承認欲求の重力
エヌさんからのメールが来ると、チームの空気が沈む。まるで見えない重力に引っ張られるように。
「来たよ、エヌさんからの問い合わせ」
その一言で、優秀なエンジニアたちの顔が曇り、新人は「私じゃありませんように」と祈るような目をする。私はマネージャーとして、できるだけ平静を装いながら言う。
「じゃあ、今回は田中さん……お願いできる?」
***
私が数年間マネージャーを務めていたカスタマーサポートチーム。扱っていたのは海外製の特殊なソフトウェアで、YouTubeに解説動画もなければ、書店に参考書もない。マニュアルは英語のみ。だからこそ、日本のお客様のために我々のような窓口が必要だった。
お客様は企業の技術者ばかり。理屈っぽい人も多い。でも、ちゃんと筋道を立てて説明すれば、多少の行き違いがあっても和解できる。そう、話せば分かるのだ。だけどエヌさんは、そうではなかった。
最初からこうだったわけではない。エヌさんからの最初の問い合わせには、特に変わったところはなかった。操作方法についての質問。丁寧に回答した。感謝の言葉もあった。
しかし、徐々に様子が変わってきた。
「この論文に載っている事例を再現したい。ステップバイステップで指導してくれ」
「海外の事例でこういうものがあるが、御社のソフトではどうやって実現すればいいか」
そんな要求が日常的に飛んでくる。それは、料理本を売る書店員に「このミシュラン三つ星の料理の再現方法を教えろ」と要求するようなものだった。
我々はソフトウェアのプロであって、お客様の業務のプロではない。それでも最初のうちは、なんとか応えようとした。R&D部門に問い合わせ、検証し、可能な限りの提案をした。普通のお客様なら、こうした踏み込んだ対応が追加購入につながることも多い。だが、エヌさんは違った。どれだけ対応しても、要求はエスカレートするばかりだった。
あるとき、若い女性エンジニアが「本日中の回答は難しいです」と伝えた。するとエヌさんから返ってきたのは「何か予定でもあるのか?社会人として失格だ」という叱責だった。彼女は子育てをしながら働く優秀な技術者だった。
「担当を男性に変えていただきたい」
こんな要求は突っぱねるべきだ。それに当日中の回答などする必要はない。けれど、彼女の負担を考え、あくまで我々側の業務都合だと理由をつけて、他の担当者が引き継ぐことにした。
特徴的だったのは、エヌさんは決して電話では問い合わせてこないことだった。すべてメール。文面だけのやりとり。感情の起伏が激しく、勝手に怒っては捨て台詞を残す。そして、翌日にはまた質問を送ってくる。
質問ごとにお客様にはアンケートフォームが送られる仕組みになっている。我々の提案で問題が解決したときには、高い点数に感謝のコメントをいただくこともある。しかし、多くのお客様は回答しない。
しかし、エヌさんは欠かさずアンケートに回答する。質問数ダントツ一位の彼がすべてに回答した結果、年間回答数の3割がエヌさんによるものになった。しかも評価は5段階で1か2しかつけない。日本のカスタマーサポート部門の評価は、彼一人によって低いものとなった。
状況を改善するため、営業担当者にエヌさんの会社の事情を聞いてもらうことにした。直接のやり取りは角が立つので、様々な部門との商談の際に状況を探ってもらった。そこで分かったことがある。エヌさんは社内で孤立していること。上司も自分より年上の部下には強く出られず持て余しているようだ、と。
私は責任者として直接エヌさんと電話で話すことにした。これまでのやり取りを、丸二日かけて読み込む。100通以上。期待や要望、実際の対応、そしてその反応まで。相手の心理を読み違えて、かえって事態を悪化させることだけは避けたかった。
***
会議室を予約し、チームメンバーに会話を聞かれないようにする。
「はい、エヌです」
電話の向こうのエヌさんは、メールの印象とは違っていた。攻撃的ではなく、むしろ普通の人に聞こえた。
アンケートの集計をしておりますと、具体的なやり取りのことは知らないふりをする。
今後のお客様対応改善の参考のため、そう言ってヒアリングに持ち込む。
一般的な使用状況などを一通り聞く。もちろん、これまでのやり取りから大体わかっているが、本人が自分の業務をどう認識しているかが重要だからだ。
そして、肝心のアンケートについて尋ねる。ずいぶんと手厳しい評価をいただいているようですね・・・と軽い笑い声を作ってみせる。
「サポートに十分に対応してもらえていない気がします」
「結果的に自分のやりたいことができないときには、役立たなかったということで点数は1にしています」
彼はそう話した。少なくとも、悪意を持って嫌がらせをしているわけではなさそうだった。
そして、学会などで発表される先進事例を、自分もやってみたいと話す。でも、そういった事例と同じソフトを使っているからといって、同じことができるというものではない。データやノウハウが必要。それらは費用と時間をかけて自分で用意するしかない。サポートに聞いて手に入るようなものではない。ミシュラン三つ星の料理はそう簡単に作れないのだ。
