第3話
春の陽気が王都を包み込んでいるというのに、私の心臓は冷たい石のように重かった。
「……似合ってるじゃないか」
娼館の玄関先で、ミラが腕を組んで私を見下ろしている。
私が身につけているのは、王都学園・平民科の制服だ。
濃紺の生地に、真鍮のボタン。装飾は最小限で、実用性だけを重視した質素なデザイン。
かつて私が纏っていた、絹やレースで彩られたドレスとは比べるべくもない。
けれど、鏡に映った自分の姿は、意外なほどしっくりときていた。この十六年で、私の魂も体も、すっかりこの「下」の世界に馴染んでしまったということだろうか。
「行ってきます、母さん」
荷物は小さな鞄一つだけ。
中には数冊の教科書と、筆記用具、そして着替えが二日分。
全寮制の学園に入れば、もうここに戻ってくることは滅多になくなる。
ミラはふいっと視線を逸らし、煙草の煙を吐き出した。
「湿っぽいのは嫌いだよ。……ほら、これを持っていきな」
彼女が投げてよこしたのは、小さな革袋だった。
受け取ると、ジャラリと重い音がする。
「向こうじゃ何があるかわからない。金があれば、大抵のことは解決できる」
「でも、これは母さんの……」
「出世払いでいいって言ってるんだよ。さっさと行きな!」
彼女は乱暴に手を振ると、背を向けて店の中へと戻っていった。
その背中が、以前よりも少し小さく見えた。
私は革袋を握りしめ、深く頭を下げた。
「……必ず、立派になって戻ってきます」
声に出さず、心の中で誓う。
私が成功すれば、ミラをこんな場所から連れ出すことができる。
その目標だけが、今の私を支える唯一の正義だった。
スラムの出口へと続く道を歩き出す。
背後で、夜啼鳥の看板が風に揺れて、キーキーと寂しげな音を立てていた。
***
王都学園は、王城のすぐ東側に位置している。
広大な敷地には、尖塔を備えた校舎や、手入れの行き届いた庭園、最新の設備を誇る魔術訓練場が並ぶ。
だが、その美しさは「半分」だけだ。
正門の前には、見えない壁が存在していた。
「貴族科の方は中央の正門へ! 馬車は順に並んでください!」
「平民科の新入生は東門だ! ぼさっとするな、道を空けろ!」
衛兵の怒鳴り声が響く。
中央の豪奢な鉄門は大きく開かれ、紋章入りの豪華な馬車が次々と吸い込まれていく。
一方、私たちが案内された東門は、裏口と言っても差し支えないほど小さく、古びていた。
そこに向かう平民科の生徒たちは、皆一様に緊張した面持ちで、縮こまるように歩いている。
私もその列に加わった。
「見て、あれ……公爵家の馬車よ」
「すごい、窓枠に金箔が貼ってあるわ」
前を歩く少女たちが、憧れと嫉妬が入り混じった声で囁き合う。
私は横目でそれを見送った。
(クリフォード侯爵家に、バレンティン伯爵家……)
馬車の扉に描かれた紋章を見るだけで、どの家門か即座に判別できる。
かつてのお茶会で、媚びへつらいながら私にすり寄ってきた連中だ。
彼らは今も変わらず、富と権力を貪っているらしい。
胸の奥で、どす黒い感情が渦を巻く。
「おい、そこ! 立ち止まるな!」
衛兵に肩を小突かれた。
私は反射的に睨み返しそうになるのを、ぐっと堪えて頭を下げた。
「……申し訳ありません」
今はリゼだ。
ただの平民の少女だ。
ここで騒ぎを起こせば、入学初日に退学処分になりかねない。
東門をくぐると、そこは平民科の校舎エリアだった。
石造りの校舎は堅牢だが古く、壁には蔦が絡まり、窓枠の塗装は剥げかけている。
遠くに見える貴族科の校舎は、白亜の壁が大理石で輝き、屋根には魔術による防護結界の光が淡く瞬いていた。
「あからさまだな」
隣を歩いていた少年が、不満げに呟いた。
茶色の髪にそばかすのある、人の良さそうな顔立ちだ。
「同じ学費免除の特待生でも、扱いは天と地ほど違うってわけだ。……あ、俺はトビー。商人の倅だ。君は?」
