第4話
入学式での騒動から一夜が明け、王都学園での生活が本格的に始まった。
私が割り当てられたのは、平民科女子寮の北棟、三階の角部屋だ。
四人一室の狭い部屋には、蚕棚のような二段ベッドが二つ押し込まれている。
壁は薄く、隣の部屋の話し声や、廊下を歩く足音が筒抜けだ。
「ねえリゼ、昨日のことだけどさ……」
朝の身支度をしていると、同室になった少女――商家出身のミアが、恐る恐る声をかけてきた。
彼女は手鏡でソバカスを気にしながら、声を潜める。
「本当にあの公爵令嬢に目をつけられてない? 『顔を覚えた』なんて言われてたじゃない。あれって、後で呼び出してイジめる予告なんじゃ……」
ミアの心配はもっともだ。
貴族にとって、平民の名前を覚えるなど、「処刑リスト」に載せるのと同義だと思われている節がある。
私は紐で靴を縛りながら、努めて平坦な声で答えた。
「大丈夫よ。気まぐれに声をかけただけだと思うわ。公爵家の令嬢が、いちいち平民一人にかまっている暇なんてないでしょうし」
そう、あの場限りだ。
そうでなくては困る。
アデリーナ・フォルジュ。彼女と関わることは、私の過去の蓋を開ける危険性を孕んでいる。
「だといいけど……。あ、急がないと! 一限目は魔法実技よ」
私たちは急いで寮を出て、校舎へと向かった。
***
平民科の第一訓練場は、校舎裏の空き地だった。
地面は踏み固められた土のままで、雨が降れば泥沼になるだろう。
一方、遠くに見える貴族科の訓練場は、全天候型のガラスドームで覆われている。
この待遇の差には、もう怒る気力も湧かない。
「整列! お前ら、魔道具の扱いには気をつけろよ! 壊したら弁償だ!」
教官の怒鳴り声が響く。
配られたのは、塗装が剥げ落ち、ヒビの入った木製の杖だった。
「練習用」という名目で、何十年も使い古された廃棄寸前の代物だ。
(……酷いものね)
私は手渡された杖を検分した。
魔力を通すための核である魔石は曇りきっていて、導線となる回路も摩耗している。これでは魔力を流しても途中で霧散してしまう。
まともに魔法を発動させるには、新品の杖の三倍の魔力消費が必要だろう。
「今日の課題は『灯火』だ。魔力を集中させて、杖の先端に光を灯せ。維持時間は一分。始め!」
教官の合図で、三十人の生徒が一斉に杖を構える。
「うぅ……んっ!」
「出ろ、出ろ……!」
あちこちで唸り声が上がるが、光る気配はない。
平民科の生徒の多くは、今日初めて杖に触れる者ばかりだ。
魔力の流し方すら感覚的に掴めていない上に、このポンコツな杖では無理もない。
私は周囲の様子を伺いながら、そっと杖を握った。
前世の記憶がある私にとって、初級魔法など呼吸をするより簡単だ。
だが、ここで煌々と光らせてしまえば目立つ。
「才能がある」と目をつけられるのは避けたい。
あくまで「平均より少し上」程度を演じる必要がある。
(出力を絞って……回路の詰まりを迂回するように魔力を流す)
私は意識を集中し、指先から糸のように細く魔力を送り込んだ。
杖の内部構造をイメージする。
腐食した回路を避け、わずかに残った正常なラインに魔力を滑り込ませる。
この繊細な操作は、王妃時代に刺繍をしながら魔力制御の訓練をしていた経験が生きている。
「……灯火」
小さく詠唱する。
杖の先が、ボッという音と共に灯った。
ろうそくの火程度の、頼りない光。
揺らぎ、今にも消えそうに見えるが、決して消えない絶妙なバランス。
「おっ、やった!」
隣で見ていたトビーが声を上げた。
「すげえなリゼ! 一発で成功かよ!」
「まぐれよ。……この杖、機嫌を取るのが難しくて」
私は苦笑いで誤魔化しながら、内心で冷や汗を拭った。
危なかった。
気を抜けば、このボロ杖が破裂するほどの光量を出してしまうところだった。
教官が気怠げに歩み寄ってくる。
「ふん、ヴァローナか。……形にはなっているな。だが光が弱い。魔力が足りてない証拠だ。もっと飯を食え」
「はい、精進します」
低評価。完璧だ。
私は安堵のため息をつき、光を消した。
その時だ。
背中の産毛が逆立つような感覚。
誰かに見られている。
教官ではない。生徒たちの羨望の眼差しでもない。
もっと鋭く、冷徹で、こちらの本質を見透かそうとする視線。
私は何気ない動作を装って、視線の先――校舎の三階を見上げた。
そこに、いた。
窓枠に肘をつき、こちらを見下ろしている人影。
逆光で顔は見えないが、風に揺れる白金の髪と、胸元で輝く公爵家の紋章が、その正体を如実に物語っていた。
アデリーナ・フォルジュ。
彼女は貴族科の授業中のはずだ。なぜこんなところを?
