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シフォンケーキに生クリームを添えて


「さぁて、始めますか」


 シックな黒のコックコートに身を包んだ私は、システムキッチンの収納棚を前に思わず感嘆の声を漏らした。


「ーーわぁ!」


 収納棚は最新式のシステムキッチン奥の壁一面に埋め込まれており、扉は開閉しやすいスライド式になっている。


 その扉を開けると、ありとあらゆる食材や調味料は勿論、リキュールや紅茶の茶葉といった具合に、実に様々な物が世界各国から取り寄せられていたのだから無理もないだろう。


 そのどれもこれもが、一般には流通していない超一流の物ばかり。


 重量のある調理器具などが入れられている足元の棚には、メレンゲやホイップクリーム作りに重宝する最新式の卓上ミキサーまである。


 小道具やケーキなどに使う型に至っては、パティシエなら誰もが知っている、老舗の製菓道具店の物で揃えられていたのには驚かされた。


 ーーだからって、驚いてばかりもいられない。さぁ、仕事仕事!


 手始めにシフォンケーキの試作品作りに取りかかることにした。


 材料の準備を整え生地作りに取り掛かる前に、注意したいのが、アルミ製のシフォンケーキ型には何も塗らないでおく、ということだ。


 それだと型にケーキがくっついてしまうのでは、と心配になるかもしれないが、そうしないとちゃんと膨らまなかったり、ひっくり返して冷やすときに落下してしまったりするからだ。


 次は卵黄。卵黄は白っぽくなるまでしっかり混ぜておく。大事なのは色の変化と材料を入れるタイミング。それさえ守ればとても滑らかな生地になる。


 そしてメレンゲには水分や油分などが絶対に入らないようにすること。


 シフォンケーキ作りの基本を頭の中で唱えつつ、ボールの卵白に上白糖を全量の三分の一まで入れようとしていた矢先に事は起こった。


「フンッ、チビにも衣装で、ちゃんとパティシエールに見えるな。どれどれ」


 仕事に行く身支度を終えたらしい桜小路さんの気配を感じると同時に、私の耳に安定の無愛想で不遜な声が割り込んでくる。


 だがそれだけじゃない。


 あろうことか私の背後に立って、身体に寄り添うようにしてピッタリとくっついてきた。


 そして背後から顔の横すれすれの至近距離まで迫ってきてボールを覗き込んできたもんだからたまらない。


 何故なら、自慢じゃないが一度も交際経験がなく、男性に対しての免疫が一切備わっていないからだ。


 そんなことなど考えも及ばないのだろう。


 桜小路さんは、真っ赤になってあわあわしどうしの私に、とんでもない追い打ちをかけてきた。


「なんだ? 真っ赤になって固まって、まるで処女だな」


 ただでさえ真っ赤になっていたというのに、赤くなりすぎて火でも噴きそうだ。


 耐えかねた私が調理台に手を突いて、背後の桜小路さんに向けて頭突きを繰り出すと、確かな手応えがあった。我に返り恐る恐る振り返ると。


「ーーッ!?」


 桜小路さんは顎に手を当て、苦悶に満ちた表情で私のことを睨んできた。


おそらく顎にでもヒットしたのだろう。


 その数秒後、怒った声を張り上げた。


「なにすんだッ。痛いだろうがッ!」


 その声で、ありえない羞恥に襲われていたはずが、瞬時にどこかに吹き飛んでしまう。


 あたかもスイッチでも切り替わるように、無性に腹立たしくなってくる。


「処女なんて言うからですよッ! そうやって、二十歳過ぎて処女だとおかしいっていう、そんな偏見、持たない方が良いですよッ!」


 気づいたときには、言い逃げるようにしてキッチンから飛び出してしまっていた。


「おいっ! どこに行く気だッ?!」


 すぐに桜小路さんの声が追いかけてきて、逃げ出すと思われるのが癪で、私はヤケクソ気味に、「カメ吉ルーム!」と言い放っていた。


 そしてそのまま、カメ吉のために最適な湿度と温度管理がなされている、通称”カメ吉ルーム“に一目散に向かおうとしていた。けれどキッチンを出たところで菱沼さんと遭遇してしまう。


