第五話 ギルベルト・リュゼリア
案内をされ大きく豪華な扉の前に立つと、その向こうから甘く重い香りが流れ込んできた。熟れた果実と酒、そして香油が混じり合った匂い。
それだけで、この部屋が“謁見の間”ではなく、殿下の“私室”であることを悟る。
中へ入った瞬間、思わず息を呑んだ。
そこは、まるで豪奢な宴の最中のようだった。深紅の絨毯の上に、金糸の織り模様が浮かび上がっていた。
天蓋つきのソファには、赤と白の薔薇が惜しげもなく飾られ、バルコニーの向こうには風に揺れるカーテンが波のように棚引いている。
燭台の炎がゆらめき、壁に掛けられた鏡が淡く光を反射していた。
その中央――深い青の衣を纏い、両隣に女を侍らせた男が、ゆったりとソファに腰を下ろしていた。
ひと目でわかった。彼が、王太子ギルベルト・リュゼリア。
ブルーゴールドの髪が炎の光を受けて煌めき、切れ長の青い瞳が、まるで氷の刃のように光っている。確かに、誰もが見惚れる美貌だった。
けれど、その瞳には王族の誇りなど微塵もなく、ただ享楽と傲慢の色だけが宿っていた。
殿下の肩に身を預けていた女たちが、私に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。
微笑みを浮かべながらも、その視線は冷やかで、扇で口元を隠し、何かを囁き合う。
「……これが、“聖なる血”を引く娘か」
燭台の光の中で、王太子殿下が唇の端をわずかに上げた。
重厚な扉が静かに閉じられ、私の後ろで鍵の音が響いた。王族に謁見する作法――それは幼い頃、母に教わった礼のひとつだった。
私は静かに裾をつまみ、背筋を伸ばして深く一礼する。
「顔を上げろ」
冷ややかな声が響き、心臓がひとつ跳ねた。視線を上げると、黄金の燭光に照らされたその顔が鮮明に映る。
確かに誰もが見惚れるほどの美貌。
けれど、その瞳の奥にあるのは、底知れぬ傲慢と残酷さに見えた。
「地味な女だな」
吐き捨てるような言葉に、周囲の女たちが小さく笑い声を漏らす。
「聖なる血を引くというから、どんな神の使いかと思えば――ただの娘ではないか」
ギルベルト殿下の指先が、手にしていたワイングラスを軽く揺らす。深紅の液体が光を受け、まるで血のように艶めいた。
その視線が私の髪の先から足元までを、品定めするように滑り落ちていく。
「エリシア・ヴァルグレアにございます」
かろうじて名を名乗ると、彼は興味なさげに片眉を上げた。
「名などどうでもいい。お前が俺の子を産めるのか、それだけが問題だ」
部屋の空気が一瞬で凍りついたのがわかった。誰かが息を呑む音さえ、はっきりと聞こえた。
――やはり、と思う。
父から聞かされていた通りの言葉だった。これがこの国の王太子であり、次期国王になる人。
噂は噂であってほしかったが、どうやらそうではないらしい。この人を放置しているのだから、父である国王も、母である王妃も、そして兄弟たちも同じなのだろう。腐った王家。そんなものに、ひれ伏さなければならない民衆。しかし、彼らには絶対的な魔力がある。
血筋は良くても、まったく力のない私は、彼にとっては取るに足りない存在なのだろう。
しかし――。
散々虐げられてきた身だ。いまさらこの程度の侮辱で傷つくことなどない。
ただ、この男の子を産むなどと考えると、吐き気すら覚える。けれど、それを口に出すことは許されない。
私は、これから“夫”となる人の瞳を真っすぐに見据えた。
「なんだ? 何か不満でもあるのか?」
王太子の唇が、嘲るように歪む。
その声音に恐れを感じるよりも、なぜか胸の奥が静かに冷えていく。
『身分や力に驕るのではなく、人としての品位と誇りを忘れずに生きなさい。そして、どんなときも自分を大切にしなさい』
目の前の人は、これをすべて持ち合わせていない。
母が亡くなってから、あんな父でも血のつながりはあるのだし、その人が選んだ家族だから、そう思って我慢をしてきた。しかし、もう私はあの家を出るのだ。
「はい、殿下。どういう理由であれ――私は“正妃”となるのですよね?」
静かに告げたその言葉が、部屋の空気を震わせた。
女たちの扇がぴたりと止まり、ギルベルトの青い瞳が細くなる。
その瞳に映るのは、取るに足らぬ娘への苛立ちか、あるいは――興味か。
「だからなんだ?」
血を這うような恐ろしい声音に、一瞬ひるみそうになりつつも口を開く。
「周りの女性たちにこの場から席を外していただけませんか?」
思わずそう口にした瞬間、空気が一変した。ぞわり――と肌を刺すような魔力の波動。
次の瞬間、目に見えぬ衝撃が私の身体を容赦なく吹き飛ばした。
周囲の叫び声と同時に、背中が扉に叩きつけられ、鈍い痛みが走った。胸の奥で息が詰まり、咳が漏れた。
「生意気な!!」
怒号が響き、空気が震えた。見上げれば、王太子殿下の周囲に紅い魔力の奔流が渦巻いていた。
その膨大な力に、周りの女たちは次々と意識を失い、床に崩れ落ちていた。
「なんてことを……! 大丈夫ですか!?」
痛む身体を引きずり、倒れた女性たちに駆け寄った。脈を確かめると、幸いにも命に別状はなかった。ただ、気を失っているだけ――それが分かって胸を撫で下ろした。
“もし、伝承にあるような力が使えたなら――”そんな悔しさが込み上げた、その時だった。
「兄上!! 何事ですか!!」
重厚な扉が勢いよく開き、澄んだ声が響いた。
白と銀の鎧をまとい、陽光を受けて淡く光る髪――。
氷のように冷たい青の瞳には、怒りなのか、憐れみなのかわからない色があった。
その姿を見た瞬間、息をすることすら忘れてしまった。
「……第二王子殿下」
侍従たちがざわめく中、彼は一歩前へと進み出た。
「お下がりください、兄上。このような場で力を使えば、王家の威信に関わります」
その声音は穏やかで、しかし誰も逆らえぬ強さがあった。
私はこんな状況にも拘らず、その人から目を離すことができなかったーー。