距離は離れているはずなのに、彼女と目が合ったような気がして、私は思わず杖を握りしめた。
(まさか……気づかれた?)
私の魔力制御の不自然さに?
いや、ありえない。あんな微弱な光で、そこまで見抜けるはずがない。
彼女はしばらく私を見つめていたが、やがて興味を失ったように窓辺から姿を消した。
心臓の鼓動が早くなる。
「覚えておくわ」という昨日の言葉が、呪いのように頭の中でリフレインした。
***
昼休み。
食堂は「戦場」と化していた。
ここでも階級差は健在だ。
一階の広くて明るいフロアは貴族科専用。専属のシェフが温かい料理を提供する。
私たち平民科は、地下にある薄暗い大食堂だ。
メニューは二種類だけ。具の少ないスープと硬いパンのセットか、得体の知れない肉の煮込み。
私はスープセットを受け取り、隅の席に座った。
トビーやミアも一緒だ。
「聞いたかよ? 貴族科のランチ、今日は『仔羊の香草焼き』だってさ」
トビーがパンをスープに浸しながらぼやく。
「こっちはゴムみたいな干し肉だぜ。やってらんねーよな」
「文句言わないの。食べられるだけマシよ」
私がたしなめると、トビーは肩をすくめた。
確かに格差は腹立たしいが、スラムの残飯に比べれば、ここは天国だ。
味の薄いスープを口に運ぶ。
……前世で愛用していた、王家御用達のコンソメの味が脳裏をよぎり、少しだけ胸が痛んだ。
その時だった。
ザワッ……と、食堂の入り口付近が騒がしくなった。
続いて、波が引くように静寂が広がる。
何事かと顔を上げると、そこに信じられない光景があった。
地下食堂の入り口に、白と金の制服が立っていたのだ。
アデリーナ・フォルジュ。
彼女は薄汚れた地下食堂の空気に顔をしかめることもなく、まっすぐに歩き出した。
カツ、カツ、カツ。
優雅なヒールの音が、静まり返った食堂に響く。
彼女の周りだけ、まるでスポットライトが当たっているかのように明るく見えた。
平民の生徒たちは、呆気にとられて道を開ける。
まさか公爵令嬢が、こんな掃き溜めのような場所に足を運ぶとは誰も思わない。
彼女は迷うことなく進み――そして、私のテーブルの前で足を止めた。
「……見つけた」
美しい顔が無表情のまま、私を見下ろす。
紅い瞳が、逃げ場を塞ぐように私を捉えていた。
トビーが「ひっ」と短い悲鳴を上げて固まる。ミアは震えながら下を向いた。
私はスプーンを置き、ゆっくりと立ち上がって一礼した。
できるだけ、不恰好に。平民らしく。
「……アデリーナ様。このような場所に、何のご用でしょうか」
「ここ、座っていいかしら」
彼女は私の返事も待たずに、向かいの席――トビーの隣の空席に腰を下ろした。
古い木製の椅子が、彼女が座るだけで玉座のように見えてくるから不思議だ。
「あの、アデリーナ様……? ここは平民科の食堂で……」
「知っているわ。貴族科の食事は脂っこくて嫌いなの。ここの方が静かでいいわね」
嘘だ。
静かなのは、貴女が来たから全員が凍りついているだけだ。
