第十話 忍ぶ
「入れ」と言われて、入らないわけにはいかない。
侍女が扉を開くと、冷たい空気とともに静寂が広がった。
私は深く息を吸い込み、扉の向こうにいるはずの人へ膝を折り、頭を下げる。
「面を上げて」
穏やかで、よく通る声だった。
その響きに導かれるように、私はゆっくりと姿勢を正す。
視線を上げた先――そこに立っていたのは、やはり、あの第二王子殿下。
整った顔立ちは凛としていて、余計な感情の一片も読み取れない。
「驚かせてしまったようだな」
低く落ち着いた声が、静まり返った空間に響く。
「本来であれば兄が説明すべきことだが、体調が優れぬため、代わりに私が任を受けた」
体調が悪い―などは体裁を整えるためのものだとわかる。
「かしこまりました」
王太子殿下と会うよりは、どれほどありがたいだろう。そう思っていると、殿下は静かに口を開いた。
「国王陛下より、婚儀の日取りと今後の式の段取りについて、侯爵家へ伝えておくよう命じられた」
その言葉に、胸の奥がわずかに締めつけられる。
婚儀――つまり、あの王太子殿下との結婚が、正式に進められるということ。
「式は来月初めの予定だ」
殿下の言葉は淡々としていた。けれど、どこかにわずかなためらいが見える気がする。それにしても来月の初めなど準備もなにもするつもりはないだろう――。
「……承知いたしました」
深く頭を下げるしかなく、私は心の中で小さく息を吐く。
どんな思いを抱こうとも、拒むことなど許されはしない。それが、この国の令嬢としての宿命なのだから。
そこまで話を聞いたときだった。
「侯爵令嬢、座ってくれ」
アラン殿下は机の上に積まれた書類を整え、ゆっくりと立ち上がった。
そして、私の目の前に腰を下ろすと、深い蒼の瞳をこちらへと向けた。その仕草は威圧的なものではないように見えた。
「親戚になるのだ。少し話をしてもよいか?」
穏やかな口調に、「もちろんです」そう私は小さくうなずいた。
先ほどまでの少し緊張したような空気がやわらいだ気がする。
「先日、侯爵家に伺ったとき見た女性は、妹君だったか?」
「はい。母は違いますので、義妹になります」
そう答えると、殿下は小さくうなずき、何かを納得したようにわずかに目を細めた。
「それで、あなたが王妃候補に選ばれたわけだな」
その声音には、どこかにため息のような響きが混ざっていた。
「それが義妹には、面白くはないのだと思います」
気づけば、胸の奥に沈めていた本音が零れ落ちていた。しまったと思い、唇を噛むと、殿下は軽く手を叩いた。
お茶を運んできた侍女が一礼し、音もなく部屋を下がる。
「これで誰もいない」
静かにそう告げる殿下の声に、思わず背筋が伸びた。
人払いが済んだという意味なのだろう。だが、それ以上に、これから語られる言葉が“本音”であると告げられたような気がした。
「今回の婚儀は、政略的なものだ。聖なる力の血筋を王家に――という陛下のご意向でな」
殿下の声は淡々としていたが、その奥には微かな苦みのようなものを感じた。
「……はい、承知しております」
私はただ静かにうなずく。
「だが、俺はその考えには反対だった」
「え……?」
思わず顔を上げると、まっすぐな視線が私を射抜いた。
「聖なる血に頼らずとも、王家の力と意志で民を守るべきだ。そう、陛下にも兄にも何度も進言してきた」
それは苦しそうにも聞こえる声で、私はキュッと息を呑む。
「それはご立派なお考えだと思います。私も、そのような国になるといいと思っております」
心からの言葉だった。私だってあの町の状況を、いつ生まれるかもわからない聖なる血の子供にかけるなど、バカげているとしか思えない。
殿下はわずかに目を伏せ、静かに息を吐く。
「だが――俺の力が及ばぬせいで、君を犠牲にしてしまっている。申し訳ない」
その言葉に胸の奥が熱くなり、私は思わず首を振った。
「第二王子殿下のせいではございません」
「……ありがとう」
そのひとことが、静かな空間に溶けていった。
それから、婚儀の日取りや式の段取りが淡々と告げられた。
「式はおそらく、簡略なものになるだろう」
「承知いたしました……王太子殿下が出席されるかどうかも分かりませんものね」
つい、対面の時の様子を思い出してしまい、皮肉を含んだ言葉が口をついて出てしまってハッとする。
しかし、殿下が小さく笑ったのを見て、安堵する。
「そうだな、今の兄上ならば可能性はないとはいえないな……」
さらに申し訳なさそうに言う殿下に、私は人払いもしていることだしと、口を開いた。
「私としましては、その場に愛妾たちがいらっしゃらないことを、願うのみです」
そう言って少し苦笑して見せると、殿下はポカンとした後、笑い声をあげた。
「まったくだ」
それ以上はなにも話さなかったが、お互いの瞳がぶつかって、私は少し視線をそらした。そんな時、殿下がふと問いかける。
「さきほど妹君の話が出たが……あなたへの態度は、いつもあのようなのか?」
「馬車の手配も迎えもありません。おそらく、ご想像の通りです」
自嘲気味に答えると、殿下は静かに息をついた。
「母が亡くなる前から屋敷にいた方で、継母を大切にしておられます。その娘は、さぞ可愛らしいのでしょう」
そう伝えると、殿下はしばし黙し、やがて低く呟いた。
「……それで、あの派手なドレスを?」
驚いて彼を見上げた。
「この間の寒そうな装いは、君の趣味ではなさそうだった」
「どうして、そう思われたのですか?」
「一緒にいれば、わかる。それに、今日は違う」
殿下の視線が、私の着ているドレスへと落ちた。
「母のものなんです。少し手直しをいたしました。今は、継母も義妹も……」
言いかけたところで、彼の視線が私の瞳へと戻る。
「……よく似合っている」
その穏やかなひと言に、胸の奥が熱くなった。
「式までの間、私が護衛を任じられている。何かあれば遠慮なく言ってくれ」
「恐れ多いことですが……感謝いたします」
私としても、あの、王太子に直接なにかを言うより、彼が間に入ってくれることがうれしかった。
それに、また彼に会えるーーー。
―――うれしい? また会える?
一瞬、ふと頭によぎった感情に、自分の感情が怖くなり、背中に冷たい汗が滲んだ気がした。




