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白薔薇の牢獄〜王妃エレノアは愛したせいで死んだ。そして憎まれたせいで生まれ変わった〜  作者: 九葉


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2/11

第2話

凍えるような寒さと飢えの中で目覚めたあの日から、十六年が過ぎた。


王都の最下層、貧民街スラム

ここは、華やかな王宮の尖塔が見下ろす、この国の汚物溜まりだ。

路地は常に汚水でぬかるみ、昼間から安酒を煽る男たちの怒鳴り声と、病人の呻き声が絶えない。


私が育ったのは、その一角にある古びた娼館「夜啼鳥ナイチンゲール」の屋根裏部屋だった。


「リゼ! 何をぼさっとしてるんだい! シーツの洗濯は終わったのか?」


階下から響く怒声に、私は弾かれたように顔を上げた。

声の主は娼館の女将だ。


「今すぐやります!」


私は短く答え、洗濯かごを抱えて井戸端へと走った。

冷たい風が頬を打ち、荒れた指先がひび割れる。

水桶に手を突っ込むと、氷のような冷たさが骨まで染みた。


(……ああ、手が荒れている)


水面に映る自分を見る。

黒い髪は無造作に後ろで縛られ、肌は栄養不足で青白い。

かつて「白薔薇」と謳われ、最高級の美容液で手入れされていた王妃エレノアの面影は、どこにもない。

今の私は、娼婦の拾い子、リゼ・ヴァローナ。

身分などという言葉すら存在しない、社会の底辺だ。


ゴシゴシと、力任せにシーツを洗う。

そこには、名も知らぬ男たちが落としていった欲望の痕跡がこびりついている。

吐き気がするような安香水の匂い。

かつて絹のシーツで眠っていた私が、今は他人の情事の汚れを洗い流している。その事実に、最初は毎晩のように枕を濡らした。


プライドなんて、何の役にも立たない。

ここでは「高貴さ」など、パン一切れほどの価値もないのだ。


「……ふう」


一通り洗い終え、かじかんだ手に息を吹きかける。

その時、不意に首筋がちりりと痛んだ。

襟元を少しだけ緩め、指先でそこをなぞる。

生まれつきある、赤い線の痣。

まるで首輪のように、あるいは断頭台の刃が通った跡のように、私の首を一周している奇妙な痣だ。


ミラはこれを「気味が悪い」と言って、私に決して他人に見せないよう命じた。

私も同感だ。

これが熱を持つとき、私は決まってあの日の光景を思い出す。

群衆の罵声。石礫の痛み。そして、愛した夫の冷たい瞳。


(……忘れろ。今の私はリゼだ)


