民の仮面を被り直した。

だが、アデリーナの赤い瞳は、私の嘘を見透かすように細められた。


「嘘ね」


彼女は断言した。


「貴女のその反応は、初めての感動じゃない。……『喪失』の涙よ」


心臓が早鐘を打つ。

この少女は、どこまで鋭いのか。


アデリーナは席に戻ると、自分のカップを揺らした。

紅茶の水面に、彼女の赤い瞳が映っている。


「私、時々夢を見るの」


唐突な独白だった。


「雪が降る日。広場に断頭台があって、一人の女性が処刑される夢」


私は息を止めた。

カップを持つ手が震えそうになるのを、必死でテーブルに押し付ける。


「顔は見えないわ。でも、とても誇り高い背中をしている。……そして、刃が落ちた瞬間、彼女の周りにあった白い薔薇が、一斉に赤く染まるの」


彼女は夢見心地な声で語るが、その表情は蒼白だった。


「その夢を見ると、私はいつも泣いて起きるの。悲しいわけでもないのに、心が引き裂かれるみたいに痛くて。……父様に話したら、ひどく怒られたわ。『二度とその話をするな』って」


フォルジュ公爵。

彼は、私の処刑に深く関わっているとされる人物だ。

アデリーナが見ている夢は、ただの悪夢ではない。

彼女の幼少期の記憶か、それとも血に刻まれた因縁か。


アデリーナは顔を上げ、私を射抜いた。


「リゼ。貴女を見た時、その夢の続きを見ているような気がしたの」


「……私は、貴女の夢とは無関係です」


「そうかしら? 貴女のその所作、言葉の端々に見える教養、そして何より……その瞳。貴女は、私が知るどの貴族よりも『貴族』らしいわ」


彼女は身を乗り出し、私の手に自分の手を重ねた。

氷のように冷たい手。


「教えて。貴女は誰? フォルジュ家の敵? それとも……」


彼女の顔が近づく。

紅い瞳の奥に、切実な渇望が見えた。

孤独。

誰にも理解されない悪夢を抱え、冷徹な仮面の下で震えている少女の魂。


「……私を、救ってくれる人?」


その言葉は、あまりにも無防備で、私の心の防壁を揺さぶった。

前世の私には、誰もいなかった。

誰かに救いを求めることすら許されず、一人で死んでいった。

目の前の少女は、かつての私だ。


「アデリーナ様」


私が口を開きかけた、その時。


ガタンッ!


温室の入り口の扉が乱暴に開かれた。

二人して振り返ると、そこには険しい顔をしたカイル・ノルトランドが立っていた。

後ろには、数名の生徒会役員を従えている。


「……何の真似かしら、カイル卿」


アデリーナの声が一瞬で冷徹なものに戻る。

私に重ねていた手も、素早く引っ込められた。


カイルはツカツカと歩み寄ると、私を一瞥もせずにアデリーナに敬礼した。


「失礼します、アデリーナ様。……緊急の査察です」


「査察? 私の温室を?」


「学園内で禁忌とされている『闇魔術』の痕跡が感知されました。魔力反応の発生源は、この第三温室付近です」


闇魔術。

その単語に、私は昨夜の声『器よ』を思い出した。


カイルの視線が、アデリーナから私へと移動する。

昨日、図書室で見せた鋭い刃のような視線。


「……そこの平民。リゼ・ヴァローナだったな」


「はい」


「お前の部屋も捜索させてもらった」


「な……!?」


私は立ち上がりかけた。

寮の部屋を? 私の留守中に?