「おい、チビ、走るなッ!」

「すっ、すみません。カメ吉にエサあげてきます。行ってらっしゃい」


 お約束のようにまたまたお叱りを食らって、本日二度目のぺこりをしてから今度こそカメ吉ルームへと向かったのだった。


***


「カメ吉、ご飯の時間だよ」


 なんでも特注で作らせたという、カメ吉専用の浅くて広い水槽の中に再現された風光明媚な和風庭園。


 その中央にある大きな池の中に置かれた立派な青石の上で甲羅干しをしているカメ吉に、エサをあげながら……


 ――いくら余裕がなかったからって、さすがに頭突きはマズかったよね? 


 桜小路さんは、私が処女だと知らなかったんだし。口が悪いのは元々のようだし、別に悪気があって言った訳じゃないのだろう。


 それなのにあんなこと言っちゃって、処女だっていうのがバレバレだし。恥ずかしすぎる。


 ちゃんと謝らないといけない。そう思うのに、どんな顔をすればいいかも分からない。


 ――もうずいぶん時間も経つから、謝りたくても、きっともう出勤して居ないだろうし。時間が経つほど気まずくなるんだろうなぁ。どうしよう……。


 あーでもない、こーでもない、とウジウジしてた私の意識に、突如すーっと誰かの声が割り込んでくる。


【だったら、お詫びも兼ねて、とびきり美味しいシフォンケーキを作ってあげるといいわ】


 ――あーっ、そうだった! スイーツに目がないって言ってたし。いいかも。


 あ、でも、『紅茶の茶葉が入ったシフォンケーキが食べたい』って昨夜言われて、茶葉の種類を選ぶのに、好みを訊いても、『お前のセンスで自由に選んでみろ』そう言われて迷っていたのだ。


 昨夜の桜小路さんの言葉を思い返していると、またまた意識にすーっと誰かの声が割り入ってくる。


【ダージリンのセカンドフラッシュ(五月下旬~六月下旬にかけて収穫されたもの)なんてどうかしら。ホイップクリームには春らしく桜のリキュールなんか入れたりして】


 ――あっ、確かさっき見たような気がする。そうと決まれば、まずは試作だ!


 もうそのことで頭の中はいっぱいで、ウジウジしていたのなんてすっかり忘れ、私はキッチンへと駆けだしていた。


***


 現在の時刻、午後五時五六分。


 確か、会食や急用がなければ、だいたい六時過ぎには帰宅するとか言ってたから、もうすぐだ。


 試作品を作ろうと意気込んだはいいが、最新式のスチー厶オーブンレンジも小道具も材料も使ったことのないものばかり。


 どうなることかと少々心配だったけれど、シフォンケーキもうまく焼き上がったし、ホイップクリームも良い感じに仕上がりそうだ。


 ーーわぁ、良い香り~!


 さすがは紅茶の女王と呼ばれるダージリン。


 しかも味・コク・香りともに一年で最も充実した時期に収穫された、最高級品とされるセカンドフラッシュだけあって、口に入れたときの香りがなんともいえない。


 ――よしッ! これならいける。


 気合い充分に、二度目に焼き上がったシフォンケーキを冷ましている間、ふっくらと泡立てたホイップクリームに今度は桜のリキュールを加えて、無事完成。


 できたばかりのホイップクリームをひとさじ掬って口に含んでみる。


 すると、仄かな桜の香りが口の中でほわっと広がって、ほんのりと優しい甘さが包み込むようにしてあとから追いかけてくる。


 ――ムチャクチャ美味しい!


