第10話
王城の地下水路は、腐敗と湿気の匂いで充満していた。
かつて王妃として暮らしていた頃、この城の地下にこれほど広大で、おぞましい迷宮が広がっていることなど想像もしなかった。
足元を汚水が流れ、壁には発光する苔がへばりついている。
カツ、カツ、と響く私たちの足音だけが、静寂を侵していた。
「……おい」
前を歩いていたカイルが、足を止めずに低く声をかけてきた。
彼は松明を持たず、剣に宿した淡い魔法の光を頼りに進んでいる。
「この道で合っているのか? さっきから地図にもない分岐ばかりだぞ」
「合っているわ。……あと五十メートル先、右側の壁に隠し扉があるはずよ」
私は即答した。
迷いなどない。私の脳内には、かつて夫であるフェリクス国王が戯れに語っていた「王家の緊急脱出路」の地図が鮮明に焼き付いているからだ。
『いいかい、エレノア。もし城が敵に包囲されたら、ここを通って逃げるんだ。この道を知っているのは、僕と君、そして宰相だけだ』
あの日、彼は優しくそう教えてくれた。
皮肉なものだ。
私はその道を使うことなく処刑され、今、彼を蝕む敵を倒すために、逆走して侵入しているなんて。
カイルは肩越しに鋭い視線を投げかけてきたが、今は追求してこなかった。
彼もプロだ。緊急事態において、情報源の怪しさよりも情報の正確さを優先している。
「……止まれ」
カイルが右手を挙げ、光を消した。
暗闇が私たちを包み込む。
その中で、微かな話し声と、金属が触れ合う音が聞こえてきた。
「見張りだ」
カイルが耳元で囁く。
「二人……いや、三人か。装備の擦れる音からして、正規の近衛兵じゃない。私兵だ」
フォルジュ公爵家の私兵団。
通称「黒犬」。
公爵が汚れ仕事をさせるために飼っている、精鋭の暗殺部隊だ。
彼らがここにいるということは、この先に間違いなく「本丸」があるということだ。
「どうする? 強行突破するか?」
カイルが剣の柄に手をかける。
私は首を横に振った。
「音を立てれば、中の公爵に気づかれるわ。……私がやる」
「は? 平民のお前に何ができる」
「見ていて」
私は音もなく前に進み出た。
スラムで培った足運びだ。貴族の優雅な歩き方とは違う、泥棒猫のような気配の消し方。
通路の角からそっと覗き込むと、黒い鎧を着た男たちが、鉄格子の前で退屈そうに会話していた。
私は深呼吸をし、意識を集中させた。
魔力を練り上げる。
使うのは、攻撃魔法ではない。もっと地味で、陰湿な魔法だ。
(空気中の水分を集めて……音を遮断する膜を作る)
『静寂の結界』。
高度な魔力制御が必要な技だが、元王妃の知識と、今の私の器用さがあれば可能だ。
私は指先で見張りの周囲の空間を切り取るように動かした。
フワッ。
空間が歪み、見張りたちの声が、ふっと消えた。
彼らが口を動かしているのに、音が外に漏れてこない。
逆も然りだ。こちらの音が彼らに届くこともない。
「……なっ」
背後でカイルが息を飲む気配がした。
私は振り返り、手招きをした。
「今よ。音は遮断したわ。背後から一撃で沈めて」
カイルは信じられないものを見る目で私を見たが、すぐに騎士の顔に戻った。
彼は風のように駆け出し、無音の世界の中で、三人の見張りを瞬く間に気絶させた。
剣の峰で首筋を強打する、鮮やかな手際だった。
見張りが崩れ落ちるのを確認し、私は結界を解いた。
「……説明してもらおうか、リゼ」
カイルが倒れた見張りを見下ろしながら、私を睨みつけた。
「無詠唱での結界展開。しかも、空間遮断だと? 宮廷魔術師団長クラスの高等技術だぞ。……お前、本当にただの平民か?」
彼の剣先が、わずかに私の方へ向いている。
ここが正念場だ。
私は逃げなかった。彼の目を真っ直ぐに見返した。
「カイル卿。今はそんなことを議論している時間はありません」
「はぐらかすな! お前の正体はなんだ! なぜ王家の隠し通路を知っている! なぜ失われたはずの王家流の魔術を使える!」
彼は声を荒らげた。
その声には、怒りよりも焦燥感が滲んでいた。
彼はきっと、薄々気づいているのだ。
私の正体に。そして、自分が今まで信じてきた「正義」が揺らいでいることに。
「……今は、リゼと呼んでください」
私は静かに答えた。
「すべてが終わったら、貴方の剣で私を裁けばいい。でも今は……アデリーナを助けるために、その剣を貸してほしいのです」
それは懇願ではなく、命令に近い響きを持っていた。
カイルは唇を噛み締め、剣を鞘に納めた。
