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第一話

よろしくお願いします

リュゼリア王国の王都。その中心に、誰もが見上げるほどに壮麗な屋敷が建っている。


 それが、私の生家——ヴァルグレア侯爵家の本邸だった。

 代々“癒し”の魔法を継承し、王家に仕え続けてきた名門。

 治癒師や宮廷医として名を連ねた先祖たちの記録は、いまも王国史に刻まれている。


 高く積まれた石の城壁と、尖塔を戴いた中央棟。

 赤茶の屋根瓦が朝陽を受けてきらめき、白い外壁に金のレリーフが浮かび上がるさまは、まるで王宮に匹敵するほどの威容だった。

 花が咲き誇る中庭に、錬金術の研究棟、神々へ祈りを捧げる礼拝堂、そして魔力の泉を囲む回廊。

 どれもこれもが、この家の“格”を語るには十分すぎるほどだった。


 けれど、そんな輝かしい屋敷の隅に、誰にも気に留められない小さな部屋がある。


 北棟。使用人たちが行き交う階段の裏手。

 かつて下働きの仮眠室として使われていたその一室に、今の私は暮らしている。


 エリシア・ヴァルグレア。

 本来なら、侯爵令嬢としてこの屋敷で最も日当たりの良い部屋に住み、

 侍女たちに囲まれて、絹のドレスや宝石を身につけていても不思議はないはずなのに。


 けれど、現実は違った。

 剥がれかけた壁紙。色あせたカーテン。

 暖炉の火はもう何日も入れられておらず、冷えた空気が足元から染みこんでくる。

 古いベッドの脇には、書きかけの手紙が置きっぱなしのまま。

 まるで、存在そのものを忘れられた娘のように扱われていた。


 その朝、屋敷にはめずらしく張り詰めた空気が漂っていた。

 夜が明けたばかりの頃、簡素な木の扉をノックする音が、部屋の静けさを破った。


 「……エリシア様、旦那様がお呼びです」


 扉の向こうから、下女の遠慮がちな声が聞こえた。


 呼ばれる理由なんて、まったく思い当たらなかった。

 父に声をかけられることなど、この数ヶ月で一度でもあったかどうか……そんな程度だったから。


 私はゆっくりと立ち上がり、静かに身支度を整えた。

 昔、礼儀作法の稽古で身体に叩き込まれた動作だけが、今でも私の中に残っている。

 それが、数少ない“誇れるもの”だった。


 父の書斎に足を踏み入れた瞬間、何か冷たいものが背筋を這い上がるような感覚があった。

 閉ざされた空間には重々しい空気が淀み、書棚には革装の古い魔導書が静かに並び、正面の机には王家の紋章が刻まれた文書が、封を切られたまま無造作に置かれている。


 「……エリシア」


 低く抑えた父の声に名を呼ばれ、私は顔を上げた。

 その瞬間、胸がぎゅっと収縮し、呼吸が浅くなる。


 父の背後には、継母であるレオノーラと、義妹のマリーネが立っていた。

 レオノーラは父の再婚相手でありながら、私を“家の娘”として扱うことは一度たりともなかった。

 その彼女が、今もどこか薄く笑みを浮かべて立っている姿を見るだけで、身体がこわばる。


 「お前には、第一王子——ギルベルト殿下との婚姻が決まった。

  正式な婚約発表は来月、王宮にて行われる予定だ」


 父の言葉はひどく乾いていて、まるで他人事のようだった。

 喜びも、迷いも、情の欠片も含まれないその声に、心の奥が冷えていく。


 「……それは、あまりに突然です。わたくしが……王子殿下と?」


 精一杯抑えて声を出したものの、自分の口から発せられたその言葉が、どこか遠くへ流れていくような心地がした。

 まだ理解が追いつかない。けれど、何かが大きく変わってしまったという予感だけが、確かにそこにあった。


 マリーネが口元を手で覆いながら、目を細めて小さく笑った。


 「お姉さま、夢が叶ってよかったですね。……“玉の輿”って、昔から仰ってましたよね?」


 「マリーネ」


 レオノーラが名を呼ぶ。

 たしなめるように聞こえはしたが、その瞳に宿っているのは冷たい光だけだった。

 むしろ、それを言わせたのは彼女自身なのではないかという確信すらあった。


 「王太子妃ともなれば、この家の名誉に直結する話だ。……お前に断る権利はない」


 父の声に、私は膝の上で両手をきつく握りしめた。

 指先が白くなるのがわかる。それでも震えは止まらなかった。