「……リゼ」
「よろしくな、リゼ。君、すげえ落ち着いてるな。俺なんか足が震えてるよ」
トビーは苦笑いしながら、しきりに周りを気にしている。
確かに、周りの新入生たちは貴族たちの視線や、荘厳な雰囲気に圧倒されているようだった。
私が落ち着いて見えるのは、ここが「かつての私の庭」の一部だったからに過ぎない。
「平民科の校舎は古いけど、図書室の蔵書量は貴族科と変わらないらしいわ。それに、実力さえあれば卒業後の就職先は保証される」
私が淡々と答えると、トビーは目を丸くした。
「へえ、詳しいんだな。……でも、実力主義って言ってもさ、魔法具の質も教師の質も違うんだろ? フェアじゃないよな」
「そうね」
否定はしない。
この国において、魔法は「血統」だ。
貴族は幼い頃から高価な魔石を使い、家庭教師をつけて魔力を磨く。
一方、平民は素質があっても、それを伸ばす環境がない。
スタートラインの時点で、すでに勝負はついているのだ。
だが、私には「記憶」がある。
王家秘伝の魔術理論、古代語の知識、そして宮廷魔術師団長から直々に教わった魔力制御法。
道具がボロくても、知識があれば戦える。
(見ていなさい。この不条理な壁に、小さな穴くらいは空けてみせる)
私は鞄のベルトを握りしめ、校舎へと足を踏み入れた。
入学式は、講堂で行われた。
ここだけは全校生徒が一度に集まる場所だ。
ただし、席の配置は残酷なほど明確だった。
一階席のフカフカした椅子には、白と金の制服を着た貴族科の生徒たち。
二階席の硬い木のベンチには、濃紺の制服を着た平民科の生徒たち。
私たちは上から、優雅に談笑する彼らの頭頂部を見下ろすことしか許されない。
「静粛に!」
壇上に学園長が現れ、魔法で増幅された声が響き渡る。
長い祝辞が始まった。
「伝統」だの「誇り」だの、耳障りの良い言葉が並ぶが、その中身は空っぽだ。
私は欠伸を噛み殺しながら、一階席を観察していた。
派手な髪色。煌びやかな装飾品。
授業中も帯剣を許可されているのは、貴族の特権だ。
あの中に、私の死に関わった家の子供がいるかもしれない。
「……続いて、在校生代表の挨拶です」
学園長の声が変わった。
会場の空気が、ふっと変わる。
ざわめきが消え、緊張と期待が入り混じった沈黙が降りた。
「高等部二年、貴族科筆頭――アデリーナ・フォルジュ公爵令嬢」
その名前が呼ばれた瞬間、私の心臓がドクリと跳ねた。
フォルジュ公爵家。
代々、王家の守護者として強大な魔力を受け継ぐ名門。
そして、前世の私が処刑される直前、私の無実を訴える嘆願書を「握りつぶした」と噂されていた家だ。
壇上の袖から、一人の少女が歩み出てきた。
息を飲むほどに、美しかった。
腰まで届く白金の髪は、窓から差し込む光を受けて光輪のように輝いている。
瞳は鮮血のように赤い。
完璧に整った制服の着こなし。歩くたびに翻るマントの優雅さ。
彼女が歩くだけで、空気が冷たく澄み渡っていくような錯覚を覚える。
(……あれが、今の公爵令嬢)
私は手すりに身を乗り出し、彼女を見つめた。
彼女は壇上の中央に立つと、会場全体を一瞥した。
その視線には、驕りも、媚びもなかった。
あるのは、徹底的な「無関心」。
まるで、目の前にいる数百人の生徒たちが、道端の石ころと同じ価値しかないとでも言うような、冷ややかな瞳。
「皆様、ごきげんよう」
鈴を転がすような、けれど温度のない声。
「王都学園へようこそ。……この学園において重要なのは、家柄でも過去の栄光でもありません。ただ一つ、『力』のみです」
会場がどよめく。
貴族社会の頂点にいる公爵令嬢が、家柄を否定するかのような発言をしたからだ。
だが、彼女は意に介さず続ける。