「……チッ。覚えておけ。この借りは高くつくぞ」
「ええ、覚悟しています」
私たちは再び歩き出した。
鉄格子の鍵を、見張りから奪った鍵束で開ける。
錆びついた蝶番が悲鳴を上げたが、私たちは構わず中へと踏み入った。
そこは、かつて罪人を拷問するために使われていた「嘆きの間」へと続く階段だった。
下から、生暖かい風と共に、濃密な魔力の波動が吹き上げてくる。
そして、鼻をつく甘い香り。
白薔薇の香りだ。
「……急ぎましょう」
私は階段を駆け下りた。
アデリーナ、どうか無事でいて。
***
最下層の扉を開けた瞬間、視界が白に染まった。
そこは円形の広間だった。
石造りの床一面に、白い薔薇が敷き詰められている。
まるで雪原のようだ。だが、その白さは清浄なものではない。
花弁の一枚一枚が、血管のように脈打ち、魔力を吸い上げている。
そして、部屋の中央。
巨大な魔法陣の上に、一人の少女が横たわっていた。
「アデリーナ!」
彼女は白いドレスを着せられ、祭壇のような台座に縛り付けられていた。
目は虚ろに開かれ、その紅い瞳が、ぼんやりと天井を見つめている。
彼女の周囲には、太い管のような魔力ラインが繋がれ、彼女の身体から何かを吸い出し、そして何かを注入しているようだった。
「……素晴らしい」
部屋の奥から、陶酔した声が響いた。
白薔薇の海を割って、一人の男が現れた。
豪奢なマントを羽織り、手には杖を持った初老の男。
ガラルド・フォルジュ公爵。
私の夢に出てきた、あの優しげな仮面を被った悪魔だ。
「よく来てくれたね、リゼ君。……いや、我が娘の友人よ」
公爵は私を見ても驚かなかった。
まるで、私がここに来ることを予期していたかのように、口角を吊り上げて笑った。
「貴様……! アデリーナ様に何をしている!」
カイルが剣を抜き、公爵に切っ先を向ける。
「国家反逆罪および、禁忌魔術使用の現行犯だ! 騎士団の名において拘束する!」
「カイル君か。ノルトランドの若造が、随分と威勢がいいな」
公爵は杖を軽く振った。
それだけで、カイルの足元の床から巨大な植物の蔦が飛び出し、彼を襲った。
「くっ!」
カイルは反応良く蔦を切り裂くが、次から次へと再生する蔦に阻まれ、公爵に近づけない。
「雑魚の相手は後だ。……私は今、感動しているのだよ」
公爵の視線が、私に固定された。
その目は、アデリーナを見る目とも、カイルを見る目とも違う。
骨の髄まで舐め回すような、粘着質な執着。
「やはり、生きていたか」
彼は恍惚と呟いた。
「十六年前。処刑場で飛び散ったエレノアの魂。……大半は回収できたが、中核となる『自我』だけが逃げてしまった。どこへ行ったかと探していたが、まさかスラムの泥の中に隠れていたとはね」
「……全部、知っていたのね」
私は震える声で問うた。
「ええ、もちろんですとも」
公爵は一歩、私に近づいた。
「アデリーナが最近、妙に生き生きとしていると思ったら、君と出会っていたからだ。……『器』と『中身』は引かれ合う。磁石のようにな」
彼は祭壇の上のアデリーナを指差した。
「見なさい、あの子を。……あの子は空っぽだ。魔力容量だけを極限まで高め、自我を希薄にするように教育してきた。すべては、偉大なる『白薔薇の王妃』、君を受け入れるためだ」
「ふざけるな!」
私は叫んだ。
「アデリーナは道具じゃない! 彼女には心がある! 貴方が踏みにじり続けた、優しい心が!」
「心? そんなものは邪魔なだけだ。……国を統べる強大な魔力には、強靭な精神が必要だ。あのような脆い小娘の精神では、すぐに崩壊する」
公爵は杖を高く掲げた。
魔法陣が輝きを増す。
アデリーナの身体がビクリと跳ね、彼女の口から苦悶の声が漏れた。
「あ、あぁ……熱い……痛い……」
「やめて!」
私は駆け出そうとしたが、見えない壁に阻まれた。
結界だ。祭壇の周りに強力な防壁が張られている。
「さあ、帰っておいで、エレノア。……この娘の体に入れば、君は再び王妃として君臨できる。老いもせず、死にもしない、永遠の支配者として!」
公爵の狂気じみた演説。
彼は本気で、私を「国を動かすための永久機関」にしようとしているのだ。
「誰が……そんなものに!」
私は自分の首の痣に手を当てた。
熱い。
公爵の魔力に呼応して、私の魂がアデリーナの体に吸い寄せられそうになる。
意識が引っ張られる。
目の前のアデリーナの体が、まるで「自分の家」のように魅力的に見えてくる。
(ダメだ……飲まれるな!)