頭を振って記憶を追い払う。

洗濯物をロープに干し終えると、裏口から厨房へと向かった。

今日の仕事はまだ終わっていない。次は皿洗いと、ジャガイモの皮むきだ。


厨房に入ると、湯気と油の匂いが充満していた。

その匂いを嗅いだ瞬間、私の胃が小さく収縮する。

腹は減っている。昨日の夜から、固くなった黒パンの欠片しか口にしていない。

それでも、目の前に置かれた大皿の料理を見て、私は思わず口元を押さえた。


「あら、リゼ。また顔色が悪いわよ」


声をかけてきたのは、厨房係の太った女だ。

彼女が指差した先には、客の食べ残しであろう、脂ぎった肉料理が積まれている。

甘ったるいソースの匂い。

それが、前世の最後の晩餐――毒を盛られかけ、激しい嘔吐に苦しんだ記憶――を呼び覚ます。


「……大丈夫です。ちょっと、湯あたりしただけ」


私は息を止めて、残飯を木桶に流し込んだ。

高級食材を見るだけで吐き気を催すなんて、貧民街の住人としては致命的な欠陥だ。

おかげで私は、安っぽい野菜クズのスープや、硬いパンの方が安心して食べられた。皮肉なものだ。舌だけは貧しくなることを望んでいるらしい。


「ほら、さっさと手を動かしな。ミラが探してたよ」


「母さんが?」


ミラの名前を聞き、私は急いで手を拭いた。

育ての親であるミラは、まだ現役の娼婦として働いている。

昼間は気怠げに寝ていることが多い彼女が、私を探すなんて珍しい。


私はエプロンを外し、ミラの部屋へと向かった。


部屋に入ると、ミラは鏡台の前で化粧を落としている最中だった。

三十代後半になった彼女は、厚化粧の下に隠しきれない小皺が増えていたが、それでも瞳の鋭さは変わっていない。


「母さん、呼んだ?」


「……ああ、来たね」


ミラは鏡越しに私を一瞥すると、顎でテーブルの上をしゃくった。

そこには、見慣れない包みが一つ置かれている。


「なんだい、これ」


「開けてみな」


言われるままに包みを開く。

中に入っていたのは、数冊の古びた本だった。

表紙は擦り切れ、ページも黄ばんでいるが、それは間違いなく「教科書」だった。

初等教育用の算術書、歴史書、それに魔術理論の入門書まである。


私は息を飲んだ。

本なんて、このスラムでは宝石よりも貴重だ。

新品なら一冊で一ヶ月分の食費が飛ぶ。古本だって、そう簡単に手に入るものじゃない。


「これ、どうしたの……?」


「客の忘れ物さ。……と言いたいところだけどね」


ミラは煙草に火をつけ、けだるげに煙を吐いた。


「なけなしのヘソクリ叩いて古道具屋から買ってきたんだよ。あんた、暇さえあれば店の帳簿を盗み見たり、地面に木の枝で字の練習をしてただろう? 気持ち悪いくらい熱心にさ」