「魔力無き者は去りなさい。覚悟無き者は道を開けなさい。この学園は、この国の盾となる者を選別する場所です。甘えた考えでここにいるのなら――」
彼女の赤い瞳が、一瞬だけ二階席――平民科の方へ向けられた気がした。
いや、もっと正確に。
私の方を、射抜いたように感じた。
「――今すぐ、荷物をまとめてお帰りあそばせ」
ゾクリ、と背筋に電流が走った。
それは恐怖ではない。
共鳴だ。
彼女の言葉の裏にある、強烈な孤独と、何者も寄せ付けない拒絶の壁。
それは、かつて「白薔薇の王妃」として孤立し、誰にも心を許せなかった私自身と、ひどく似ていた。
(アデリーナ……)
彼女の演説が終わると、一階席からは割れんばかりの拍手が起こった。
だが、彼女は誰にも微笑みかけず、表情一つ変えずに壇上を降りていった。
その背中は、あまりにも凛としていて、そして痛々しいほどに独りだった。
「すげえ美人だけど……なんか怖えな」
隣でトビーが身震いする。
周りの平民たちも、「あれが公爵家の魔女か」「絶対に関わりたくない」と囁き合っていた。
けれど、私は視線を外せなかった。
彼女の纏う空気が、私の奥底に眠る「何か」を刺激する。
前世の記憶か、それとも魔術的な予感か。
彼女となら、あるいは――。
いや、よそう。
私は平民、彼女は雲の上の公爵令嬢。
関わることなどあってはならない。彼女の家が私の死に関わっているのなら、なおさらだ。
私は拳を握りしめ、自分に言い聞かせた。
目立つな。影に徹しろ。
目的は卒業資格と、生き抜くための力だ。
だが、運命とは皮肉なものだ。
その決意は、式典が終わった直後に、あっけなく崩れ去ることになる。
式が終わり、校舎への移動が始まった。
階段は大混雑で、二階席から降りる平民科の生徒たちは、一階の出口付近で貴族科の生徒たちの波と合流してしまった。
「おい、邪魔だぞ平民!」
「汚い制服が触れたじゃないか!」
罵声が飛ぶ。
私たちは壁際に張り付き、彼らが通り過ぎるのを待つしかない。
そんな中、一人の男子生徒が、わざとらしく私の前に足を突き出した。
「おっと」
足に気づくのが遅れた私は、つんのめってバランスを崩した。
「あっ……!」
倒れそうになった私の体が、前を歩いていた人物にぶつかってしまう。
白と金の制服。
甘い薔薇の香水の香り。
「きゃっ!?」
短い悲鳴と共に、その女子生徒が持っていた教科書が床に散らばった。
最悪だ。
私がぶつかった相手は、取り巻きを連れた貴族の令嬢だった。
「な、なによ貴女!?」
令嬢が振り返り、金切り声を上げる。
縦ロールの髪に、不釣り合いなほど濃い化粧。胸元には伯爵家の紋章。
「……申し訳ありません、足が滑ってしまって」
私はすぐに体勢を立て直し、頭を下げて謝罪した。
だが、彼女の怒りは収まらない。
「謝って済むと思っているの? 私の制服に皺がついたじゃない! これ、特注のシルクなのよ!」
「クリーニング代をお支払いします」
「はあ? 貧乏人の小銭なんて受け取るわけないでしょう! 穢らわしい!」
彼女は扇子で口元を隠しながら、蔑むような目で私を見た。
周りの取り巻きたちも、クスクスと笑い始める。
「これだから平民は困るわね」
「教育がなってないのよ」
「野良犬と同じね」
カッと頭に血が上る。
理不尽な侮辱。前世であれば、不敬罪で即座に投獄できるレベルの暴言だ。
私が無言で俯いていると、令嬢はさらに図に乗ったのか、床に落ちた私の鞄を蹴り飛ばした。
中から、ミラが買ってくれた古びた教科書が飛び出し、石床の上を滑っていく。
「あら、ごめんなさい。ゴミかと思って蹴ってしまったわ」
彼女が嘲笑う。
その瞬間、私の自制心が限界を迎えた。
指先が熱くなる。魔力が感情に呼応して、暴れ出そうとする。
ほんの少し、空気を圧縮して衝撃波を放てば、彼女のその厚化粧を吹き飛ばすことなど造作もない。
(やってやる……!)
