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悪魔の憐憫

作者: ネルノスキ

 きっと俺は何かを間違えているんだ。

 馬鹿げている。何かがおかしい。こんなはずはない。


 ——ただ生きているだけのことが、こんなに辛いはずがない。


 仕事はそれほど順調ってわけでもないが、胃が痛むほどストレスフルだったり、休みも取れないような激務なんてこともない。

 俺はそもそも独り身だから、経済的には充分に余裕がある。金には困っていない。

 人間関係はぼちぼちだ。これといった問題はない。

 両親は早くに他界しているから、介護やらその他諸々の面倒ごとも免除されている。気楽なもんだ。

 身体のほうだって健康そのものだ。

 

 こうして一つ一つ精査してみても、やはり俺には何一つとして不満などないはずなのだ。

 それなのに、毎日毎日実体のない苦痛に苛まれ、苦しんでいる。

 腕や脚を失った人間が、その部位に痛みを覚える幻肢症というものがあるそうだが、俺は生まれつきどこかが欠損しているのかもしれない。その幻の器官を、どこかで野犬かなにかがガリガリと齧っているに違いない。患部がそもそも存在しないのだから、守ることも治療することもできないじゃないか。


 治療といえば、もちろん精神科医にだって罹ったよ。

 これは鬱病やそれに類する病気の症状なんじゃないかと、ある意味蜘蛛の糸を手繰るような気持ちで縋りついた。既知外と呼んでもらって構わない。だから助けてくれ、と。

 その、いやに血色の良い若い医師は、幼稚園児をあやすような口調で「だいぶストレスが溜まっているようですね」なんて抜かしやがった。

 馬鹿か。そんなことは分かりきっている。そういう次元の話を俺はしていない——なんて一から説明する気力などあるはずもなく、俺はピカピカと明るく清潔なクリニックから退散した。


 グダグダ言っているくらいならばさっさと死んでしまえばいい。

 あんたはそろそろうんざりしてそう思っただろう。そりゃそうだ。こんな恨み言……いや、恨みですらない空虚な愚痴、聞かされる方は堪ったもんじゃない。

 もちろん俺がそうしようと思わないはずがないだろう。何年間もこの事態の当事者であった俺が。

 けれど、俺には生きる理由が無いのと同じぐらい、死ぬ理由だって無いのだ。つまり現状、俺はただ待っている。幸運にも突然訪れる不幸を、もしくは俺自身が耐えられなくなりホームセンターでロープを買うその日を。

 そう。唯一の救いは、この苦しみには終わりがあるということなんだ。



 ある休日のこと、目が覚めた俺は半開きの目を擦りスマホの画面を見た。

 メールの着信通知。

『このポイント有効期限が近ずいてます!! 10,000ポイント(10,000円分相当)が本日23時で失効したします』

 差出人は『カスタマーセンター』。

 この手の詐欺メールは大抵日本語が不自由だからまだ可愛げがある。最近はどんどん巧妙になっているから、いずれこんな呑気なことも言っていられなくなるのだろうが……

 普段ならもちろんすぐに削除するんだが、そんなことを考えていたら本文の方にも少し興味が湧いてきて、俺はそのメールを開いてみた。

 どうせ怪しげなURLのリンクでも貼られているんだろうとたかを括っていたんだが、どうも様子が違っていた。

 画面の中央に表示されたのは、四重の円。中心には六芒星。散りばめられた幾何学模様と、得体の知れない記号。

 ——魔法陣?