心臓が跳ねた。

隠していたつもりだった。

前世の記憶がある私は、読み書きも計算もできる。だが、それを隠さなければ「気味の悪い子供」として迫害されると知っていたから、無学なふりを装っていたのだ。

けれど、どうしても知識への渇望は抑えきれず、こっそりと店の売上計算を検算したり、捨てられた新聞を読んだりしていた。


ミラには、全てお見通しだったらしい。


「あんたは娼婦になる器じゃない。……かといって、ただの洗濯係で終わるような顔もしてない」


ミラは椅子を回転させ、私の方を向いた。

その目は真剣だった。


「リゼ。あんた、ここから出て行きな」


「え……?」


「いつまでも私のすねかじって生きていけると思うなよ。それに……」


彼女は言葉を濁し、私の首元にある痣をちらりと見た。


「あんたからは、時々変な『気配』がするんだよ。魔力とも違う、もっと重苦しい何かがね。こんな吹き溜まりにいたら、いつか悪い連中に目をつけられる」


私は唇を噛んだ。

ミラは何も知らないはずだ。私が元王妃だということも、処刑された過去も。

それでも、彼女は私の本質にある「異物感」を敏感に感じ取っていた。

彼女自身、背中に大きな火傷の痕を持っている。過去に何か、王宮に関わる闇に触れたことがあるのかもしれない。けれど、彼女がそれを語ったことは一度もなかった。


「この本で勉強しな。学があれば、まともな商会の事務員くらいにはなれるかもしれない。……男に股を開かなくても生きていける道を、自分で見つけるんだよ」


ぶっきらぼうな言葉。

けれど、そこには不器用な愛情が詰まっていた。

この人は、自分の生活すらままならない中で、私の未来を買ってくれたのだ。


喉の奥が熱くなる。

前世で、私は実の親から愛された記憶がない。

政略結婚の道具として育てられ、王妃としての責務だけを求められた。

こんな、見返りを求めない純粋な愛情を向けられたのは、二度の人生で初めてのことかもしれない。


「……ありがとう、母さん」


私が本を抱きしめて頭を下げると、ミラは「フン」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


「礼を言う暇があったら勉強しな。私がボケた時、楽させてくれないと承知しないからね」


それから一年。

私は貪るように知識を吸収した。

いや、正確には「思い出した」と言うべきだろう。

王妃教育で叩き込まれた高度な知識に比べれば、市井の教科書など遊びのようなものだった。だが、現在の情勢や新しい法律、平民の常識を知るためには不可欠だった。


夜、娼館の喧騒が静まるわずかな時間に、蝋燭の灯りを頼りにページをめくる。

その時間が、私にとって唯一、泥沼から空を見上げるような救いだった。


そして、運命の歯車が回り始めたのは、十七歳になる春のことだ。


その日、店ではちょっとした騒ぎが起きていた。

質の悪い酔っ払いが、新入りの娼婦に暴力を振るい始めたのだ。

客は小金持ちの商人崩れで、護衛らしき男を二人連れている。


「おい、どうしたんだよこの店は! 金を払ってるんだぞ!」


男がグラスを床に叩きつける。

ガラスの破片が飛び散り、若い娼婦が悲鳴を上げてうずくまった。

用心棒の男たちが止めに入ろうとするが、護衛に阻まれて手が出せない。


ミラが割って入る。


「お客様、困ります。うちの娘に傷をつけないでください」


「うるせえババア! 引っ込んでろ!」


男はミラを突き飛ばした。

ドサッ、と鈍い音がして、ミラが床に倒れ込む。

彼女が呻き声を上げ、その腕から血が滲んでいるのが見えた。


――プツン。


私の中で、何かが切れた音がした。


恐怖も、用心深さも、一瞬で消し飛んだ。

気づけば私は、厨房から飛び出し、男たちの前に立っていた。


「……何だ、このガキは」


男が下卑た笑みを浮かべて私を見る。

私は、倒れたミラを背に庇いながら、男をまっすぐに見据えた。

平民の娘が向けるべき視線ではない。

かつて玉座の隣から、不敬な貴族を射抜いていた「氷の瞳」で。


「即刻、立ち去りなさい」


私の口から出たのは、スラムの住人が使う粗野な言葉ではなかった。

低く、凛として、絶対的な命令権を持つ者の響き。


「貴方の行為は、王都治安条例第百三条『店舗内における暴行および器物破損』に抵触します。また、その護衛たちの剣の携帯は、平民の自衛権を超えた違法所持の疑いがある」


一瞬、店内が静まり返った。

男が呆気にとられた顔をする。

娼婦の娘が、法律を、それも完璧な条文を暗唱したことへの驚き。

だが、それ以上に彼を怯ませたのは、私が放つ「威圧感」だった。


「衛兵を呼びますか? それとも、慰謝料を置いて今すぐ消えますか?」


一歩、踏み出す。

たったそれだけの動作なのに、男たちは蛇に睨まれた蛙のように後ずさった。

背筋を伸ばし、顎を少しだけ上げ、冷徹に見下ろす。

ボロボロのワンピースを着ていても、その瞬間、私は間違いなく「エレノア」だった。


「ひ、ひぃ……!」


男は顔を引きつらせ、「くそっ、覚えてろよ!」と捨て台詞を吐いて逃げ出した。

護衛たちも慌てて後を追う。


店内に安堵の空気が流れる中、私はふっと我に返った。


(……やってしまった)


心臓が早鐘を打つ。

目立ちたくない。平穏に生きたい。そう思っていたのに、前世の癖で体が勝手に動いてしまった。

冷や汗が背中を伝う。


振り返ると、ミラが呆然と私を見ていた。

そして、店の隅に座っていた一人の客――地味な灰色のローブを着た初老の男――が、鋭い眼光で私を観察していることに気づいた。


「……君」


男が立ち上がり、近づいてくる。

私は身構えた。王家の密偵か? それとも人買いか?


男は私の前で足を止めると、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


「素晴らしい胆力と、知性だ。……王都治安条例の条文を正確に暗記している平民など、そうはいない」


男は穏やかに微笑んだが、その目は値踏みするようだった。


「私は王都学園の教師をしている。君のような優秀な若者が、こんな場所で埋もれているのは国家の損失だ」


彼は羊皮紙を私に差し出した。

そこに書かれていたのは、『王都学園・高等部 平民科 特別推薦状』の文字。


「特待生としての推薦枠が一つ空いている。……受ける気はないか?」


王都学園。

そこは、この国の未来を担うエリートたちが集う場所。

そして、貴族と平民が明確に区別されながらも共存する、小さな階級社会の縮図。


何より、そこは「王侯貴族」の子供たちが通う場所だ。

私の命を奪った、あの元夫の血縁者や、私を陥れた貴族たちの子供がいるかもしれない場所。


(断るべきだ)


本能が警鐘を鳴らす。

顔を見られれば、誰かが「死んだ王妃」の面影に気づくかもしれない。

魔力の波長を調べられれば、正体が露見するリスクもある。


けれど。


私はミラの腕の怪我を見た。

血に濡れた包帯。

彼女はもう若くない。私がここで皿洗いを続けていても、彼女を楽にさせることはできない。

このスラムから抜け出し、まともな職に就き、彼女を守る力を得るには、これ以上の切符はないのだ。


それに――私の心の奥底で、どす黒い感情が囁いた。


『真実を知りたくないか?』


なぜ、私は殺されたのか。

本当に夫は私を裏切ったのか。

あの処刑の裏で、誰が笑っていたのか。

学園に行けば、貴族たちの噂話や、図書館の記録から、何かが掴めるかもしれない。


私は震える手で、推薦状を受け取った。


「……受けます。その試験」


男は満足そうに頷いた。


「賢明な判断だ。名前は?」


「……リゼ。リゼ・ヴァローナです」


自分の名前を告げた瞬間、首の痣が焼けるように熱くなった気がした。

それは警告か、それとも復讐への狼煙か。


こうして私は、自ら虎の尾を踏む道を選んだ。

かつて私が君臨し、そして追放された「貴族社会」という名の戦場へ、再び足を踏み入れる。


ただの平民として。

けれど、その魂には白薔薇の棘を隠し持って。

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