私は唇を噛み切り、血の味で正気を保った。
そして、カイルに向かって叫んだ。
「カイル! 魔力供給源を断って! あの白薔薇よ! 花が魔力を吸い上げているの!」
カイルは蔦と戦いながら、私の声に反応した。
「チッ、注文が多い女だ!」
彼は身を翻し、蔦の攻撃を紙一重でかわすと、床に咲き乱れる白薔薇の群生に向かって剣を振るった。
「聖剣技・閃光!」
青白い斬撃が走り、無数の白薔薇が切り飛ばされた。
茎から赤い液体が噴き出し、悲鳴のような音が響く。
「なっ……!?」
公爵が顔色を変えた。
供給されていた魔力が途絶え、結界が一瞬揺らぐ。
「今だ!」
私は全魔力を右手に集中させた。
ボロ杖などもういらない。私の体そのものが、魔力の塊だ。
「穿て!」
圧縮した魔力の弾丸を、結界のほころびに叩き込む。
ガラスが割れるような甲高い音がして、結界が砕け散った。
私は祭壇へと駆け上がった。
「おのれ、小娘がぁ!」
公爵が杖から黒い雷を放つ。
だが、遅い。
私はアデリーナの元へ滑り込み、彼女を抱きしめた。
「アデリーナ! 起きて!」
彼女の体は火のように熱かった。
紅い瞳が、焦点の合わないまま私を見る。
「……リ、ゼ……?」
「そうよ、私よ! しっかりして!」
「逃げ……て……。父様が……貴女を……」
「置いていくわけないでしょう! 一緒に帰るのよ!」
私は彼女の手足の拘束具を引きちぎろうとした。
魔法で強化された鎖だ。素手ではびくともしない。
「無駄だ」
背後から、氷のような声。
公爵が立っていた。
その顔からは、先ほどの余裕は消え、鬼のような形相になっていた。
「せっかくの最高傑作を……よくも傷をつけてくれたな」
彼が杖を振り下ろす。
至近距離からの魔力波。
避けられない。
私はとっさにアデリーナを庇い、背中を向けた。
衝撃。
背骨が軋むほどの痛みが走り、私たちは祭壇から吹き飛ばされた。
「がはっ……!」
床に叩きつけられ、肺の空気が押し出される。
アデリーナも私の腕の中でぐったりとしている。
「リゼ!」
カイルが駆け寄ろうとするが、再び公爵の魔法が彼を阻む。
壁が隆起し、カイルを部屋の隅に閉じ込めた。
「邪魔者は消えた」
公爵はゆっくりと私に歩み寄ってきた。
私は痛む体を引きずり、アデリーナを背にして立ちふさがった。
「……まだだ」
私は睨みつけた。
「まだ、終わらせない」
「しぶといね。……だが、それもここまでだ」
公爵は私の喉元に杖を突きつけた。
「肉体が邪魔なら、ここで殺して魂だけ回収するまでだ。……少し手間だが、仕方ない」
杖の先に、死の光が収束していく。
ああ、またこれだ。
十六年前と同じ。
圧倒的な暴力と理不尽の前に、私は無力に散るのか。
(……いいえ)
私の脳裏に、ミラの顔が浮かんだ。
カイルの必死な剣戟が浮かんだ。
そして、背中で震えているアデリーナの温もりが。
私は一人じゃない。
前世とは違う。
今の私には、守るべきものと、共に戦う仲間がいる。
「……公爵。貴方は一つ、大きな勘違いをしているわ」
私は口元に溜まった血を拭い、ニヤリと笑ってみせた。
スラムで覚えた、相手を挑発する時の笑みだ。
「なんだと?」
「貴方は私のことを『高潔な王妃』だと思っているでしょう? だから、真っ向から魔法で戦おうとしている」
