プロローグ
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久方ぶりに踏みしめる王城の石畳は、底冷えするように冷たく、その一歩一歩が、かつての記憶の重さを呼び起こすように思えた。
エリシア・ヴァルグレアは、擦り切れたマントの端を強く握り締めたまま、巨大な大扉の前で立ち尽くしていた。
五年前、この城を後にした日、もう二度と戻ることはないと誓ったはずだった。
だが、“聖なる力”を用いたという噂が民の間に広まり、ついには王からの召喚状が届けられた以上、それを無視して生き延びられるほど、この国は甘くはなかった。
いや、逃れる術はあったのかもしれない。だが、それによってリオン――最愛の息子の命や平穏を危険にさらすことだけは、決して許されることではなかった。
そのとき、重厚な音を立てて扉が開かれた。
「入れ」
低く放たれた衛兵の声に背を押されるようにして、エリシアは足を一歩、城の中へと踏み出した。
王城の謁見の間。
その中心には、見覚えのある金髪の男が立っていた。
ギルベルト・リュゼリア。
第一王子にして、かつてエリシアが形式上“夫”として迎え入れられた男である。
その傍らには、神官や魔導師たちがずらりと並び、まるで異邦の獣を見るかのような視線を、彼女に注いでいた。
「……ほう。我が元妃殿が、今さらこの王城に舞い戻ってくるとはな」
ギルベルトの声には、皮肉混じりの笑みと、どこか冷ややかな嘲りが滲んでいた。
「国が危機に瀕している今となっては、お前の“力”が役立つことは否定できん。……側室として戻るというのであれば、考えてやらんこともない」
広間の空気が一瞬にして凍りつき、誰もがその言葉の余韻に息を呑んだ。
エリシアは、口を開くことができなかった。
その言葉一つで、自分とリオン――誰にも知られずひっそりと暮らしてきた息子の穏やかな日常が壊される可能性があるからだ。
そのときだった。
謁見の間の奥から、重く響く軍靴の足音が近づいてきた。
床を引きずるように流れる長いマントの裾が、石の床をかすめる。
エリシアは反射的に振り返った。
――忘れたことなど、一度もなかった。
あの冬の山小屋で、深い傷を負った彼に手を差し伸べた日。
小さな灯りのもとで交わした、ためらいがちな口づけ。
そして、誰にも知られぬまま迎えた別れの朝。まだ残る彼の温もりを、彼女の胸は今もはっきりと覚えている。
「……アルヴェイン様……」
自然と唇から、その名がこぼれ落ちた。
銀の髪に、鋭く冴えた翠の瞳――
それは間違いなく、彼女が一度は愛し、すべてを預けた男、第二王子アルヴェイン・リュゼリアであった。
だが、再会の喜びが訪れることはなかった。
彼は冷ややかな視線でエリシアを見下ろし、わずかに唇の端を歪める。
「このような女が……本当に国を救えるとお思いですか、兄上」
その言葉が、まるで刃となって彼女の胸を刺し貫いた。
違う――そんなはずはない。
彼はもっと優しく、温かく、思慮深い人だった。
けれど、彼の目に宿るのは、もはや過去の面影ではなく、ただの一市民を見るかのような無関心と軽蔑の色でしかなかった。
――憎まれている。
その事実だけは、痛いほどに伝わってくる。
(知られてはいけない……彼こそがリオンの父親……でも、私は彼を裏切った女……)
身分も立場も違い、誰にも明かすことなく去ったあの日。
そして今、自分がその後、彼の“兄”と政略結婚したことが知られれば、それは彼にとって、誇りを深く傷つけることに違いない。
(……他人として過ごすしかない。息子を守るためにも、それが最善の選択……)
心にそう強く誓った瞬間、アルヴェインの眼差しが、一瞬だけ揺れたように見えた。
その奥に、どこか懐かしい影がよぎった気がしたのは、錯覚だったのだろうか。
けれど彼は、すぐにその感情を押し殺し、視線を静かに逸らした。
「彼女を“聖女”として認定し、城に留め置くことを提案する」
ギルベルトの声が広間に響き渡る。
それはすなわち、再び囚われる日々の始まりを意味していた。
次から本編です