44話 リーナの過去②
陽は、過去のリーナが急いで家に向かって走り出す姿を見て、その背中を追おうと一歩を踏み出した。
しかし、その瞬間、現在のリーナが陽の手をしっかりと掴んで止めた。
「リーナさん?どうして?」
陽が戸惑いの表情で問いかける。
リーナは小さく首を振り、陽の視線を避けるように下を向いた。
「これは…悲しい過去だから…」と囁くように言う。彼女の手は微かに震えていた。
「悲しい過去って…」陽は彼女の言葉に引っかかりを感じた。
(リーナさんの帰りが遅すぎて、弟さんと喧嘩でもしたのかな。そのまま仲直りできずに、異世界に来たもんだから、思い出すのが辛いのか…?)
彼女が言う悲しい過去が、どの様なものなのか、陽には想像もつかなかった。
だが、陽はそれ以上深く考えることをやめ、リーナの肩にそっと手を置いた。
「けど、リーナさん、俺たちがこの過去を見せられているのは、何か意味があるんだと思います。今の状況を打破するためにも、向き合わなきゃ。たとえそれが辛い記憶だったとしても、リーナさんが乗り越えられる為に、俺も力を貸しますから。」
陽の真剣な声に、リーナはほんの一瞬だけ目を伏せたまま動きを止めた。
しかし、表情を変えることなく、小さく頷くに留まる。
「行きましょう。足取りが重ければ、俺がリーナさんを抱えますから。」陽が優しく言うと、リーナはかすかに首を縦に振り、再び顔を上げた。
陽は、獣人化して獅子の耳と尻尾を揺らしながらリーナを軽々と抱え上げた。
「しっかり捕まっててください。」そう言うと、過去のリーナを追いかけて家に向かって駆け出した。
二人が家の近くまで来たとき、陽は突然足を止めた。鼻をひくひくと動かしながら、周囲の空気に異変を感じ取る。
「なんだ、この負のオーラ…」陽は眉をひそめ、不安げに辺りを見回した。
その時、不気味な笑みを浮かべる赤髪の男が、すれ違いざまに陽たちの前を通り過ぎた。
その男の瞳には異様な冷たさが宿り、身体からは見えない闇の波動が漂っている。
「……血の匂いがする。」
陽は、獣人化した嗅覚を活かして男を鋭く見つめた。
「しかも、あの男…リーナさんの家の方から来た…まさかっ!!」
陽はリーナを抱えたまま、再び駆け出した。負の気配と血の匂いに導かれるように、全力でリーナの家へと向かう。
過去のリーナを追い越し、陽はそのすぐ先にある家を目指していた。全力で走り抜け、家の前に到着するなりリーナを下ろすと、玄関のドアに向かってすり抜けるように飛び込んだ。
陽とリーナがリビングに足を踏み入れると、そこには赤い液体がじんわりと床に広がる光景があった。陽は目を見開き、愕然と立ち尽くした。
「ラケ……ル…?」陽の視界に映るのは、血だらけになり床に横たわる無惨なラケルの姿だった。そして、その隣にはぐしゃりと潰れたケーキの箱が転がっていた。
陽は呼吸を止めるほどの衝撃を受け、思わず後退るように足を引いた。
「そんな…リーナさんの悲しい過去って…」
陽の胸に湧き上がる動揺を押し殺すように、彼はリーナの表情を覗き込んだ。
「この事よ…。もう2年も経って心の整理をしたつもりだったけど、いざ目の当たりにするとダメね……。」
リーナはそう呟き、ただ目の前の光景に吸い込まれるように見つめている。それ以上、口を開くこともなく、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
「リーナさん…」陽はかすれた声で彼女を呼びかけた。しかし、リーナの瞳には焦点がなく、全ての感情が失われたように見えた。
その場の静寂は、血の匂いと共に、二人を容赦なく包み込んでいた。
次の瞬間ーーガチャン、と玄関のドアが勢いよく開いた音が響いた。
帰宅した、過去のリーナは荒い息をつきながら、急いで靴を脱ぎ、そのままリビングへと駆け込んだ。
「ただいまぁ!ラケル、遅くなって本当にごめっ…」
彼女の明るい声は、次の瞬間、止まった。
「ラケル…?これは…何…?……ラケル!!!!!」彼女の声が、驚愕と悲痛に満ちた叫びへと変わる。
床には血だまりの中で横たわるラケルの姿があった。過去のリーナは彼の元へ駆け寄り、その体を抱き上げた。彼の顔は青白く、血に濡れた服が重たそうに肌に張り付いている。
「ラケル!しっかりして!目を開けて…!!」過去のリーナの声は震えていた。
「ごめん…姉さん…」ラケルの声はか細く、途切れ途切れだった。「鍵…開けっぱなしにしちゃって…刺されちゃったみたいだ…ケーキも…グシャ…グシャ…」
ラケルの視線が横たわったケーキの箱に向けられる。その中身は潰れ、血の混じった跡が箱の外側にまで滲んでいた。
「ダメダメダメ…!話さないで…!」過去のリーナは涙を浮かべながらポケットから携帯を取り出し、震える指で救急車を呼ぼうとした。
その間にも、ラケルは震える手でポケットから小さな包みを取り出した。そして、それをリーナに差し出した。
「これ…姉さんに…」ラケルの手は血で濡れていたが、それでも小包みをしっかりと握りしめていた。過去のリーナはその小包みを受け取ると、泣きそうな表情のままラケルを見つめた。
「姉さん…誕生日…おめでとう。これ…ネックレス…一生懸命選んだんだ…きっと姉さんに似合うと思う…」
ラケルは弱々しく微笑みながら、彼の手がリーナの頬に触れた。その手には温かさがほとんど残っていなかったが、それでも優しさが込められているのが分かった。
「いや…。ラケル…私を一人にしないで…お願い…。死なないで…!」
大粒の涙が次々と頬を伝い、彼女の手は震えながら弟を揺り動かしていた。その涙はラケルの血に混じりながら床へと落ちていく。
「目を開けて…お願い…」声がかすれ、嗚咽で言葉にならなくなりながらも、リーナは必死にラケルに呼びかけ続けた。
「姉さん…俺…さ………」
ラケルの目がかすかに開き、かすれた声で言ったものの、途中で力ついた、ラケルの手が力なくリーナの頬から滑り落ち、そのまま地面に落ちた。
「いやぁ!!!!!!!」過去のリーナは叫び声をあげ、その場に崩れ落ちた。涙が止めどなく頬を伝い、彼女の体は震えていた。
その光景を見守っていた現在のリーナも、静かにその場に立ち尽くしていた。彼女の瞳から涙がこぼれ落ち、唇が震えていた。
陽は血だらけの光景とリーナの過去の悲痛な叫びを目の当たりにし、胸が締め付けられるような思いをしていた。
しかし、そんな陽の感情を余所に、過去の光景はそのまま淡々と続いていく。リーナの涙に濡れた顔が再び目に焼き付いた瞬間、陽は自分がここで何かしなければならないと気づいた。
陽はそっとリーナの肩に手を置き、静かに声をかけた。
「リーナさん、一度ここを出ましょう。」
リーナは放心したような表情で陽を見上げたが、何も言わずに頷いた。陽は彼女を抱き上げ、静かにその場を後にし、過去の光景の重さを背負いながら近くの公園に向かった。




