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第一話 エリシア・ヴァルグレア

よろしくお願いします

 リュゼリア王国の王都――その中心に、誰もが見上げるほど壮麗な屋敷が建っている。


 それが、私の生家――ヴァルグレア侯爵家の本邸だった。


代々“癒し”の魔法を継承し、王家に仕え続けてきた名門。治癒師や宮廷医として名を連ねた先祖たちの名は、いまも王国史に刻まれている。


 高く積まれた石の城壁、尖塔を戴いた中央棟。赤茶の屋根瓦が朝陽を受けてきらめき、白い外壁に金のレリーフが浮かび上がるさまは、王宮にすら劣らぬ威容を誇っていた。

 花の咲き誇る中庭、錬金術の研究棟、神々へ祈りを捧げる礼拝堂、魔力の泉を囲む回廊――そのすべてが、この家の“格”を語っていた。

 けれど、その華やかな屋敷の片隅に、誰にも気に留められぬ小さな部屋がある。北棟。使用人たちが行き交う階段の裏手。


 かつて下働きの仮眠室として使われていたその一室に、いまの私は暮らしている。

 ――エリシア・ヴァルグレア、十七歳。透けそうなほど白い肌に、細い身体。かつては陽の光を映すようなブルーゴールドの髪をしていたが、今は灰色がかった淡い色に褪せてしまった。

 本来なら侯爵令嬢として、すでに社交界にデビューしていてもおかしくない年頃だ。

 同年代の令嬢たちは舞踏会でドレスの裾を翻し、貴族の青年たちの腕をとって微笑んでいる頃だろう。

 けれど、私にはその舞台が訪れることはなかった。


 私の母はセレーネという名前で、公爵家の出でありながら、政略のためにこの家へ嫁いだ女性だった。愛のない結婚だったこともあり、父は愛妾ばかりにかまけて、私と母のことにはまったく興味がなかった。

 しかし、病弱ではあったが、母は気品にあふれ、私には常に穏やかな笑みを向けてくれた。礼儀、言葉遣い、食事の作法、そして貴族としての誇り――母はそのすべてを私に教えてくれた。

 このまま、母と共に静かに生きていくのだと――そう信じていた。

 けれど、その願いはあまりにも脆かった。

 十三の冬、母は長い病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。


 間もなく、母の両親――私の祖父母も後を追うように世を去り、母の生家であるルーシェ公爵家は、祖父の弟の手に渡った。

そしてその日を境に、ヴァルグレア家での私の立場は、見るも無惨に変わっていった。


 すぐに、愛妾だったレオノーラという女性と、その腹に生まれた二つ年下の妹マリーネが現れ、私を屋敷の片隅へと追いやった。

 剥がれかけた壁紙、色あせたカーテン。暖炉の火はもう何日も入れられず、冷えた空気が足元から忍び寄ってくる。


 古びたベッドの脇には、書きかけの手紙が置きっぱなしのままだ。

 そこに綴られた宛名は、もうこの世にいない母の名だった。

 “お母様、私は今日も元気です”――

 そう書き始めたまま、筆は途中で止まっている。

 平気だと自分に言い聞かせながら、実際にはもう随分と、心のどこかが凍えたままだ。

 母が亡くなってから、私の存在をなかったものにしたいのか、外出すら許されなくなった。


 こんな生活が続くのなら、いっそこの屋敷を出て、どこかでひっそりと生きていきたい。そう願い、何度か家を出ようとしたこともあるのだが、なぜかそれは許されなかった。



 夜が明けたばかりの頃、簡素な木の扉を叩く音が静寂を破った。


「……エリシア様。お目覚めでいらっしゃいますか」


 低く遠慮がちな声が、古い扉の向こうから聞こえる。私は小さく息を吸い、冷えた空気を肺に満たした。

 今日もまた、一日が始まるのだ。

「起きています」

 努めて冷静に答えた私だったが、次の言葉に呼吸が止まる。


「旦那様がお呼びです」

 父に声をかけられることなど、この数ヶ月で一度でもない。呼ばれる理由が私にとっていいものではないことは明らかだ。

 しかし、拒否することなどできるわけがない。

「わかりました。支度をしてまいります」

 そう答えると、侍女は何も言わず去ったようだった。静まり返った部屋で呼吸を整えると、私はゆっくりと立ち上がり、鏡に映る自分の姿を見つめた。


 頬はこけ、指先は白く、十七という年齢には似つかわしくないほど、幼さと疲弊が混ざっている。

 それでも、身だしなみだけは整えなければならない。

 昔、礼儀作法の稽古で身体に叩き込まれた所作だけが、今も私の中で息をしていた。それは――もう、唯一“誇れるもの”だった。


 私は簡素な部屋の扉を押し開け、北棟の細い廊下へと足を踏み出した。


 窓の格子から差し込む朝の光は弱く、石畳の床にはまだ夜気が残っている。遠くから、使用人たちが食器を運ぶかすかな音が響いてきた。この屋敷の華やかな中央棟とは別世界のように、北棟はいつもひんやりと静まり返っている。


 私は古びた階段を上り、回廊へと出た。


 高く磨かれた床には、天窓から射す光が淡く反射している。壁に飾られた絵画や金の燭台、香油を焚いた香り――。


 ほんの少し前まで、これらは私にとって“家”を象徴する風景だった。けれど今は、ただ遠い場所の記憶のようにしか感じられない。

 足音を殺しながら歩き、父の書斎の前で立ち止まる。


 重厚な扉の向こうからは、人の気配と、紙をめくるような微かな音だけが聞こえてきた。


 ――逃げ場はない。

 指先が冷たくなるのを感じながら、私はそっと扉を叩いた。



ありがとうございました!

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