 「ですが……私は、魔力も持たず、癒しの技も満足に扱えません。王子殿下のお相手として……そのような大任など——」


 「だからこそだ」


 父は、机に片手を置いたままゆっくりと歩み寄ってきた。

 その動きには威圧の意図すら隠されているようで、私は思わず視線を落とした。


 「お前には何の力もない。だが、この家の血を引くという一点のみが、王家にとって利用価値となる。……それだけだ」


 まるで、娘ではなく“血統を持つ器”としか見なしていないその言葉に、私は何も返すことができなかった。

 冷たく、重たく、どうしようもなく孤独な現実が、改めて胸に突きつけられた。


 それでも私は、返事をしなければならなかった。

 ここで抗えば、何かを壊せるかもしれない。けれど、壊した後に何が残るかまでは、想像できなかった。


 「……はい。お受けいたします」


 かすかに震える声を押し殺しながら、私は静かに頭を垂れた。

 従順に、感情を消して。その場をしのぐために、それ以外の術など持ち合わせてはいなかったから。


 その瞬間、マリーネの表情が一瞬だけ、鋭い怒りに染まったのを、私は見逃さなかった。

 普段は隙のない微笑みを保っているはずの彼女の顔が、わずかに歪む——そのほんの一瞬の揺らぎは、私の背筋に冷たいものを這わせた。


 その夜の食卓には、めずらしく家族全員が揃っていた。

 父である侯爵グレゴールが席につく場では、継母レオノーラも義妹マリーネも、礼儀を取り繕い、上品な所作を守る。

 けれど、それがかえって私には耐え難かった。

 それはまるで、表向きの仮面だけを貼りつけた登場人物が、芝居を演じ続ける劇場のようだった。


 燭台に揺れる炎が、白磁の皿と金のカトラリーを静かに照らしていた。

 香り高いスープが置かれた皿の向こうで、レオノーラが優美な笑みを浮かべる。


 「エリシア。……ご婚約、おめでとうございます」


 その声は穏やかで丁寧だったが、どこか空虚に響いた。

 そこに込められた感情は、祝福ではなく、形式だけの仮面にすぎないことを、私はすぐに察した。


 「……ありがとうございます」


 俯いたまま、小さくそう返した私の足元で——


 ぐり、と。

 テーブルの下から、革のブーツのつま先が無遠慮に押しつけられ、足を強く踏みつけられた。


 「っ……」


 小さく息が漏れる。

 視線を上げると、向かいに座るマリーネが、にこりと微笑んでいた。

 フォークを優雅に持ち、まるで何も起きていないかのように、スープを口に運んでいる。


 「でも、お姉さまは……王太子殿下のことを、本当に理解していらっしゃるのかしら?

  殿下のようなお方は、ただ美しいだけの女性では、きっとすぐに飽きてしまわれると思うの」


 その声音は柔らかで、笑みすら添えられていたが、その言葉は明確な毒を含んでいた。

 そして、レオノーラがそれをたしなめるふうに言う。


 「マリーネ、口が過ぎますよ」


 けれど、そのやさしげな声には、本気の叱責など微塵も感じられなかった。

 むしろ、娘の皮肉を許容し、それを楽しんでいるようにさえ聞こえた。


 父は、そんなやり取りにはまったく興味を示さず、黙々と食事を進めていた。

 ワインを口にし、目も合わせず、誰の声にも応じることなく。

 その無関心さが、何よりも胸を締めつけた。


 (……お父様は、私の声も、私の痛みも、最初から見ようとしない)


 マリーネの足が再び動き、今度はヒールの先で膝の内側を小突いてきた。

 痛みが走るが、私はそれを顔に出さず、ただ静かに耐える。


 (何か言えば、“気の強い娘”だとか、“ふさわしくない”などと、また誰かが決めつける。だから……黙っているしかない)


 ワインの赤が、揺れる燭火に染まり、まるで血のように見えた。

 それが誰の血かなど、考える気にもなれなかった。


 食事が終わる頃には、足に鈍い痛みが残っていた。

 けれど私は、それを感じさせることもなく、無言のまま椅子を引いて立ち上がった。


 「ごちそうさまでした。……お先に失礼いたします」


 礼儀通りに頭を下げてから背を向けた、その背中に、マリーネの言葉が冷たく降ってきた。


 「まぁ、さすが王太子妃さま。ご挨拶まで完璧ですこと」


 それでも私は、振り返らなかった。

 