それに、彼女の手元には食事のトレイがない。食べるつもりなど最初からないのだ。
アデリーナは頬杖をつき、じっと私を観察し始めた。
「リゼ、といったわね」
「はい」
「今日の魔法実技、見ていたわ」
心臓が跳ねる。
やはり、見られていた。
「灯火の魔法。……貴女、わざと出力を絞ったでしょう?」
「……何のことでしょうか。あのボロ杖では、あれが限界でした」
「嘘ね」
彼女は断言した。
「あの杖は内部回路が腐っている。普通に魔力を流せば、途中で暴発するか、全く光らないかのどちらかよ。あんなに一定の光量で、しかも揺らぎなく維持し続けるなんて、よほどの制御力がなければ不可能だわ」
彼女は身を乗り出し、声を潜めた。
「貴女、何者?」
その問いかけに、背筋が凍った。
彼女の目は、単なる好奇心ではない。
獲物を見つけた狩人のような、あるいは、理解できない未知の生物を解剖しようとする学者のような目だ。
「……私は、スラム育ちのただの孤児です。生きるために器用になっただけです」
「ふうん」
アデリーナは納得していない様子だったが、それ以上追求はしなかった。
代わりに、彼女は唐突なことを言い出した。
「私、貴女に興味があるの」
「は……?」
「私の周りにいる人間は、二種類しかいない。私を利用しようとする者か、私を恐れて遠巻きにする者。……でも貴女は違う」
彼女の指先が、テーブルの上を滑り、私の手に触れそうになる。
「貴女の目には、私と同じ『怯え』があるのに、私に媚びようとしない。それが不思議でたまらないの」
「買い被りです。私は貴女が怖いですし、関わりたくないと思っています」
私はあえて突き放すように言った。
これ以上近づかないでくれ、という拒絶を込めて。
だが、アデリーナは傷つくどころか、楽しそうに口角を上げた。
「正直でいいわね。……あの子犬みたいな取り巻きたちより、ずっとマシ」
彼女は立ち上がると、私の耳元に顔を寄せた。
甘い花の香りが包み込む。
「また来るわ。……逃げられると思わないでね、リゼ」
それだけ言い残し、彼女は嵐のように去っていった。
食堂に残されたのは、呆然とする生徒たちと、頭を抱える私だけだった。
「お、おいリゼ……お前、公爵令嬢と知り合いなのか!?」
トビーが震える声で聞いてくる。
私は深くため息をつき、冷めたスープを飲み干した。
「……最悪よ」
知り合いなんて生易しいものではない。
あれは、お気に入りの玩具を見つけた子供の目だ。
そして私は知っている。貴族の「興味」が、いかに残酷で、気まぐれに人の人生を狂わせるかを。
***
放課後。
私は逃げるように図書館へ向かった。
寮に帰れば質問攻めに遭うし、校舎内をうろついていればまたアデリーナに捕まるかもしれない。
図書館の奥、古文書の棚の隙間なら、誰も来ないはずだ。
埃っぽい空気を吸い込み、少しだけ落ち着きを取り戻す。
棚から適当な歴史書を抜き出し、パラパラとめくる。
『フェリクス国王陛下の治世と繁栄』
そんなタイトルの本を見て、吐き気がこみ上げた。
繁栄?
