最悪な婚儀
あっという間に婚儀の日の朝を迎え、私は静かにベッドから降りた。もちろん、誰にも祝福されることはないのはわかっているが、今日は形式だけでも父や継母、そして義妹も一緒に行く必要がある。
それはわかっているはずだ。
そして、当初は婚約からということだったそうだが、王太子殿下の意向でそんな面倒なことは必要ない。婚礼の儀だけ済ませればいいのだ、そう決まったそうだ。
ただ、跡継ぎを産むだけの道具。それには段取りなど関係ないということだろう。
もちろん、支度に来る侍女はおらず、ひとりでドレスを着られるわけもない。
第二王子殿下がこの日のために手配してくれたドレスは、とても美しく、高価なものだった。
この国のしきたりで、家から花嫁衣裳を着て登城することが決まりなのは、常識であり誰でも知っているはずなのに……。
その時、めったに開くことのない扉が開き、さすがに王家との結婚ということで支度に来てくれたのかと、その方へと視線を向けた時だった。
立っていたのはレオノーラ様とマリーネだった。嫌な予感しかしないが、私は表情を変えることなくふたりに視線を向けた。
「準備を手伝いに来てあげたのよ、お姉さま」
マリーネはクスッと笑い声をあげ、手をあげて後ろの侍女たちに合図を送る。
そこには、数名の侍女が手にドレスなどを持っているのが分かった。しかし――。
「どういうこと? 私のドレスはどこ? あれは王家が用意したものよ」
どう見ても安価で色あせたもので、色はかろうじて白いが、露出は高く、到底王家の結婚式に着るようなものではない。
「あんな素敵なもの、お姉さまに似合わないわ。あれは、私がアラン様と結婚する時の物なのよ」
どうしたらそんな妄想ができるのか理解しがたいが、本気でそう言っているようなマリーネに、目眩がする。
「そうよ、あれはあんたなんかの物じゃないのよ。マリーネが着る方がふさわしいわ」
レオノーラ様もそう言うと、後ろの侍女が私の方へと来て、無理やり部屋着を脱がす。
「そんなことをして、王家に不敬だとは思わないの?」
半ば強引に服を脱がされながら聞くと、マリーネはあざ笑うような表情を浮かべた。
「ちゃんと、お父様に王太子殿下に許可を取っていただいたわ。何でもいいとおっしゃったそうよ」
そういうことか、あの王太子殿下のことだ。ドレスなど、いや、相手など誰でもいい。そういうことだろう。すべては第二王子殿下の厚意でしかないのだから。
王太子殿下、つまり私の相手がいいと言えば、それは何も問題ないのだ。第二王子殿下の気遣いも、私を思いやる気持ちも、義兄としての立場も、そんなものはないに等しいのだ。
「わかりました」
どうせ、私はあの腐りきった悪魔のような男に酷くされ、子供を産むだけなのだ。王妃という肩書など何の意味も持たない。
この数か月、第二王子殿下との時間を持てたことは、唯一私に神様がくれた時間だったのかもしれない。
案の定、私の身体に合うわけもない古びたドレスを着せられ、隣にはまるで自分が主役だというようなマリーネ、そして着飾ったレオノーラ様、不機嫌そうな父。
王城へと続く石畳の道を、馬車はゆっくりと進んでいった。
窓の外に見える白亜の城壁は、朝の陽光を受けて淡く輝いている。幾重にも重なる塔と、天へ向かうように鋭く伸びた尖塔。その壮麗な姿は、遠くから見れば神々しいほど美しいというのに、近づくにつれて胸の奥が重く沈んでいくような感覚だけが、静かに広がっていった。
王城――。
この国の中心であり、王族と限られた者だけが立つことを許される場所。
幼い頃から何度も目にしてきたはずなのに、今日ほどその存在を遠く感じたことはなかった。
巨大な城門の前には、すでに近衛騎士たちが整列している。磨き上げられた銀の鎧が朝日に反射し、まるで冷たい刃のような光を放っていた。
本来であれば、王太子の婚礼など、国を挙げて祝福されるべき慶事のはずだった。
楽団が並び、貴族たちが祝辞を述べ、華やかな花々が城内を彩る――そんな光景になっていても、おかしくはない。
けれど、現実は違う。
そこにあるのは、ただ静かで張り詰めた空気だけだった。
祝福の気配など、どこにもない。