屋敷の奥にひっそりと残された礼拝堂は、今では誰の足音も届かない場所になっていた。

 時代が変わり、魔力を信仰の中心とする価値観が浸透して久しい。

 古い神への祈りは、いまや“形式”としてかろうじて屋敷に残されているだけで、使用人たちでさえも足を踏み入れることはほとんどない。


 けれど、私にとってだけは違った。

 ここだけが、母と唯一つながっていられる場所だった。


 蝋燭に火を灯し、埃をかぶった祭壇の表面を、丁寧に布で拭い清める。

 小さな台座の上には、若くして世を去った母の遺影が、今も静かに飾られていた。

 そのやわらかな眼差しと、どこか寂しげな微笑みは、私の記憶のなかの母と寸分違わない。


 「……お母様」


 私はそっと膝をつき、手を組む。

 誰にも見られていない、誰の言葉も届かないこの時間だけが、私を赦してくれる。

 ここでは“わたし”としていられる。ただ、それだけでよかった。


 「わたし、婚約することになったの。王太子殿下と……ギルベルト・リュゼリア殿下と」


 静かに漏れた声は、石壁に吸い込まれるようにして礼拝堂の空気へと溶けていった。


 「お父様は、“家のため”だと仰ったわ。

  わたしには魔力がないから、それしか道はないって……」


 口にするたびに、喉の奥が詰まりそうになる。

 心の奥底に沈めていた苦しみが、静かに浮かび上がってくる。


 「でも、お母様……わたし、気づいていたの。

  あなたがまだ生きていたあの頃から、あの人……レオノーラはもう、父のそばにいたということに」


 ぼんやりとした記憶の断片が、胸の内に痛みを伴ってよみがえる。

 母の枕元に控える見知らぬ女、その横顔に浮かんでいた微笑み。

 あれは夢なんかじゃなかった。幼すぎた私は言葉にできずに、ただ黙って見ていただけだった。


 「あなたが亡くなられたあと、あの人はまるで当然のように“新しい夫人”として屋敷を取り仕切り始めて……

  わたしは何の説明もなく部屋を移され、気づけば“令嬢”の名は、あの人の娘に与えられていた。

  誰もそれを疑問に思わず、まるで最初からそう決まっていたかのように、皆が受け入れていたの……」


 涙が、頬をつたった。

 言葉を紡ぐたびに、胸の奥が締めつけられる。


 「わたしは……お母様だけが、愛してくれた。

  魔力がなくても、弱くても、あなたは“わたし”を、そのまま抱きしめてくれたの……」


 祈る手が、かすかに震える。

 ずっと堪えていたものが、ここで溢れ出してしまうのがわかっていた。


 「……怖いの。

  このまま誰の心にも触れられず、“道具”として終わっていく未来が……」


 返事はなかった。

 けれど、蝋燭の炎だけが静かに揺れ、私の涙をそっと照らしていた。


 祈りを終えても、私はすぐには立ち上がれなかった。

 ただ、石造りの床に座り込み、胸の奥に積もった静かな痛みと向き合う。

 ここにいるときだけは、少しだけ“私自身”に戻れる気がする。

 けれど、祈りの空気はいつまでも続いてはくれなかった。


 ——カツン。


 乾いた足音が、石の床に響いた。


 (……誰?)


 この時間に、ここを訪れる者などいない。

 使用人も家族も、礼拝堂の存在などとうに忘れてしまったような扱いをしている。

 緊張が喉を詰まらせ、私は身を起こした。


 (マリーネ……?)


 そう思ったときだった。


 背後から突然、粗い布が私の顔を覆い、同時に腕が背中から押さえつけられた。


 「っ……!」


 叫ぶ暇もなく、口元を塞がれ、暴れる隙も与えられず——

 鈍い衝撃が頭に走った瞬間、世界が闇に崩れ落ちた。


 


 目が覚めたとき、肌に触れる空気は冷たく、どこか金属と湿気が混じったような匂いが漂っていた。

 視界はぼやけ、喉は乾いていたけれど、ここが王城ではないことだけは直感でわかった。


 (……ここは……どこ……?)


 粗い石畳、崩れかけた建物の影。

 遠くで酔ったような笑い声が聞こえる。怒号、罵声、割れた瓶の音。

 どこを見ても見慣れぬ景色。けれど一つだけ、記憶にあった。


 ——旧市街。王都の端にある、盗賊や無宿人たちが巣食う場所。


 (まさか、私をこんなところに……)


 目を凝らせば、足元には誰かに運ばれたような跡があり、

 空気は重く、ぬかるんだ地面の湿気が身体の熱を奪っていく。


 そのとき、遠くから足音が響いた。


 (誰か、来る……)


 胸が早鐘のように打ち始める。


 「……いやっ……誰か、助けて……!」


 叫ぶ声はかすれ、喉の奥で途切れた。

 そして次の瞬間、通りの先から男がひとり現れた。


 手に握られていたのは、鋭く光る短剣。


 私はその場に膝をついたまま、息を呑んだ。

 逃げられない。どこにも出口はない。

 屋敷の外を知らずに生きてきた私に、抵抗する力も術もなかった。


 (終わる……)


 そう思ったそのとき、闇の向こうから、もうひとつの影が現れた。


 けれど、目がその姿をとらえるより早く、意識の方が沈んでいく。

 静かに、深く、闇の底へと。

 

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