私が顔を上げ、魔力を練ろうとした、その時だった。
「――おやめなさい」
凛とした声が、喧騒を切り裂いた。
空気が凍りつく。
人垣が、モーゼの海割れのように左右に開いた。
そこ現れたのは、先ほど壇上にいた白金の少女――アデリーナ・フォルジュだった。
「ア、アデリーナ様……!」
令嬢の顔から血の気が引く。
アデリーナは静かに歩み寄ると、私の教科書を拾い上げた。
白く美しい指が、汚れた表紙に触れることを厭わない。
「学園内での私闘は校則違反よ、ベルベット伯爵令嬢」
「で、ですが! この平民が私にぶつかってきて……!」
「見ていたわ。貴女がわざと通路を塞いでいたのを」
アデリーナの紅い瞳が、令嬢を冷たく見下ろす。
その威圧感は、先ほどの私の比ではなかった。
絶対的な強者のオーラ。
「これ以上、フォルジュ家の名の前で醜態を晒すなら、生徒会に報告させていただきますけれど?」
「……っ! 失礼いたしました!」
令嬢は顔を真っ赤にして、逃げるように走り去っていった。取り巻きたちも慌てて後を追う。
廊下に静寂が戻る。
私は呆然とその場に立ち尽くしていた。
なぜ、公爵令嬢が平民を庇ったのか。
アデリーナが私の方を向く。
間近で見る彼女は、遠目で見るよりも遥かに美しく、そして儚げだった。
彼女は私の教科書についた埃を手で払い、差し出してきた。
「……無事?」
「は、はい。ありがとうございます」
私は震える手で教科書を受け取った。
指先が触れ合う。
その瞬間、彼女の瞳が僅かに見開かれた。
「貴女……」
アデリーナが私の顔を覗き込む。
その赤い瞳が、私の奥底を探るように揺れている。
心臓がうるさいほどに鳴る。
バレるはずがない。顔も、声も、身分も違うのだから。
けれど、彼女はまるで迷子を見つけたような、切羽詰まった表情で私に問いかけた。
「貴女、その目……」
「え?」
「誰よりも怯えている目をしているわ。……私と同じ」
予想外の言葉に、私は息を詰めた。
怯えている? 私が?
復讐を誓い、強くなったはずの私が?
「ええ、隠してもわかるわ。貴女は周りの全てを敵だと思っている。……世界中から拒絶されるのが怖くて、先に自分から世界を拒絶している」
彼女の言葉は、鋭い刃のように私の仮面を切り裂いた。
それは、彼女自身の告白のようにも聞こえた。
高慢に見える公爵令嬢の内側にある、血が滲むような孤独。
私は動揺を隠すために、必死で目を逸らした。
「……私は、ただの平民です。そのような高尚な悩みはありません」
「そう。……名前は?」
「リゼ……リゼ・ヴァローナです」
「リゼ」
彼女は私の名前を舌の上で転がすように繰り返した。
そして、ふわりと微かに微笑んだ。
先ほどの氷のような表情が嘘のように、その笑顔はあどけなく、どこか懐かしさを感じさせた。
「私はアデリーナ。……覚えておくわ、リゼ」
彼女はそれだけ言うと、踵を返して去っていった。
白金の髪がふわりと揺れ、甘くない、冷涼な花の香りが残る。
私はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
教科書を持つ手が、微かに震えている。
(私と同じ、か……)
彼女の言葉が、呪いのように耳に残っていた。
公爵令嬢と、元王妃の平民。
立場は正反対なのに、魂の形が似ているとでも言うのだろうか。
遠ざかる彼女の背中を見つめながら、私は予感していた。
この出会いが、私の、そして彼女の運命を大きく狂わせていくことになるのだと。
首元の赤い痣が、ちりちりと熱を持った。
まるで、止まっていた時計の針が、再び動き出したことを告げるように。