 ほっぺが落ちるとはまさにこのことだ。


 さっきまで純白だったホイップクリームがほんのりと薄桃色に色づいていて、とっても綺麗で癒やされる。


 勿論純白のホイップクリームも一緒に添える予定だ。そして最後にアクセントとしてミントの葉を添えて彩りよく。


 味の変化を楽しむこともできる、視覚的にも、味覚的にも、麗らかな春を思わせる、とびきりのシフォンケーキの完成だ。


 予想以上だったシフォンケーキの出来に、すっかり元気を取り戻していた私は、夕飯を作り終えて、後は桜小路さんの帰宅を待つばかりだった。


 部屋は勿論、浴室の掃除だってちゃんと済ませてある。


 ふとあることを思いついて、カットしてあった試作品をラッピングしていると、インターホンの軽快な音色が響き渡った。


 なんとかラッピングを済ませ、インターホンに対応するより先に玄関ホールへと向かう。


「お帰りなさい、お疲れ様でしたッ。運転手さんってまだ居ますよね?」

「……あっ、あぁ、たぶんな」

「おい、チビッ! どうした?」


「じゃぁっ、ちょっと行ってきますッ!」

「――て、おいっ!」

「おい、こら、チビッ! 創様が帰宅されたというのにどこへ行く気だッ!」


 しかし、あることで頭がいっぱいだった私は、桜小路さんと菱沼さんを迎え入れると同時に、エレベーターへと駆けだしていた。


 ――早く行かなきゃ、帰っちゃう!


 そんな思いに駆られていたため、周囲なんて全く見えてなどいなかったのだ。


 その甲斐あって、入れ違うことなく運転手さんに無事シフォンケーキを渡すことができたのだった。


 実は昨日、私が到着した車の中で話が違うとごねたため、迷惑をかけてしまっていたのに何も言えずじまいだったから、気になっていたのだ。


 当の運転手さんは、酷く驚いて恐縮しきりだったけれど、最後には笑顔で受け取ってくれて、ほっと一安心。


 戻ると、さぞかし怖い顔で待ち構えていると思っていた菱沼さんは、既に部屋の中に戻っているようだった。


 なのに、なぜか玄関ホールには仏頂面の桜小路さんの姿だけがあって、私はそのまま桜小路さんからお叱りを受けているところだ。


 まぁ、当然だろう。


「お前は猪かッ! 俺が機転を利かせて鮫島(運転手)に電話してやったから良かったもののッ」

「えっ? そうだったんですか? ありがとうございます。それから、今朝はすみませんでした」


 お叱りの途中で、ついうっかり口を滑らせたらしい桜小路さんが浮かべた、『あっ、ヤバい』っというような表情と、意外なはからいには驚かされたが、お陰で朝のことも謝ることができて、めでたしめでたし。


 ――もしかしたら、桜小路さんも気にしてくれていたのかな? だからひとりで待ってくれていたのかも。


 そう思っていたタイミングで、桜小路さんが何やらバツ悪そうにボソボソと呟く声が耳に届く。


「……あぁ、いや、あれは……俺も、悪かった」

「ーーッ!?」


 とても小さな声ではあったが、確かに謝ってもらって、吃驚した私は声を失ってしまっていた。


 どうやら本当に気にかけてくれていたようだ。


 無愛想で口が悪かったりするけれど、やっぱり悪い人ではないのかもしれない。


 まだ桜小路さんと同居したばかりで、知らない事だらけだけど、ただ面と向かって、そういうことを口にできないだけなのかも。


 まるでそれを裏付けるようにして、すぐに、全部払拭するかのように、安定の無愛想で不遜な桜小路さんの声が響き渡った。


「そ、それよりッ、シフォンケーキはできてるんだろうな?」

「もちろんですッ!」


 そうして現在、ダイニングチェアーに座った桜小路さんは、私が用意したとびきりのシフォンケーキと対峙しているところだ。


 テーブルの傍で立っている私は緊張感に襲われ、身体にくっつけた拳をぐっと強い力で握りしめた。



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