第二話 晩餐
「……入りなさい」
低く抑えた父の声に、覚悟を決めて扉を開けて中へと歩みを進めた。
その瞬間、胸がぎゅっと収縮し、呼吸が浅くなり、冷たいものが背筋を這い上がった。
閉ざされた空間には、重苦しい静寂が満ちている。
壁一面を覆う書棚には、革装丁の魔導書や金縁の記録書が整然と並び、磨き抜かれた黒檀の机には王家の紋章が刻まれた文書が、封を切られたまま無造作に置かれていた。
天井から吊るされた水晶のシャンデリアが柔らかく光を放ち、深紅の絨毯の上にその光が反射している――けれど、その輝きが不思議と冷たく感じられた。
父の背後には、レオノーラ様とマリーネが立っていた。
ふたりとも艶やかな金髪を結い上げ、宝石を散らした衣をまとい、口元は薄く笑みをたたえている。それにしてもよく似ているふたりだ。
「お呼びでしょうか」
声が震えずに済んだことは自分を褒めていいかもしれない。それぐらいの緊張感がこの部屋にはあった。それに、継母たちが機嫌がいいということは、きっとこれは彼女たちにとって都合のいい話なのだろう。
「お前には、第一王子――ギルベルト殿下との婚姻が決まった。正式な婚約発表は来月、王宮にて行われる予定だ」
その言葉は、あまりにも唐突で、他人事のように響いた。父の声には喜びも迷いも、情の欠片もない。
ただ淡々と、事務的に、誰かの命令を伝えるだけ――そんな風に聞こえた。
ギルベルト殿下。
第一王子にして、次期国王の最有力候補。確かにその名を知らぬ者はいない。
冷酷、野心家、そして“暴君”――そんな噂がついて回る男。
愛妾がいるとも聞くが、それでも王妃の座は他のどんな栄誉にも代えがたい。
マリーネがその座を欲していたことは、屋敷の誰もが知っている。 “次期王妃”――その響きは、彼女にとって夢そのものだった。
では、なぜ私なのだろう。
「なぜ……私なのでしょうか?」
問いかけた声が、重い静寂のなかに落ちていく。マリーネの肩がわずかに揺れ、空気がぴんと張り詰めた。
「本当よ! どうしてこんな薄汚いお姉様が相手なのよ!!」
よく今まで我慢していた――そう褒めたくなるほど、すごい形相でマリーネが叫ぶ。
それをレオノーラ様が窘めるように、「お父さまの前よ」と口にした。
「本当ならば、マリーネがふさわしいと申し上げたが、必要なのは血筋だけだそうだ」
その乾いた響きに、私の心の奥がゆっくりと冷えていくのが分かった。
血筋だけ――それは、別に私だからということではない。ただ、王家を守るための結婚ということなのだろう。
確かに、母の家系は代々“聖なる力”を継ぐ公爵家であった。
しかし、私にその力はなく、母にもなかった。
今やそれは伝承になりつつある家系だが、魔物が増え、農作物も育たず、国の威信が危うい今――そこにでもすがりたいのかもしれない。
そんな中でのこの話。継母たちは面白くなくても、どうすることもできなかったというところか。
しかし、私などがこの国の王妃など……。そう思い、父に視線を向ける。
「……あまりに突然です。わたくしが……王太子殿下と結婚など」
そこまで言った瞬間、マリーネが持っていた扇子が音を立てて閉じた。
「だから言っているでしょう! お姉さまはただのお飾りで、その血の世継ぎを産めばいいのよ!
それが終わったら、すぐに離縁して出ていきなさいよ!」
なんということを言うのだろう。そう思ったが、確かに私の役割はそれだけなのだろう。
ただ、“聖なる力”が現れるまでの――道具。
そう思った瞬間、逃げ出したくなった。しかし、私には行くところなどないのだ。
母が他界してから、続けて祖父母も亡くなり、今は祖父の弟が公爵家を継いでいる。
そして、その子供たちとも折り合いはよくない。帰ったとしても、ここでの生活と変わらないだろう。
逃げられないし、逃げ場もない。
それならば、運命に従うしかない。そう決意した時だった。
「お姉さま、勘違いしないことですわ。お姉さまが必要じゃないの。ただ、血筋だけなのよ」
嘲るような声音。
そんなことは分かっている。
私は小さく息を吐くと、マリーネたちに視線を向けた。
どうせ、こんなことになるのなら――最後ぐらい、我慢をする必要などない。
「残念だったわね。それでも、王太子殿下は私を選ばれたそうよ」
薄い笑みを浮かべながらそう言うと、マリーネはとうとう冷静さを保てなくなったようで、私のもとへと歩み寄ってきた。
頬が熱い――そう思った瞬間、マリーネが私の頬を打ったことが分かった。
「うるさい! どうしてあんたなのよ! 邪魔なのよ!!」
そう言いながら、思い切り扇子で私を叩くマリーネ。
「さっきまで余裕そうな顔をしていたじゃない。どうしたの? 悔しいの?」
母や祖父母を亡くし、傷心だったこともあり、これまで反抗したことなど一度もなかった。
初めて言い返されたことに驚いたのだろう。 レオノーラ様も顔を赤くして、怒りをあらわにした。
「部屋に閉じ込めておきなさい!」
その言葉と同時に、侍女や使用人たちが私を取り囲む。
「一人で戻れます」
そう口にすると、使用人たちも驚いたように手を引いた。
――ここを出るのなら、もう我慢はしない――。




