第八話 やさしさの中
馬車に戻ると、胸の奥の鼓動がまだ落ち着かなかった。
いてもたってもいられず、私はすぐに頭を下げた。
「先ほどは出過ぎた真似をして……本当に申し訳ございません」
少しの沈黙のあと、アラン殿下は私をまっすぐに見た。
「あなたは――これまで、どのような生活をしてこられたのですか」
「え……?」
意味は理解していた。けれど、すぐには言葉が出てこなかった。
本来の侯爵令嬢であれば、馬車から降りることなどあり得ない。ましてや平民に声をかけるなど、あってはならないこと。
それをした私に、殿下は“どんな人生を送ってきたのか”を問うているのだ。
母が亡くなってから、義母や妹に虐げられ、使用人同然に扱われてきた日々。
そんな現実を、この人に打ち明けることなどできるはずもない。
どう答えればいいのか分からずにいると、殿下は小さく息を吐いた。
「悪い意味ではありません。ただ……普通の令嬢とは、少し違うと感じたので」
その声音には、嘲りも侮りもない。むしろ、静かな興味がにじんでいた。
私は一拍置いて、静かに口を開いた。
「亡くなった母の教えだったのです。令嬢らしくはないことは、重々承知しております。けれど……母はいつもこう申しておりました。“弱き者に寄り添いなさい。どんな時でも、誇りと優しさを忘れてはなりません”と」
言葉にするたび、亡き母の面影が胸の奥に浮かぶ。
その横顔を見つめていた殿下が、ふと目を伏せて呟いた。
「――今のヴァルグレア侯爵夫人は、二人目だったな」
低く落とされたその言葉に、胸の奥がかすかに疼いた。
当たり前だが、筆頭侯爵家でもあるヴァルグレア家の事情を、彼が知らぬはずもない。
私は何も答えず、ただ小さく微笑んだ。
殿下はそれ以上は何も言わず、視線を窓の外に戻した。
外では、王都の夕陽がゆっくりと沈みはじめていた。
***
馬車の揺れが徐々に静まり、やがてゆっくりと止まった。
窓の外に見えるのは、ヴァルグレア侯爵家の正門――。
けれど、そこには誰ひとり出迎える姿がなかった。
王家の紋章を掲げた馬車が止まった瞬間、門番が慌てたように中へ駆けていくのが見えた。
アラン殿下は一瞬、眉をひそめた。
「……迎えがないのですね」
静かな声。だが、その一言に含まれるわずかな冷気に、私は言葉を選んだ。
「おそらく、知らされていなかったのだと思います」
そう口にしたが、自分でも苦しい言い訳だと分かっていた。
やがて屋敷の奥から、慌ただしい足音が響いた。
どうやら“第二王子殿下が直々に侯爵令嬢を送り届けた”という事実に、屋敷中が騒然となったのだろう。
しばらくして、父と継母レオノーラ、そして妹マリーネが、息を切らせながら玄関から現れた。
「こ、これはこれは……! 第二王子殿下をお迎えもせず、無礼をいたしました!」
父が顔色を変えて頭を下げる。
その横で、レオノーラは口元に笑みを張りつけ、まるで何事もなかったかのように優雅に一礼した。
「まあ……第二王子殿下。侯爵家に足をお運びいただけるなんて、光栄にございますわ」
そして――マリーネが殿下の姿を見た瞬間、瞳を大きく見開いた。
その頬には、驚きとともに、明らかな熱が宿る。
「アラン様……わざわざお越しいただき、申し訳ありません」
甘ったるい声でそう言い、彼女は殿下の視線を求めるように小首を傾げた。
その仕草はあまりにもあからさまで、胸の奥が冷たくなる。
許しを得てもいないのに名前を呼ぶなど、無礼にも程がある。
そんなこともわからないのか、マリーネは私のそばに寄ると、笑顔のまま耳元でささやいた。
「お姉さま、王太子殿下を怒らせたりしたのでは? そのお咎めでアラン様がわざわざ来られたの? やっぱりお姉さまなど、王太子妃になれるはずないのよ」
怒らせた――確かにそれは事実かもしれない。
だが、第二王子殿下がこうして同行してくれたのは、罰のためなどではない。
それよりも、実の娘が王族を名前で呼んでも父が咎めもしないことに、深い絶望を覚えた。
お詫びを申し上げねば――そう思った私をよそに、アラン殿下は静かに息を吐いた。
「私は兄の代理としてお送りしたにすぎません。また、この婚儀については追って報告を上げます」
それだけを告げると、殿下は私に一礼し、静かに馬車へと戻っていった。