私は右手を背中に回し、隠し持っていた「あるもの」を握りしめた。
ミラの店から出る時、こっそりポケットに入れておいたものだ。
「でもね。今の私は、スラム育ちの野良猫なのよ!」
私は叫ぶと同時に、握りしめていた「灰」を公爵の顔面に投げつけた。
ただの灰ではない。
唐辛子の粉末と、麻痺毒を持つ植物の乾燥粉末を混ぜた、ミラ特製の目潰しだ。
「ぐあぁぁぁっ!?」
公爵が杖を取り落とし、目を押さえてのたうち回る。
高貴な魔術師であればあるほど、こうした物理的な不意打ちには弱い。魔力防御は完璧でも、ただの粉末への警戒などしていないからだ。
「今よ、カイル!」
私は叫んだ。
「壁をぶち破れ!」
「言われなくても!!」
ドォォォン!
部屋の隅で爆発音がした。
カイルが全力の魔力を込めた一撃で、岩壁を粉砕して飛び出してきた。
彼は疾風の如く公爵に肉薄し、その剣を閃かせた。
「はあぁぁぁっ!」
一閃。
公爵の杖を持った右腕が、宙を舞った。
「ぎゃあぁぁぁぁっ!!」
絶叫が地下空間に響き渡る。
公爵が血を噴き出して倒れ込む。
カイルは追撃の手を緩めず、公爵の喉元に剣を突きつけた。
「動くな! 首を落とされたくなければな!」
勝負あり。
圧倒的な魔力の差を、泥臭い奇策と連携で覆した瞬間だった。
私はへなへなと座り込み、背後のアデリーナを振り返った。
「アデリーナ、終わったわよ……」
だが、彼女の様子がおかしい。
拘束は解けたはずなのに、彼女は起き上がらない。
それどころか、彼女の体が赤く発光し始めている。
「……う、あぁぁ……」
彼女が頭を抱えて悲鳴を上げる。
「入ってくる……! 誰か、入ってくる……!」
「アデリーナ!?」
「逃げて、リゼ……! 私の中の『檻』が……貴女を食べようとしてる……!」
公爵の魔力制御が途切れたことで、暴走が始まったのだ。
「白薔薇の牢獄」システムが、近くにいる適合者――つまり私を、無理やり取り込もうとしている。
私の首の痣が、焼き切れるほど熱くなる。
体がアデリーナの方へ引っ張られる。
まるでブラックホールに吸い込まれるような引力。
「くっ……!」
私は必死に床に爪を立てた。
このままでは、二人とも融合して化け物になってしまう。
その時、地下通路の奥から、複数の足音が響いてきた。
「こちらだ! 魔力反応はこの奥だ!」
「陛下をお守りしろ!」
近衛兵だ。
公爵の私兵ではない、正規の王国の騎士たち。
そして、その中心にいる人物を見て、私は息を止めた。
やつれた顔。白髪混じりの頭。
けれど、その瞳だけは確かに見覚えのある――。
フェリクス国王。
私の元夫。
彼が、兵士たちに守られながら、この場に踏み込んできたのだ。
「……エレノア?」
フェリクスが、私を見て立ち尽くした。
今の私は黒髪のリゼだ。顔も違う。
だのに、彼は亡霊を見るような目で、私の名前を呼んだ。
「……まさか、本当に……」
場が混沌とする。
倒れた公爵、暴走するアデリーナ、剣を構えるカイル、そして現れた国王。
事態は解決するどころか、さらに複雑な局面へと突入しようとしていた。
私は暴走するアデリーナを抱きしめながら、国王を睨みつけた。
これが、十六年ぶりの再会。
愛と憎しみが入り混じった、運命の対峙だった。




