第六話 アルヴェイン・リュゼリア
「お前には関係ない。……ただ婚約者と話をしていただけだ」
その声が響いた瞬間、荒れ狂っていた魔力の気配が静まり、吹き荒れていた風がぴたりと止まった。
部屋の空気が張りつめ、燭台の炎が静かに揺れる。
魔力を抑え込んだのは、目の前の第二王子殿下――アルヴェイン・リュゼリアだということはすぐに分かった。
噂に聞くとおり、その力は澄み渡る湖のように静かでありながら、底知れぬ威を湛えていた。
「“話をしていただけ”……ですか。それにしては、随分なご様子ですね」
アルヴェイン殿下の低い声が室内に響く。蒼の双眸がわずかに細められ、散乱した酒器と気を失った侍女たちに視線が向けられた。
その中のひとりが苦しげに胸を押さえているのが見え、私は思わず唇を噛んだ。
放ってはおけない。
「発言をお許しください」
恐れを押し殺して立ち上がる。
先ほどの衝撃で足を痛めたらしく、一瞬鋭い痛みが走るが、構わず膝を折り、深く頭を垂れた。
「この者の容体が思わしくありません。どうか治療をお命じくださいませ」
無礼を承知での懇願だった。
もしこの方も、王太子殿下のように女を“物”としか見ぬ方なら、怒りを買うのは明白だった。
だが、何も言わずにいられなかった。
沈黙が長く感じて、唾液を飲み込んだ。
しかし、次の瞬間、落ち着いた声が静かに響いた。
「彼女たちを別室へ運び、治癒を施せ」
命を受けた従者が素早く部屋に入り、女性たちを静かに運び出していく。
その背を見送る間もなく、王太子殿下が不機嫌そうに立ち上がった。
「アルヴェイン、勝手をするな。あれは余のものだぞ」
アルヴェイン殿下の瞳がわずかに細まり、冷ややかな光が宿る。
「王太子殿下――酒の香が強いご様子ですね。理性を失われるほど嗜むのは、王家の威信を損ねましょう」
「なっ……貴様、弟の分際で!」
怒声が上がる。
しかし、アルヴェイン殿下は一歩も引かず、静かな声音で続けた。
「婚約者とのお話は、これでお済みですか」
「どんな女か見てやろうと思っただけだ。話すことなどない」
王太子殿下は鼻で笑い、杯を乱暴に卓に置いた。
――“ただ話をしていただけ”と、つい先ほど言ったばかりなのに。
胸の奥がずきりと痛み、めまいがしそうになる。
「俺の子を産むためだけの女だ。まあ、あまりにも貧相だが……どうにでもなるだろう」
その言葉が、静まり返った室内に鈍く響いた。あまりの侮辱に耐えられず、私は思わず顔を上げていた。
その瞬間、アルヴェイン殿下が低く告げる。
「それならば――もう十分でしょう」
淡々とした声が響き、空気が一変した。
アルヴェイン殿下は私の方へと向き直り、静かに言葉を紡ぐ。
「帰る馬車を手配いたします。こちらへどうぞ」
その穏やかな声音に、私は深く息を吐いた。
婚約すら正式ではない身。これ以上この場に留まる理由などない。
「ありがとうございます」
礼を述べ、怒りを鎮めながら彼に従う。
部屋を出ると、無意識に大きく息を吐いていた。
しかし、はっと我に返る。――第二王子殿下の御前でなんという無作法を。
謝罪をしなければと口を開きかけた時、殿下が静かに振り返られた。
「申し訳――」
そこまで言いかけた私の前で、殿下はすっと頭を垂れた。
「殿下……!」
思わず声を上げたが、彼はそのまま深く頭を下げたままだった。
「いくら国王の命とはいえ、あのような態度をとる兄を許せとは言えないだろう」
その声音は穏やかで、それでいて深く誠実だった。
王族でありながら、下の者に対しても礼を尽くす――そんな人が本当に存在するのかと、胸の奥が熱くなる。
「いえ、私も貴族の娘。弁えております。どうぞお顔をお上げくださいませ」
そう伝えると、殿下は静かに頭を上げた。
まっすぐに私を見つめる瞳は、淡い金と蒼が溶け合うような色。
「ヴァルグレア侯爵令嬢、家まで送らせていただきます」
その言葉に、思わず身体がこわばる。
「どうかされましたか」
穏やかな問いに、私は一歩遅れて首を振った。
「あの、この結婚は……どうなるのでしょうか」
殿下にこんなことを尋ねるなど、本来なら許されるはずもない。
それでも私は、どうしても聞かずにはいられなかった。
このまま屋敷へ戻れば、父は「どうだった」と問い詰めるだろうし、継母たちは“失敗した”と笑うに違いない。
妹たちは――この婚約が破談になることを、心の底から望んでいる。
「申し訳ない。……現状、国王陛下のご命令は絶対だろう」
静かにそう答えたアルヴェイン殿下は、視線を伏せたまま、しばし言葉を選ぶように沈黙した。
そして、わずかに息をついてから続けられる。
「君には不本意だとは思うが……」
「いえ、それならば、ご命令を待とうと思います」
そう口にし、深く頭を下げた。
そのとき、殿下はふと足を止めた。
「侯爵家の令嬢だ。迎えの馬車はあったか?」
その問いに、胸がわずかに強ばった。
行きは王家の使者が迎えに来たが、帰りなど――父も継母も手配などしてくれるはずがない。
もちろん、歩いて帰ることなど慣れている。
けれど、それをこの方に言えば、ヴァルグレア侯爵家の在り方を疑われるだろう。
それだけは避けたかった。
どう答えるべきか思案していると、アルヴェイン殿下がふと歩き出した。
ついて行くべきか迷っていると、「こちらへ」と穏やかな声が聞こえる。
「すぐに馬車を」
そう告げた殿下の言葉に応じて、待機していた従者が慌ただしく動き出した。
しばらくして、王家の紋章を刻んだ黒い馬車が玄関前に滑り込んだ。
扉が開かれ、私は静かに裾を押さえて乗り込もうとした。
だが、すぐ後ろで衣擦れの音がして、思わず振り返る。
――第二王子殿下が、当然のように馬車に同乗しようとしていた。
「殿下も……ご一緒に?」
思わず問いかけると、彼は短く「護衛のためだ」とだけ告げた。
拒む理由などあるはずもない。
けれど、隣に座るその存在を意識するだけで、心臓の鼓動がいやに早くなったのがわかった。




