対話
目を覚ますと、全身を痛みと震えが襲う。冷たい石造りの床に、着の身着のまま横たわっていたのだ。
やけに高い天井と、格子状の扉。
見上げれば月明りがはるか上にある窓から差し込んでいる。
森に力があった頃の彼女なら、この牢の扉でも壁でも魔術で破壊することができたのかもしれない。
しかし、それをするにはあまりにも人間の欲望に触れすぎてしまっていた。
そこへ足音が2つ。
「お前、なぜ黙っていた!」
「違うのです。あの娘は単なる獣ではない。......エルフなのです。それも、記録ではもうとっくに絶滅したはずの!」
冷たい年老いた声と、熱を帯びた若い、森で聞いた最後の声。
「だから何だ。国王陛下へ良い献上品となるではないか。一族の立場を、より強固とする良い材料なのだぞ」
「しかし......陛下はきっと彼女を見せ物にしてしまいます。さすればエルフはもう......であるから、我々が保護をするべきと思うのです」
ミーニャからすれば、なんとも自分勝手な、人間の考えそうなことだと思った。
扉から、2つの陰が牢の中へ入り込む。
「保護だと? 笑わせるな。大切な金を、なぜドブに捨てるような行為をしなければならない」
「しかし――」
バチン。
鈍い音だった。そして、片方の足音がどこかへと去っていく。
「......すまない。僕が、狩りをしなければ」
悔しそうな声色も、言っている言葉も、全部全部人間の都合で身勝手だ。
エルフは、人間のおもちゃじゃない。
冷たい床に、生きていくための熱を奪われる。
いっそ、このまま目覚めなければいいのに――
◇◇◇
エイドと内政官の話し合いは、日が昇ってもなお続いていた。
「ですから、御当主様のご要望に応えるのが次期当主として今するべきことかと」
「関係ない! とにかく、エルフはしばらく屋敷で保護する」
永遠と同じ問答の繰り返し。
「わ、わかりました。健康状態の確認という名目で御当主様にはお伝えします......」
疲弊し切った内政官たちは久々に見るエイドの気迫に押され、とうとう7日間の保護を許可してしまった。
勝ち取ってしまえばこちらのもの。
エイドはすぐさま古い文献をあさり、屋敷の中庭から人工物をすべて薙ぎ払い、『黒の森』から土と植物を運ばせ川を作り込み、森の生態系を3日足らずで完成させてしまった。
無論、中庭の見える窓やドアは全て塞いだ。
その間、毎食エルフにさまざまな食事を与え好みを探り、ドレスを与え、女,子どもを牢に入れて会話も試みた。
しかし、すべて失敗。
エルフは捕まえた時に来ていた白いワンピースを脱がなかったし、食事にはほぼ手をつけなかった。さらに、同じ空間に入ると妙な悪寒に苛まれたと、皆逃げ出してしまう。
だが、中庭が完成すれば少しは状況が変わるはず。
エイドはそれだけを支えに、エルフの眠る牢の前でひとり拳を握る。
翌朝、エイドは看守2名と複数のメイドを連れて牢の鍵を開けさせた。
切れ目な水色の瞳でこちらを睨むエルフを、少々強引に中庭へと連れていく。
完成した中庭を見せた時、彼女は泣いた。
だが、それは決して喜びの涙ではなかった。
「偽物」
かすれた声で、吐き捨てるように。
「これは森じゃない……こんな……こんな、作り物……!」
エルフの少女は森の中へ入らなかった。逆に後ずさり、壁際に背を向ける。
「なぜ……君のために作ったんだ」
「勝手に!」
エイドの胸を拳で叩きつけながら、エルフの少女は叫んだ。
その細く痩せこけた身体から、これほどの怒りが噴き出すとは思ってもいなかった。
「人間の作ったものなんて、森じゃない! こんな、こんな酷いことをして......」
彼女は、あふれる涙をそのまま袖で拭った。
泥まみれの手で、顔を隠す。
「どうして……どうして、私たちから全部奪ったくせに、まだ飽き足りないの……?!」
エイドは、何も言い返せなかった。
自分のしてきたことが、どれだけ彼女にとって暴力でしかなかったのか、ようやく思い知らされたのだ。
自分のしていたことは、結局、彼女に理想を押しつけて、満足しようとしていただけだのだ。
「すまない……」
呟くように言った言葉すら、少女には届いていなかった。
彼女はただ、エイドの前でうずくまり、眠ってしまうまで静かに震えながら泣き続けた。
*
2日が過ぎた。
エルフの少女は中庭にも、屋敷にも、一歩も出ずに牢の隅で丸くなって動こうとしない。
食事は、差し出せば最低限だけ口にする。
しかしその瞳は深い霧に覆われ、誰も、何も、映そうとしなかった。
エイドはそんな少女に近づくこともできず、遠巻きに見守るだけしかできない。
ことの顛末を知った内政官や父からの嫌味は日を追うごとに強くなり、一緒に狩りをしていた従者たちからも蔑ろに扱われる。
無力感だけが、エイドの胸を支配していた。
「ではエイド。予定通り、2日後にあのエルフを国王へ贈呈するためここを発つ。お前が捕まえてきたのだ、せめてお前の名誉にするがよい」
「はい。お父様」
空虚な作り物の森を、じっと眺める。
自分には何もできない。何もしてあげれない。
夜露が降り、人工的な空気も少しだけ冷たく感じる。
その夜、彼は静かにエルフの少女のもとを訪れた。
少女は目を閉じ、まるで呼吸していないかのように横たわっていた。
死の気配さえ、漂っているようだった。
「……君は本当に、いなくなってしまうのか」
返事はない。
けれど、エイドは続ける。
「君は……名前を持ってるんだろう?」
その言葉に、ほんの僅かに少女の睫毛が震えた。エイドはその小さな変化を、見逃さなかった。
「獣でもない、エルフでもない。君自身の名前が、あるはずだ。せめて、教えてはくれないか?」
少女の唇がかすかに開く。
「……ミーニャ」
か細い、けれど確かに自分を名乗る声。
エイドは、その名を口の中で何度も繰り返した。
「ミーニャ……ミーニャ」
その音は、森で聞いた歌声のように優しかった。ミーニャと名乗った少女は、僅かに瞳を開き、エイドを見た。
「人間が……私の名前を呼ぶのは嫌い」
そう言いながらも彼女の目の奥には、微かな迷いが滲んでいた。
エイドはその迷いに、すがるような気持ちで言った。
「君の名前を忘れたくない。君が君のままでいられるように、僕に……そう呼ばせてほしい」
ミーニャは、しばらく黙っていた。
「……勝手に呼べばいい。私は、聞こえないふりをするだけ」
自然と、笑みが溢れる。
それは、少女から彼に向けて初めての拒絶ではない言葉だった。
たとえ、心を開いてくれなくても。
彼女が、彼を、エイドという一人の人間として意識した。その小さな一歩が、彼には何よりの希望であり、次の行動をする最後の動力源となった。