始まりの場所
少年のある日。エイドは唇を噛み、震える体を力で抑えていた。
鬱蒼とした森を走り、荒い砂利を車輪が蹴る音だけが馬車の車内に響く。
黒髪の少年の横には筋肉質な父親が腕を組んで座っているだけ。男はただただ前を向いて、エイドの様子をチラリとも見ようとはしない。
大きく揺れる車体に合わせてエイドの小さな体は何度も飛びはねる。
腕の中に抱えこんだ画材のひとつが、勢いよく飛び出した。
「エイド。着いたぞ」
いつもの平坦な口調で目を開け外を見ると、森の中、おいしげる木々に囲まれた小さな広場に車列は止まっている。
父親が馬車を降り、エイドは画材を拾い上げて続いた。
少しぬかるんだ地面に足をつく。子供にしては大きいエイドの、何倍もある木々と枝の間から見える群青の空。
鼻から入ってくる空気が体を冷やし、足取りを安定させる。先の見えない木々の隙間に木漏れ日が何本も差し込んでいた。
切り倒された木に腰掛け、画材を広げる。
後ろの方からは大人たちがみっともない声をあげて、それぞれこの自然の中での一時を楽しんでいるらしい。
キャンバスを前に鼻から大きく息を吸う。
自然と目が閉じて、耳から川の流れる優しい音や鳥の鳴き声が聞こえてきた。
......鼻歌?
軽快で楽しそうな女性の歌声。
パッと目を開けて聞こえてきた方向をじっと見てみる。
いた。
白いワンピースを着た女性。
エイドの後ろ――父親や騎士たちの方を鋭い水色の瞳で観察している。木の後ろから覗き込んでいるつもりなのだろうけど、まだ幼さの残る美しい顔と特徴的な尖った耳、白金色の長い髪が全て見えていた。
その様子を、しばらく見入っていたエイドは手早くキャンバスに映していく。
木漏れ日と、森の深い緑色と、白いワンピースの女性。
真っ白だったキャンバスが華やぎ、ひとつの世界を切り取った。
「おいエイド、エイド。気は済んだか? 夜になる前に帰るぞ」
父の声で、我に返った。すでに白いワンピースの女性はいない。
「お父様! 見てください! 森の中に女性がいたのです!」
まだ乾いていないキャンバスを父に見せたが、父は「そうか」と冷めた表情で馬車の方へと歩いて行ってしまった。
「お、坊ちゃん今日もいい絵ができましたね」
ボサボサ金髪の老騎士、サガトスがにこにこと笑顔でエイドのもとへやってくる。
「うんうん、さすがは坊ちゃん。レミニ様が見たらさぞ......いえ、お! もしかしてこの女性はエルフではないですか。物知りですね」
キャンバスの中の女性に指を差し触れようとしたサガトスから咄嗟に絵を遠のけ、エイドは聞いた。
「エルフ? この人はさっきあっちに居た女の人を描いただけだよ」
エイドの言葉に、騎士は頭を掻いている。
「いたって言っても坊ちゃん、エルフはもう絶滅して長いですよ」
「でも、さっき確かに――」
「お前ら! 早く来い!」
父の怒号に、鳥がいっせいに羽ばたく。エイドは急いで画材を仕舞い、馬車へと走って行った。
*
「遅いぞ! 早く来い!」
日差しを受け額に大粒のあぶら汗を浮かべた青年、エイド・アグリネス侯爵令息は深い森の小道を馬で駆け抜ける。
振り返ると、遅れをとっている数人の準騎士の姿が見えた。
軽く手綱を引いて速度を緩める。
そうすれば自然と開いた差は縮まる。それを確認して前を向いた。
目線の奥にはいつしかの広場。
無数の木漏れ日が照らすその先、青空の見える広場へとエイドは入る。
いつ来ても胸の中からすっと毒素が抜けるような、体が軽くなる感覚。
昔よりずっと広い広場の中心には小川から引いてきた池。貴族の庭園と同じようにベンチはもちろん綺麗に整えられた木々。管理人の小屋も多少立派なものが立っている。
父、ハインケル・アグリネス侯爵の始めた貿易業が軌道に乗ってからというもの、エイドは何かとお願いしてこの森の開拓を進めてきた。
幼い頃からの荘厳な雰囲気は崩すことなく、それでいて誰もが過ごしやすい場所。
あまりに過ごしやすいので、エイドは狩りの拠点として毎週のように通っている。
「エイド様。今日もお越しだったのですね」
「ああハリ爺。今日は熊を狩ろうと思っていたのだ」
ハリ爺と呼ばれた老庭師は伸びた白い顎髭を触り、うんうんと頷いて見せた。
「今日は風も穏やかです。きっとよい狩りになりますよ」
そう言い残し、小屋の中へ戻っていく。
エイドは追いついてきた従者たちを労い、『黒の森』と呼ばれる森の奥深くへ、足を進めるのだった。
◆◆◆
『黒の森』は今日も静かだった。
けれど、その静寂はどこかぎこちない。
木々のざわめきは弱々しく、かつて彼女が幼い頃に感じた森の力強さは、とうの昔に失われていた。
ミーニャは手のひらほどの小さな木の実を抱え、重たくなった腰をゆっくりと伸ばす。
ほんの数歩ごとに呼吸を整えなければ、身体の芯まで冷たさが染みこんでくる。
この森も、もう長くない……。
それを知っていながら、どこにも行けなかった。
エルフは美しい自然の中でしか生きられない。
それは誇りでもあり、呪いでもあった。
ポツリとひと粒、赤い実が地面に落ちた。
拾おうとしゃがんだその瞬間。
――風が止まった。
――空気が、濁った。
人間の気配。
足音、金属の擦れる音、馬の鳴き声。
森にとって異物でしかないそれらが、幾重にも重なり合い、遠くから近づいてくる。
ミーニャは息を止め、身を低くした。
だが、森とともに人間の欲望に侵された彼女の身体は、幼い日に森を駆け回っていた時のような瞬発力を失っていた。
そもそも、ここは開けた場所。逃げるには遅すぎた。
「エルフだ!」
野太い男の声が森に響いた。
ミーニャの心臓が跳ね上がる。言葉が理解できることが、なおさら彼女の恐怖を増した。
今も人間たちは、エルフを害獣のように扱うのだろうか。彼女たちの森を奪い、命を狩り、勝手に世界を作り変える存在。
草の間から駆け出そうとした時、影が飛びかかってきた。
「逃がすな! 傷はつけるなよ!」
強い腕に肩を押さえつけられ、ミーニャは地面に叩きつけられる。
顔を泥に押しつけられながら、彼女は絶望を感じた。
自然の中でしか生きられない自分が、人間たちの手で連れ去られたら――それは死と同義だ。
「珍しいな……まだ生きてるエルフがいたとは」
甲高い声とともに、馬に跨った貴族らしき男が見下ろしていた。
だが、その隣にいた若い男だけは、他の者たちとは違う目をしていた。
緑色の、優しさを湛えた瞳。
あの日の少年。
ミーニャはその顔を、恐怖と嫌悪を交えながら見上げた。
彼の目には、他の人間のような冷たさではなく、何かしらの痛みと戸惑いが浮かんでいる。
「……君は、あの時の……」
彼女が言葉を口にした瞬間、後ろの騎士たちがミーニャの頭に袋を被せた。
暗闇が広がる。
森の匂いも、風の感触も、すべてを奪われた。
ミーニャは、自分がもう二度と森を感じることはできないと、直感で理解した。
……嫌だ。せめて死ぬのなら、お母様たちと同じお墓に――
彼女の意識は、深い闇へと落ちていった。