「許可なくそのような……!」


「風紀委員の特権だ。疑わしきは罰せよ、が我が国の鉄則だろう?」


カイルは私の抗議を鼻で笑うと、懐から一枚の紙を取り出した。

それは、私が夜な夜な書き溜めていたメモの切れ端だった。

古代語の魔術理論や、現在の政治情勢についての考察が書かれている。


「平民の孤児が、なぜ古代語を知っている? なぜ王宮の内部構造図を落書きしている?」


カイルが一歩踏み出す。


「答えろ。お前は、革命派のスパイか? それとも――」


彼は言葉を切り、私の首元を見た。

スカーフの下の痣を見通すように。


「――処刑された『亡霊』を呼び戻そうとする、ネクロマンサーの手先か?」


空気が凍りついた。

亡霊。

彼らが探しているのは、やはり「私」の魂だ。


アデリーナがゆっくりと立ち上がる。

彼女は私とカイルの間に割って入った。


「下がりなさい、カイル」


「アデリーナ様、これは国家の問題です。この女は危険だ」


「私の客よ。……私の目の前で、私の友人を侮辱することは許さないわ」


友人。

その言葉に、私だけでなくカイルも目を見開いた。

あの孤高の公爵令嬢が、平民を友と呼んだ?


「……友人、ですか。貴女が」


カイルは皮肉げに口角を上げたが、公爵令嬢の命令には逆らえない。

彼は舌打ちを一つつくと、私を指差した。


「今日は引く。だが、目は離さんぞ」


カイルは部下たちに撤収を命じ、嵐のように去っていった。

だが、去り際に彼が私に残した視線は、「必ず正体を暴く」という明確な宣戦布告だった。


温室に再び静寂が戻る。

私は脱力して椅子に座り込んだ。

心臓が痛い。

メモが見つかった。これで私は、完全に王家の監視対象になった。


「……災難だったわね」


アデリーナが淡々と言う。

私は顔を上げた。


「……なぜ、庇ったのですか? 彼が言ったことは、あながち間違いではありません。私は怪しい人間です」


「言ったでしょう。貴女に興味があるって」


アデリーナは冷めた紅茶を一口飲み、ふふと笑った。


「それに、カイルのあの顔、見た? 悔しそうで傑作だったわ」


彼女は楽しそうにしているが、その手は微かに震えていた。

彼女もまた、カイルの背後にある「王家の闇」を恐れているのだ。

それなのに、私を庇った。


「……ありがとうございます」


私が素直に礼を言うと、アデリーナは少し照れたように視線を逸らした。


「勘違いしないで。……貴女が私の『夢』の謎を解く鍵かもしれないから、手元に置いておきたいだけよ」


彼女はそう言うと、私の首元のスカーフに手を伸ばした。

そして、そこにある赤い痣を、指先でそっとなぞった。


「熱い……」


彼女が呟く。

痣がドクンと脈打つ。

アデリーナの冷たい指と、私の熱い痣が触れ合った瞬間、視界が一瞬真っ白に染まった。


脳裏に映像が流れ込む。

幼いアデリーナ。

泣き叫ぶ彼女を押さえつける、大きな手。

『見るな! 忘れろ!』

父親である公爵の声。

そして、鉄格子の向こうで揺れる、一輪の白薔薇――。


「っ……!」


私は弾かれたように身を引いた。

今のは、アデリーナの記憶?

魔力が共鳴したのか?


アデリーナも驚いたように目を見開いている。


「今、何か……」


彼女が問いかけようとした時、終業の鐘が鳴り響いた。

現実への引き戻し。


「……今日はここまでね」


アデリーナは立ち上がり、背を向けた。

だが、去り際に一度だけ振り返り、静かに告げた。


「また明日、ここに来なさい。……これは命令よ、リゼ」


私は彼女の背中を見送りながら、自分の首筋を押さえた。

痣の熱は引かない。

それどころか、カイルに疑われ、アデリーナと共鳴したことで、運命の歯車は決定的に狂い始めていた。


「白薔薇の王妃」の記憶。

公爵家の「開かずの間」。

そして、カイルが追う「王妃の魂」。


すべての道が、破滅へと向かっている気がしてならない。

けれど、もう引き返せない。

私は温室の窓の外、赤く染まり始めた夕暮れの空を見上げ、覚悟を決めたように唇を噛んだ。

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