序章 無数の小さな死から始まる世界崩壊
創作大賞2025用の投稿作品。
応募条件2万文字以上の執筆をするか否かは、漫画雑誌の不人気作品を打ち切るように、株で損切りするように、不評で儲けの少ない商品が店頭から姿を消すように、作品に対する評価と結果次第で判断します。
それはあまりに小さな命の異変から始まった。
ある日を境に世界の至る所で昆虫が、突如として不可解な死を遂げ始めたのだ。
まるで何かに導かれるように一斉に集まり、越冬するため身を寄せ合うように堆積し、そして息絶える。
前代未聞の怪現象は、決して偶然でも、病でもなかった。
誰も理由を知らなかったが学者たちはそれが〝世界樹〟から産まれ、世界に散っていた虫たちが、まるで故郷に還るように始まりの地へ〝回帰〟しているのだと悟った。
そして実際に人類が空を覆い尽くす黒雲のように、数十億、否、数兆もの膨大な数の昆虫が世界樹を目指して飛び立つ光景を人々が目の当たりにした瞬間から、文明は音を立てて崩壊していく……
受粉の途絶により植物は枯れ、作物は実らず、小動物や鳥類、河川の魚類は連鎖的に姿を消した。
養蜂、養蚕といった産業も機能を失い、食糧と衣服の確保の手段が減る。
やがて屍肉や糞を貪る分解者までもが全滅。
死骸や糞の掃除屋がいなくなった世界には、腐敗が積み重なり、山のような死と耐え難い悪臭があらゆる地平を覆っていった。
ついには飢えた人間は数少ない食糧を巡り、戦争が勃発。
際限なく同胞を殺すようになった。
生きる糧と暗黒が広がる明日を得るために、人類が長年をかけて築いた、かつての倫理や秩序は意味を失う。
終末への坂道を転げ落ちていき、やがて虫の求愛も、鳥の意思疎通も、小動物の営みも、最後には人の声さえも聞こえなくなった。
残されたのは絶望に満ちた静寂―――それは心が安らぐような沈黙ではなく、滅びを予感させる不気味な凪だった。
十数年前にて
のどかな緑がどこまでも続く荘園。
土色の瞳を宿したそばかすの少年は、せっせと乾いた土にめがけ、鍬を振るっていた。
近くにいた母親は草を毟り、幼い妹は畑仕事を遊びだと勘違いしているのか、きゃっきゃと葉についた虫に双眸を輝かせる。
照りつける日差しにふぅと息をつき、玉のような汗を拭うと白肌が泥に塗れた。
汗ばんだシャツはぴたりと体に張りつき、少年は早く取り替えたかった。
青空を見上げた少年が休憩しようかと考えていた折、父親が
「用を足したらすぐ戻る」
と告げてから、もう随分と時間が経っているのに気がつく。
不安に駆られた少年は、母と妹と共に辺りを探し始めた。
……納屋、牛舎、井戸、どこにも姿がなかった。
そして飼料小屋の扉を開けた瞬間、少年の時間が止まった。
……天井の梁から垂れた縄、ぶら下がった人影、足場から浮いて風に揺れる体、滴る血。
尻の穴から飛び出た腸は、まるで獣の尾のように伸びていた。
「うわあああああああっ……!」
絶叫と共に、青年は目を覚ます。
寝汗に濡れた飛び起きたゲオルグ・ボンデは、しばし天井を見上げて息を整えた。
今でも脳裏に焼きついた悪夢は、心に深く根を張っていた。
狭苦しいテントにうずくまる彼に、心配そうな眼差しが向けられる。
獣の耳を持つ獣人、翼を持った鳥人、透き通る耳をしたエルフ、髭をたくわえた酒樽の腹のドワーフ、黒い肌の人間……
かつては互いに忌避と差別をし、いがみあっていた彼らが今では仲間だった。
民族や種族、主義主張など、もはや些末な問題だ。
皮肉にも終末が迫り、〝生き延びる〟という共通の目的を持ってから、人間と亜人は垣根を越えて連帯したのであった。
「……心配どうもありがとう。僕は大丈夫だよ」
無事に朝を迎えた一行に配給された食事は、成人した人間の腹を満たすには足りない、干し魚1尾。
しかし誰も文句は漏らさない、むしろ食事にありつけるだけマシだからだ。
ほのかに磯の香りが漂う干物をゲオルグはゆっくり噛みしめ、胃袋の空腹を誤魔化す。
人類は限られた海洋資源を頼りに暮らし、すべての発端である世界樹に世界崩壊の真実を問うべく、調査隊を向かわせた。
昆虫の消失、食糧の壊滅、農業も不可能の現在。
かつて農家として生きるはずだったゲオルグも今は冒険者を名乗る1人で、サルワトルの一員だ。
テントを出ると荒野には空に浮かぶ雲を貫き、緑なき大地にそびえる世界樹―――かつて世界に命を芽吹かせたとされる根元へ、サルワトル一行は急いだ。
世界樹は通常の植物とは異なり、昆虫に受粉に頼らず、光合成や水なども要せず、さらには精霊の加護も不必要な不可思議な力で、生命を維持する可能性がある。
そしてその力は人類の生存に繋がるかもしれないと。
学者の指示により、彼らは根の周囲に溜まった土を掘り始めた。
根は地中深く伸び、側根でさえ岩を彷彿とさせるほど硬く、時に意志を持つかのようにスコップを拒み、容易な作業ではなかった。
数日をかけて掘り進めたある時、地面に空洞を見つけた。
これは生物の巣穴なのだろうか?
ゲオルグが我先にとその空洞に頭を突っ込むと―――土の中で、まるで胎児のように身を丸めて眠る者がいた。
金髪に尖った耳、花弁の襟飾りのある葉の衣、鮮やかな蝶の羽根。
蔓と木の根が絡まった彼女は、どうみても人ではなかった。
しかしゲオルグは見惚れ、暫くそのまま彼女を眺めていた。
何も発さない彼が穴から引き剥がされ、中に何があるのかと仲間が覗き
「精霊……?」
「いや、妖精か……? 妖精が冬眠するなんて話、聞いたことがねぇが……」
滅びゆく世界の中に見つかった、美しき奇跡。
一行は歓喜し、大地の中で発見された未知の生命を瑞兆と信じた。
――だがその精霊こそが、世界の終焉を握る鍵となるとは誰も知る由もなかった。