エヌさんと話すうちに、だんだんと分かってきた。この人は、周囲からのポジティブな反応が欲しいのだ。でも社内でも孤立気味で、それが得られない。だからサポート窓口に執着するのではないか。そして、なにかあっと驚く結果を出して社内でも注目されたいのだろう。
しかし、理解することと、受け入れることは違う。
期待値のコントロールをする。
ソフトのことであれば回答できることもあるが、エヌさんのような高い知識や業務経験は我々にはないので、ご期待に添えないこともあるかと思います――と。
「そのとおりですね」
短い沈黙があった。その数秒が、とても長く感じられた。
「わかりました」
彼はそう言った。
一応の理解は得られたとみて、丁寧にお礼を言い、その日の電話は終わった。気がつけば、一時間半も話していた。背中が汗で濡れていた。
***
エヌさんはおとなしくなった。平和の日々が訪れた。
そう思っていたのだが、しばらくすると、また質問が再開された。微妙に言い回しが変わっている。これは業務の話ではなく、ソフトウエアの活用方法の質問なんだ、と主張するものに。
エヌさんへの対応後、メンバーたちは疲弊した表情を見せる。
「また意味不明なことを言ってます」
「昨日からエヌさんの対応で他のお客様に手が回りません」
「正直、もう対応したくないです」
優秀なエンジニアたちが、一人の顧客のために消耗していく。「エヌさん」と聞いただけで、皆が嫌な気持ちになる。真面目な子は担当した日は夢にまで見たと言う。
一人で抱え込むのはよくない。押しつぶされてしまう。業務上の問題として対応することにした。まず、エヌさんからの問い合わせは必ずチーム内で共有することにした。チーム内のグループメッセージで、みんなで内容を確認し、対応方針を決める。そこでは「今日のは特にひどい」「これは理不尽すぎる」といった本音が飛び交うようになった。週次のミーティングでは不満を吐き出す時間も作った。お客様の悪口を言う場だと取られるかもしれない。だけど、安全弁は必要だった。
そして、彼への実対応は最低限でいいと決める。礼儀正しく、でも時間はできるだけかけない。形式上、契約違反にならないようにさえすればいい。幸いウチは外資だ。契約書は責任範囲がきっちりと書かれている。その範囲の最低限の回答だけすれば、契約上何の問題もない。いわゆる「塩対応」だ。
そうして、チームの心理的、実務的な負担を減らし、しばらく経った頃。
あるとき、一人のエンジニアが苦笑いしながら言った。
「これ、見てもらえます?」
エヌさんからの長文メールだった。だが、要点はこの1行。
――このような対応しかできないのであれば、来年度の御社との契約更新は考えざるを得ません。
エンジニアと目が合った。彼の目は「もういいですよね?」と言っていた。
私も、そう思った。
「対応しておくから、こっちに回して」
返信を打つ手は、迷わなかった。エヌさんに、はっきりと伝えた。証拠が残るよう文章で。
「ご不満があるなら、他社のソフトウェアをお使いください。サポート対応への不満を解約理由にしていただいて構いません」
これは虚勢ではなかった。エヌさん一人のために使われるリソースを、他のお客様に振り向ければ、きっと契約は増える。ビジネスとしての判断だった。
***
でも、現実はそううまくいかなかった。「ざまぁ」的な結末にはならなかった。
エヌさんに決裁権はなく、結局その会社は契約を続けた。
――エヌさん一人のために使われるリソースを、他のお客様に振り向ければ、きっと契約は増える――。この営業部門向け、本社向けに用意した言い訳も、出番はなかった。
エヌさんからの問い合わせ頻度は減った。でも、完全になくなることはなかった。
心理学には「負の強化」というものがあるそうだ。ネガティブな反応でも、無視されるよりはマシ。だから嫌がられているとわかっていても、やめられない。さみしい人、存在を認めてもらいたい人には、そういう心理があるという。要するに『かまってちゃん』なのだ。
承認欲求の重力はとても強い。
誰も認めてくれない職場、スキルはあるのに居場所がない環境、そして年齢を重ねることで失われていく存在価値への不安。孤独な人は、簡単に引っ張られてしまう。そこに落ち込んでしまった人の承認欲求は、ブラックホールのように周囲のエネルギーを吸い込んでいく。
このようなケースでは、巻き込まれないように適切な距離を取ることを学んだ。チームメンバーの結束が深まるという副産物もあった。
カスタマーサポートの仕事を離れた今も、エヌさんのことを時々思い出す。先日、彼が定年を迎えたと、元チームメンバーから聞いた。
あの承認欲求の重力から、彼は解放されただろうか。それとも、また別の「窓口」にメールを送り続けているのだろうか。