私が処刑されてから、国は確実に傾いている。スラムの拡大、治安の悪化、隣国との緊張。
それを隠蔽するためのプロパガンダ本だ。
本を棚に戻そうとした、その時。
「そこで何をしている」
冷徹な男の声が背後から降ってきた。
ビクリと肩が震える。
振り返ると、書架の影に一人の男子生徒が立っていた。
背が高く、銀髪を短く刈り込んでいる。
身につけているのは、貴族科の制服だが、他の生徒とは違う。
左腕に巻かれた腕章。そして、腰に帯びた本物の剣。
王都学園・騎士科主席、カイル・ノルトランド。
私は彼のことを知っていた。
いや、「彼」を知っているわけではない。
「ノルトランド伯爵家」が、代々王家の影として動く、諜報と暗殺を担う家系であることを知っているのだ。
「……平民科の生徒が、なぜ貴族区画の図書室にいる」
カイルは私を見下ろし、氷のような目で問い詰める。
その手は、無意識なのか剣の柄にかかっていた。
「す、すみません。迷ってしまって……」
私はとっさに、おどおどした平民のふりをした。
背を丸め、視線を泳がせる。
だが、カイルの目は欺けなかった。
「迷った? 平民科の校舎からここまで、三つの検問があるはずだ。それを全て『偶然』通り抜けたと言うのか?」
鋭い。
確かに、私は結界の綻びを見つけて入り込んだ。
正規のルートではない。
カイルが一歩、距離を詰める。
威圧感。
殺気にも似たプレッシャーが肌を刺す。
「お前、名を何という」
「リゼ……リゼ・ヴァローナです」
「ヴァローナ……聞いたことのない名だ」
彼は私の周りをゆっくりと歩き始めた。
まるで、不審物を検分するかのように。
「アデリーナ様が、昼に平民科の食堂へ行ったと聞いた。その相手がお前か」
「……あの方が勝手に来られただけです」
「公爵令嬢が興味を持つ平民。……妙だな」
カイルは私の目の前で足を止めた。
その瞳が、私の首元――スカーフで隠した痣のあたりをじっと見つめる。
「お前からは、血の匂いがしない」
「え……?」
「スラム育ちの人間特有の、諦めと腐敗の匂いだ。お前は綺麗すぎる。姿勢も、目つきも」
しまった。
アデリーナへの対応で気を張っていたせいで、無意識に背筋が伸びていたのかもしれない。
私は慌てて猫背になろうとしたが、遅かった。
カイルが懐から何かを取り出し、わざとらしく落とした。
銀貨だ。
チャリ、と音がして床を転がる。
「拾え」
命令形。
これはテストだ。
平民が貴族の落とした金をどう拾うか。
卑屈に這いつくばるか、それとも――。
私は一瞬、迷った。
だが、拒否すれば怪しまれる。
私は膝を折り、銀貨に手を伸ばした。
その動作。
背筋を伸ばしたまま、優雅に膝を曲げ、指先を揃えて物を拾う。
「カーテシー(宮廷式お辞儀)」の基本動作そのもの。
王妃教育で何万回と繰り返した所作が、極度の緊張の中で体に染み付いた癖として出てしまった。
ハッとして顔を上げる。
カイルが、目を細めていた。
「……ほう」
彼は低く呟いた。
「今の所作。……どこの田舎貴族の作法だ?」
「み、見よう見まねです! 娼館で、客の真似をして……!」
「嘘をつけ」
カイルが私の手首を掴んだ。
強い力。逃げられない。
「その洗練された動きは、一朝一夕で身につくものじゃない。……お前、誰の回し者だ?」
彼の瞳の奥に、明確な敵意が灯る。
それは単なる風紀委員としての尋問ではない。
もっと深い、国家の根幹に関わる敵を探す目だ。
「答えろ。お前の正体はなんだ」
手首を掴む力が強まる。骨が軋むほどに。
痛みと共に、首の痣がカッ――と熱を持った。
魔力が暴走しそうになるのを、必死で抑え込む。
(バレる……!)
その時だった。
私の脳裏に、不気味な声が響いた。
それはカイルの声ではない。もっと遠く、王城の地下深くから響いてくるような、粘着質な声。
『見つけたぞ……器よ』
ゾクリ、と悪寒が走る。
カイルもまた、何かを感じ取ったのか、バッと視線を宙に巡らせた。
「今の気配は……?」
その隙をついて、私は手首を振りほどいた。
「失礼します!」
「待て!」
カイルの制止を振り切り、私は図書室を飛び出した。
廊下を走りながら、心臓が破裂しそうだった。
今の声はなんだ?
カイルは何を知っている?
そして、私の無意識の癖が、最大の弱点になっている。
廊下の角を曲がり、人気のない階段の陰に滑り込む。
荒い息を整えながら、私は震える手で首の痣を押さえた。
「……もう、逃げられない」
アデリーナの執着。
カイルの疑惑。
そして、謎の声。
平穏を求めて入学したはずの学園が、今や断頭台の上よりも危険な場所に変わりつつあった。
窓の外では、夕闇が王都を飲み込もうとしていた。
かつて私が愛し、そして殺されたこの国で、再び運命の歯車が、軋んだ音を立てて回り始めていた。




