第1話
いつもと違う雰囲気の作品を書いてみたした!
その日は、雪が降っていた。
空から落ちてくるのは、美しい純白の結晶なんかじゃない。
鉛色の雲が吐き出した、氷の粒だ。
それが頬に当たるたび、針で刺されたような痛みが走る。
けれど、私の心は不思議と凪いでいた。
痛みも、寒さも、遠い出来事のように感じる。
(ああ、なんて酷い音だろう)
広場を埋め尽くす民衆の怒号。
「殺せ」「魔女め」「売国奴」
投げつけられた石礫が、額を割る。ぬるりとした血が視界を塞いでも、私は拭おうとしなかった。両手を後ろ手に縛られ、騎士たちに引きずられていたからだ。
かつてこの国の民は、私を「白薔薇の王妃」と呼んで讃えた。
笑顔を振りまけば歓声が上がり、手を振れば花が舞った。
けれど今はどうだ。
彼らの瞳にあるのは、剥き出しの憎悪と、他人の不幸を貪ろうとする醜い好奇心だけ。
石畳に膝をつかされる。
目の前には、見上げるような断頭台。
その頂点には、鈍く光る刃が吊るされている。あれが落ちてくれば、私の首など枝のように簡単に折れてしまうだろう。
「罪人、エレノア・ヴァレンティア」
断罪の言葉を告げたのは、バルコニーに立つ男だった。
国王、フェリクス。
かつて私が愛し、信じ、そして私を裏切った夫。
彼は豪華な毛皮のマントを羽織り、私のことを見ようともしない。その隣には、派手なドレスを纏った愛妾が、勝ち誇った顔で私を見下ろしている。
国家機密の漏洩。
隣国との内通。
さらには国王暗殺の未遂。
どれも身に覚えのない罪ばかりだ。
けれど、私がどれだけ叫んでも、証拠を提示しても、誰も耳を貸さなかった。
初めから決まっていたのだ。邪魔になった私を排除し、新しい王妃を迎えるという筋書きが。
「最後に言い残すことはあるか」
形式的な問いかけに、私はゆっくりと顔を上げた。
喉が渇いて張り付き、声が出るかわからない。それでも、私は王をまっすぐに見据えた。
愛していた。
十代で嫁いでからこの五年間、王家のために全てを捧げてきた。
冷え切った寝室で孤独に耐え、派閥争いに神経をすり減らし、それでも彼が笑ってくれるならと、完璧な王妃を演じ続けてきた。
その対価が、これだ。
「……いいえ、陛下」
かさついた唇から漏れたのは、謝罪でも、命乞いでもなかった。
「何も、ありません」
愛したことへの後悔も、裏切られた恨みも、言葉にする価値すらない。
今の私にあるのは、どうしようもない「諦め」だけだった。
王が一瞬だけ、眉をひそめたように見えた。
私があの愛妾を罵り、泣き叫ぶとでも思っていたのだろうか。
期待通りになんて、してやらない。
私は最後まで、誇り高い「白薔薇の王妃」として死ぬのだ。
処刑人が合図を待つ。
私は静かに目を伏せた。
その時だ。
ふと、広場の片隅から、強烈な視線を感じた。
罵声と殺意に満ちた群衆の中で、そこだけ、空気が止まっているような静けさ。
視線を向けると、フードを深く被った人影があった。
顔は見えない。
けれど、その人物だけは、石を投げることも、野次を飛ばすこともしない。
ただじっと、まるで祈るように、あるいは見守るように、私を見つめていた。
その手元に、季節外れの白い花が見えた気がした。
(誰……?)
答えが出る前に、ドラムの音が止んだ。
ガタン、と重い音が鳴る。
頭上から迫る風圧。
首筋に触れた冷たい金属の感触。
ああ、これでやっと終われる。
痛みも、苦しみも、愛への渇望も。
すべてが、闇に溶けていく――。
***
寒い。
骨の髄まで凍りつくような寒さだ。
私は死んだはずだ。
首を落とされ、あの広場で生涯を閉じたはずだ。
なのに、なぜまだ寒さを感じる?
死後の世界とは、これほどまでに過酷な場所なのか。
それに、体が重い。
いや、重いのではない。動かないのだ。
手足を動かそうとしても、びくりと痙攣するだけで力が入らない。喉が焼けるように熱い。声を出そうとすると、自分のものではない、甲高い音が響いた。
「おぎゃあ、おぎゃあ!」
……なんだ、これは。
私の声?
いや、これは赤ん坊の泣き声だ。
必死に目を開ける。
視界がぼやけて、世界が歪んで見える。
色のない灰色の空。腐ったような臭い。
頬に当たるのは、硬くて冷たい石畳ではなく、湿った布切れの山だ。
(ここは……どこ?)
焦点を合わせようと目を凝らす。
断頭台でも、王宮でもない。
狭くて薄暗い路地裏だ。近くに生ゴミが積まれているのがわかる。
私は、布にくるまれて捨てられているのか?
混乱する頭で状況を整理しようとするが、思考がうまくまとまらない。
ただ、強烈な空腹と、皮膚を刺す寒さが、本能的な恐怖を呼び起こす。
「う、あ……うぅ……」
助けて。
誰か、助けて。
心の中で叫んでも、口から出るのは意味のない鳴き声だけ。
通り過ぎる足音がいくつかあった。
けれど、誰も立ち止まらない。
貧民街らしきこの場所で、捨て子の泣き声など日常茶飯事なのだろうか。
(嫌だ……死にたくない……!)