『困った方はここまで安心に無料でご相談できます!』という、だいぶ怪しい日本語に続いて、URLではなくカタカナの羅列が表示されている。これが悪魔を召喚する呪文ってわけか。なるほど、最近はこういう好奇心を刺激するタイプの詐欺メールもあるのか。

 しかし肝心のリンクが貼られていない。これじゃあフィッシング詐欺になっていないじゃないか。随分と間抜けな業者だ。

「エル・プレコ・ケセドメメセス・ラビロガナーラヤ」

 声に出して読んでみる。

 もういっそ悪魔でも構わなかった。この苦しみから解放してくれるんなら、別に誰でも、どうでもいい。

 魔法陣が怪しく輝いて、画面から羊頭の悪魔がにょきょきと登場する……なんてことはもちろん無く、静寂の中、近所の公園で遊ぶ子どもの声だけが聞こえる。

 ため息も出ない。何をやってるんだ、俺は。

 とにかく水でも飲もうと、寝室を出てダイニングへ向かったタイミングでインターホンが鳴った。

 何か通販でも頼んでいたか? 思い出そうとしながら室内のモニターを見る。

 くたびれたダークグレーのスーツ姿に眼鏡の、痩せた男が神妙な面持ちで立っている。勧誘か何かだろうと放っておくと、その男はドアをノックして「吉澤様」と俺の名前を呼んだ。

 表札は出していない。

 警察関係者には見えないし、役所の人間か? 不動産屋か? どちらにしろ日曜の朝っぱらから訪ねて来られるような心当たりは無いが。

 俺はそのまま玄関に向かい、ドアを開けた。


 俺の顔を見ると、男はにこにこと愛想笑いを浮かべて、

「ああどうも、吉澤様。本日は何かお困りなことでも?」

 開口一番でそう言った。

 明らかに俺のことを知っている様子だが、俺の方はこいつにまるで見覚えが無い。

「……ええと、すいません。どなた?」

 恐る恐る訊いてみると、男は目を丸くして、

「ああ、これはうっかり! そういえばご挨拶がまだでしたね」

 苦笑しながら、内ポケットからケースを取り出し、うやうやしく名刺を差し出す。


 ゴエティア・サポート

 CS部 神奈川センター ケアマネジャー

 四級悪魔 菊池俊明


「……四級悪魔?」

「ええ、ええ。本年度からこの地区の担当になりました菊池と申します。等級こそ四級ですが、仕事の方は前任の広岡から叩き込まれておりますので、ご安心を」

「いや、等級とやらはどうでもいいんだけど。悪魔?」

 俺の言葉に、菊池は大袈裟に頷いた。

「はい、はい。悪魔でごさいます。先ほどご召喚いただいたそうで」

 いや、確かにスマホの画面の魔法陣の前で呪文らしきものは読み上げたが……そんなにお手軽なのか、今は。

 まあ、そんなことはいい。

「ってことは、召喚した人間の願いを聞いてくれるのか?」

「ご成約ということになれば。もちろんそれなりの対価は頂戴いたしますが……」

 ついに来た、と思った。

 これこそ俺の人生の決着に相応しい。

 目の前の菊池の営業スマイルを眺めながら、俺は自分自身をなんとか落ち着けようと苦心した。

「じゃあ、頼む。全部終わらせてくれ。生きていることが辛くて仕方がないんだ」

 その俺の言葉に、菊池は眉根を寄せてさも残念そうな表情を作って答えた。

「いやいや、吉澤様。さすがにそういったご要望にはお応えいたしかねます」

「悪魔なら人間一人消すぐらいわけないだろう? そうか、対価か。地獄に落とされるのか? 構わない。ここから抜け出せるんなら、地獄でもどこでも」

 俺は菊池に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。せっかく訪れた千載一遇の機会なのだ。これを逃せば、またあの日常を繰り返す羽目になる。

「……そうでしたか。覚えていらっしゃらないのですね」

 菊池は俺に憐れむような視線を向けると、片方の膝を持ち上げ、鞄を載せてごそごそと中を探り始めた。 


「ああ、あった、あった。こちらが前回吉澤様と交わしたご契約内容になります」

 そう言って一枚の紙っぺらを差し出してくる。


 ご契約内容 酒池肉林プラン+

 ご成約日 平成6年6月6日

 オプション 新生活応援セット,安心サポート

 お支払い方法 地獄行き500年一括(ポイントアップキャンペーン適用)


「吉澤様、ここがその地獄なのです。あと490年ほどお支払いの方が残っておりますので……」

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