おまじない
北の辺境へと近づくにつれ、ミーニャの薄いワンピースでは耐えられないほどに空気が冷えこみだす。
「ミーニャ、大丈夫か?」
「うん......ちょっと寒いだけ」
特に朝方はひどく、衰弱したミーニャにはもはや動くことも敵わない。
しかし、王都から各地へ派遣された狩猟隊、さらにはアグリネス侯爵家お抱えの騎士団が宿場町を巡回し、もう思うようには動けなくなっていた。
エイドは自分の外套を脱ぎ、彼女の肩に優しくかける。
「......ちょっとだけ、ましになった」
その微笑みも、エイドの心を締めつける。
「ミーニャすまない。想像よりもずっと、王は本気で君を欲しいらしい」
「......なんでエイドが謝るの? 私とあなたは対等なんだから、王国がどうしようとあなたに責任はないでしょ」
ミーニャに真っ直ぐ見つめられ、エイドは咄嗟に顔を背けた。
「そう......だな。強気で行こう」
旧帝国領に入れれば王国軍から手出しはできない。
エイドとミーニャは、フードを深く被り敵の蔓延る宿場町を足早に去る。
「あいつら、どこ行きやがった」
「どうせ逃げられるわけね〜のにな」
「女の獣、かなりの美人らしいぜ」
通り過ぎるすぐ横で、騎士たちが話していた。
ミーニャの指が、エイドの腰布を掴む力を強める。
「大丈夫だ」
――そう言えればよかったのだが、エイドには、それがあまりに安易な慰めだとわかっていた。
頼む......頼む......頼む......
すぐ横を通過する騎士たちと、目を合わせないよう通りすぎる。
「おい、貴様らどこの旅人だ」
エイドの額を、一筋のあぶら汗が滴った。
「北の辺境へと行きたくて」
話しかけてきた老騎士の盾には、大きく家紋が描かれている。
――それも、アグリネス家の家紋が。
老騎士がフードの中を覗き込み、エイドの鮮やかな緑色の瞳をじっと見つめる。
「北の辺境か。あなたも物好きだな。この先は狩猟隊が検問を張っている。町の南から森を経由して出るのがよい。......父への別れは済んだのかな、坊ちゃん」
その声色は、怒っているようにも心配しているようにも聞こえた。
金髪の老騎士――サガトスは、エイドとミーニャを交互に見て続ける。
「昔の御当主を見ているようです......ですので、私は止めません。しかし、旅立つからには必ず生き抜くのですよ」
エイドの胸板に、サガトスが拳を添えた。
「サガトス......ありがとう。お父様に感謝とお詫びを伝えておいてくれ」
そこでミーニャもサガトスに一瞥する。
「さあ旅人よ、まだまだ道半ば。気をつけていってらっしゃいませ」
エイドの肩を強く叩き、エイドの馬が南へ進路を取ったのを確認してサガトスは声を張り上げる。
「逃亡者を北で見た者がいる! エイド様は我が御当主様のご子息。狩猟隊ではなく、我らが拘束するぞ」
町の南部から山道へと出たエイドとミーニャは、宿場町の北部から上がる眩い炎と、胸を突き刺すような轟音が鳴り響くのをみた。
*
北の辺境。それは、人間の手を離れた人間にとって最も不毛な大地だった。
吹き荒ぶ風はテントも炎もすべてを薙ぎ払い、心の芯まで凍りつかせるほど冷たい。
しかし不思議と、ミーニャの顔色は良くなってきている。
「辛そうだよ......本当に大丈夫なの?」
「ははは、僕は大丈夫さ。それよりミーニャ、もうすぐで地図に載っていた川に――」
前方を指差すエイドの身体がぐらりと傾く。
きっと、ミーニャが腰を掴んでいなければ落馬していたほどに。
「エイド! しっかりして!」
ミーニャの呼びかけが、エイドにはものすごく遠くに感じられた。
脱力したエイドをミーニャは急いで馬から降ろす。
「少し休めば良くなるさ......だから、そんなに悲しい顔をしないでくれよ。ミーニャ」
エイドの視線を髪のカーテンで独り占めしたミーニャの瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
◆◆◆
ミーニャの膝の上で、エイドは少し安らいだ表情で寝ている。
たまに聞こえてくるうめき声。
その度に、ミーニャはエイドの頭をゆっくり撫でていた。
いつか、母がしてくれたように。
青紫色の唇に、そっと指を当ててみたりもした。
「ミー......ニャ。すまない」
時間が経てば経つほどエイドの声は弱く、掠れていく。ミーニャを見つめてくる緑色の瞳すら、光を失いかけている。
それなのに、エイドは震える手で起き上がった。
「ミーニャ。一緒に見た地図は、まだ覚えているかい?」
「うん。でも、どうしていまさら」
頬に、冷たいエイドの手が添えられる。
「ミーニャだけでも、本物の川の音を聴きに行ってくれ。そうしてくれれば、僕は――」
途切れ途切れな言葉を繋ぐエイドを、今度はミーニャが抱きしめる。
「そんなの許さない! あなたが......エイドが約束してくれた。『一緒に行こう』って。約束を守らないのは......許さないから」
もう、涙が止まることはない。
ミーニャの背中を、エイドが抱く。そして、自分からミーニャを引き剥がしてしまった。
「僕だって、約束を守りたいんだ。でもこのままじゃ僕も、ミーニャも、先に限界を迎えてしまう。それだけは......避けたい」
エイドは決して引き下がろうとしない。
手も、声も、瞳も、全部ぜんぶ震わせて弱々しいはずなのに、ミーニャが何も言えないような圧がエイドから出ている。
しかし。
エイドが元気になってくれればそれでいい。
一緒にいられれば、もうそれだけでいい。
大切な人を、これ以上失いたくない。
「ミーニャ。わかってくれ――」
エイドはミーニャに諦めて欲しいような、そんな口ぶり。でも、ここまで一緒に旅をしてきて、一度は命を諦めていたミーニャを助けてくれたのは、紛れもなくエイドだ。
命の恩人でもあり、今やミーニャにとってかけがえのない存在。
はじめは、触れるか触れないかの口付け。
守られてばかりでは一生エイドに追いつけない。真の対等にはなれない。
そして今度は、深い、お互いの熱を感じずにはいられない口付け。
『ミーニャ。貴女が本当に大切な誰かと、ずっとずっっと一緒にいたい時、この魔法をするのよ』
幼い頃に母から教わった、エルフにとって最大の魔法だった。
◇◇◇