処刑された時は、あんなにも死を受け入れていたのに。
無防備な赤ん坊の体になった途端、理屈ではない生存本能が暴れ出す。
けれど、体温は容赦なく奪われていく。
指先の感覚がなくなり、意識が遠のきかけた時。
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音が近づいてきた。
気怠げで、不規則なリズム。
音は私のすぐそばで止まった。
「……チッ。なんだい、猫かと思ったら」
低い、しゃがれた女の声。
タバコの煙の匂いが漂ってくる。
見上げると、派手な化粧をした女が私を見下ろしていた。
安っぽい香水の匂いと、生活の疲れが染みついた顔。
胸元が大きく開いたドレスはあちこち解れていて、彼女がどのような仕事をしているのかを雄弁に物語っていた。
女――ミラは、忌々しそうに眉を寄せる。
「また捨て子かい。どこの馬鹿がやったんだか」
彼女は私を助ける様子もなく、そのまま通り過ぎようとした。
当然だ。
ここはスラム。自分一人が生きていくので精一杯の人間たちが、他人の子供を育てる余裕なんてあるはずがない。
(待って……行かないで……!)
私は必死に手を伸ばした。
小さくて赤い、皺だらけの手。
それがミラのドレスの裾を、ほんの僅かに掠めた。
ミラが足を止める。
「……あ?」
彼女は振り返り、面倒そうに舌打ちをした。
それでも、私の顔をじっと覗き込んでくる。
その瞳は濁っていて、光がない。けれど、私の目と合った瞬間、彼女の表情が微かに強張った。
「なんだ、その目は」
ミラが呟く。
「赤ん坊のくせに、ずいぶんと……偉そうな目をしてるじゃないか」
彼女はため息をつくと、乱暴な手つきで私を抱き上げた。
布越しでもわかる、彼女の体温。
そして、かすかに漂う古い鉄の匂い。
彼女の二の腕には、ドレスで隠しきれない古傷のような火傷の痕が見えた。
「運がいいね、あんた。今日は客が少なくて機嫌が悪かったんだ。……死体処理の手間が省けると思って感謝しな」
乱暴な言葉とは裏腹に、私を抱く腕は、落ちないようにしっかりと固定されていた。
連れて行かれたのは、路地裏にある古びた建物だった。
「娼館」――そう呼ばれる場所。
安酒と欲望の匂いが染み付いた廊下を抜け、一番奥にある狭い部屋へ。
そこが、彼女の住処らしい。
ミラは私をベッドの端に放り出すと、水で薄めたミルクのようなものをスプーンで流し込んできた。
味なんてわからない。ただ、温かいものが胃に落ちる感覚に、涙が出そうになった。
「はあ……どうすんだい、これ」
ミラは椅子にドカッと座り込み、タバコに火をつけた。
紫煙を吐き出しながら、私を値踏みするように見つめる。
「金もない。育てる義理もない。……保健所に突き出すか?」
彼女の独り言に、私は身を縮める。
王都の保健所とは名ばかりで、実際は人買いへの卸し場になっていると聞いたことがある。王妃だった頃、改革しようとして貴族院に握りつぶされた案件だ。
行きたくない。
あんな場所に行ったら、今度こそ終わりだ。
私はじっとミラを見つめ返した。
言葉は話せない。けれど、私の持てる限りの意志を込めて。
前世で、断頭台の上でさえ涙を見せなかった、あのプライドを懸けて。
ミラはしばらく私と睨み合っていたが、やがて根負けしたように頭をかいた。
「……ちっ。わかったよ、そんな目で見んな」
彼女はタバコの火を揉み消すと、私の頬を指先でつついた。
荒れた指先が痛い。でも、それは確かな「生」の感触だった。
「名前がないと不便だね。……おい、あんた」
ミラは天井を見上げ、少し考え込むように目を細めた。
窓の外には、先ほどまで私がいた雪空が見える。
「……『リゼ』だ」
リゼ。
短くて、飾り気のない響き。
かつての「エレノア」という優雅な名前に比べれば、なんと粗末な響きだろう。
「昔、知ってた女の名前から取ったわけじゃない。……ただの思いつきさ。死んでやり直すって意味に、似てなくもないだろう?」
意味がわからない。
けれど、彼女の声には、どこか祈るような響きが含まれていた気がした。
私は、リゼになった。
白薔薇の王妃エレノアは死に、この泥沼のような場所で、名もなき娼婦の娘として生まれ変わったのだ。
ミルクを飲み干し、少しだけ落ち着いた頭で考える。
なぜ、私は記憶を持ったまま生きているのか。
あの処刑の瞬間に見た、白い花を持った人影は誰だったのか。
そして、私を罠に嵌めたのは誰なのか。
(……今は、どうでもいい)
重くなる瞼に逆らわず、私はミラの体温を感じながら目を閉じた。
愛なんていらない。
高潔な精神も、国を憂う心も、もう二度と持たない。
それらが私を殺したのだから。
今度こそ、私は私のために生きる。
誰にも利用されず、誰にも期待せず。
ただこの命を守り抜いてみせる。
薄汚れた天井のシミを見つめながら、元王妃の魂を持つ赤ん坊は、静かに、けれど強く誓った。
その瞳の奥に、かつて王都を焼き尽くさんばかりに咲き誇った、復讐の残り火を宿して。