やがて馬車が止まり、御者によって扉が開かれる。
私は小さく息を整えると、裾を踏まないよう注意しながら、静かに地面へ降り立った。
その瞬間だった。
「――リリアーナ嬢……?」
掠れたような声が聞こえ、私は反射的に顔を上げる。
階段の上に立っていた第二王子殿下――アラン殿下が、こちらを見つめたまま目を見開いていた。
普段の彼は滅多に感情を表に出さない。いつも穏やかで、どこか余裕を感じさせる微笑みを浮かべている人だ。
だからこそ、その表情に浮かんだ驚愕は、隠しようもないほど鮮明だった。
視線は、私の顔ではなく、そのままゆっくりと全身へ落ちていく。
あれだけ念入りに用意してくれたドレスはどうしたのだ? そんな疑問が一瞬浮かんだようだが、すぐに隣の義妹へ視線を向けた。
その視線をマリーネは、自分へ賛辞が送られると思ったのだろう。媚びたような視線で、うやうやしくカーテシーを行う。
父もアラン殿下ににこやかに微笑んだ。私には腐りきった王太子をあてがい、アラン殿下にはマリーネを――と考えているのは一目瞭然だ。
確かに、いつかアラン殿下が国王になる可能性は低くない。父や継母が考えていることなど、手に取るように分かった。
しかし次の瞬間。
「こちらが用意したドレスはどうした?」
低く怒りをたたえた声に、父たちは一瞬びくりと肩を揺らした。まさか、そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。
「あれは……お姉さまが。そう、お姉さまが管理をきちんとできなくて汚してしまったのです」
マリーネが、いかにも本当のことのようにそう言い放った。
「そんなことより、アラン様、私のドレス……」
マリーネがアラン殿下に近づいた瞬間、「王家を何と思っているのだ?」と、低くアラン殿下の声が響いた。
「そうですよね、お姉さま、早くお詫びを……」
マリーネの言葉に、私は唖然としてしまう。
汚してなどいないし、ドレスはきちんとある。それなのに、私に恥をかかせるためにこの姿にしたのではないか。
でも、これが王家に対する不敬だということに行きつかないのは、実の両親と義妹ながら、あまりにもお粗末だ。
そう思っていた時だった。
「別に構わないだろう」
空気そのものを切り裂くような、冷えた声が響いた。その場にいた誰もが、息を呑む。
私はゆっくりとその声の方に視線を向けた。
長い階段の最上段。そこに立っていた男は、漆黒の礼装に身を包んでいた。
王太子、レオンハルト殿下。
王族らしい整った容姿と、生まれながらに人を従わせるような威圧感があるが、今日もすでに酒を飲んでいるのか、少し頬が赤い。
彼は階段の上から私を見下ろしたまま、興味なさそうに言葉を続けた。
「どうせ形式だけの婚姻だ。着飾る必要などない」
その瞬間、空気が凍りついた。
アラン殿下が眉を寄せる。
「兄上、それは……」
「何を怒っている?」
王太子殿下は、心底面倒そうに弟を見た。
「女ひとりの衣装程度で騒ぐ必要がどこにある」
淡々とした声音だった。そこには、私という妻になる存在に対する関心すら感じられない。
まるで、道具の状態を確認しているだけのような冷たさだった。
「それとも」
ゆっくりと、彼の視線がこちらへ向けられる。その瞳に浮かんでいたのは、明確な嫌悪だった。
「お前は、自分が祝福されるような立場だとでも思っていたのか?」
胸の奥が、静かに冷えていく。
後ろでは、マリーネが小さく笑っていた。レオノーラ様も満足げに口元を歪めている。
これぐらいのこと、理解はしていたつもりだった。この婚姻に夢を見てはいけないことくらい。
でも、この数か月、第二王子殿下は優しくしてくれた。その失望にも似た色の瞳を、もう見ることはできなかった。
謝罪をするべきなのか、悪いことはしていないと自分を誇るべきなのか。そんなことはわからない。
でも、これまでアラン殿下がしてくれたことを無視した事実が、ジクジクと私をむしばんでいった。
「始めるぞ。時間の無駄だ」
それだけ言い残し、彼は背を向ける。
長い黒のマントが翻り、その後ろ姿を皆が追う。
私はその背中を見つめながら、そっと指先を握り締めた。




