専属パティシエール初日
翌朝、張り切っていたせいか、アラームよりも一時間も早い五時前に起床した私は、五時一〇分には既に身支度も終えていた。
ドレッサーの鏡の前で、少し赤みがかった薄茶色のミディアムヘアを後ろでキュッと一纏めにひっつめて準備完了。
髪が長いと手入れも大変だし、短すぎても細かい作業の時に顔にかかったりして邪魔になる。肩につかないすれすれの、この長さに自然と落ち着いていた。
前日の仕事の疲れがどんなに残っていて、休みたいなぁ、と思っていても、こうして髪を束ねていると、不思議と気合いが入って、『さぁ今日も頑張るぞ!』という気持ちになれる。
五年前に亡くなた母も同じパティシエールだったため、毎朝、母がこうしていたのを見て育ったせいかもしれない。
気合いも充分に、慣れないシステムキッチンでなんとか朝食も作り終えた。
桜小路さんが起きてくるまでまだ少し時間もある。
今のうちに洗濯物を片付けてしまおうと、パウダールーム横のクリーンルームから洗濯カゴを抱えて出てきたところで、ばったりと、顔を洗いにやってきたらしい桜小路さんと鉢合わせた。
「おはようございますッ!」
「……あー。やけに張り切ってるな。うるさいぞ」
安定の無愛想さと口の悪さではあるが、寝起きでぼーっとした表情と、ちょこんと跳ねた髪とチェックのパジャマ姿がなんとも可愛らしい。
ーーイケメンは得だな。
「食事なら用意できてるので、先に洗濯物干してきますね。もどったらちゃんとコーヒーもドリップしますので。では」
朝からイケメンフェイスを拝ませてもらったことだし、何を言われても気にしない気にしない、と受け流して横を通り過ぎようとして。
「……お前、まさか、それをバルコニーに干すつもりなのか?」
「はい、そうですけど」
何故か驚いたような顔をした桜小路さんに足止めを食らっているところに、毎食一緒に食事をすることになっている菱沼さんが現れた。
「おい、こら、藤倉菜々子。ここは、タワーマンションの最上階だぞ。干せるわけないだろッ!」
「ーーあっ! そうでしたッ! うっかりしてました。乾燥機より、お日様の匂いがして気持ちいいと思って」
「うっかりしすぎだッ! それから、言い訳は聞きたくない。さっさと済ませろ」
「はいッ!」
挨拶する間もなく菱沼さんに開口一番、朝一でお叱りまで食らって、クリーンルームに向けてトボトボと歩きながら無意識に、菱沼さんの陰口を呟いてしまっていた。
「……ちょっと張り切りすぎてうっかりしてただけなのに、そんなに怒らなくても。目なんかキッとつり上げちゃって、本当に死神みたい」
すると背後から菱沼さんの冷ややかな声が追いかけてきて。
「おい、こら、チビッ! 誰が死神だって?」
振り返った先には、仁王立ちした菱沼さんの姿があった。
チビと呼ばれても反論できない一五五センチという小柄な私より遥かに高いところから見下されているその威圧感に、ヒャッと飛び上がりそうになるも、惚けるしかない。
「ーーッ!? な、何のことでしょう」
「惚けるな。確か、初対面の時にも言ってただろうが」
けれど当然、そんなの通用する訳もなく、菱沼さんは初対面の時のことまで持ち出してきた。
初対面のあの時、やっぱり全部口にしていたらしい。
ーーだったらその時に言ってくれれば良かったのに。
とは思っても、いくらうっかり者の私だってこの状況で口にするほどバカではない。
これ以上何かしでかしてもっと怒らせてはマズイ、と菱沼さんに慌ててぺこりと頭を下げる。
「すみませんでしたッ」
謝ってから、そそくさと逃げるようにしてクリーンルームへと舞い戻った。
だから私が居なくなった後の廊下で……
「ははっ、菱沼に面と向かって楯突くとはいい度胸だな」
「まぁ、確かに。母子家庭で育ったせいか、同世代の若い女より少しは骨がありそうではありますが、あの女狐に対抗するには、まだまだでしょうねぇ」
「ま、それも一週間、無事に乗り切れればの話だがな」
「創様、近頃は鼻炎のほうもすっかり落ち着いているせいか、『端から期待なんてしていなかったがな』なんて言いながら、ずいぶんと楽しそうですねぇ」
「いい暇つぶしになりそうだからなぁ」
「それはそれは良うございましたねぇ」
「フンッ、まぁな」
桜小路さんと菱沼さんが密かに私のことを話していたことなど知る由もなかった。
ちょうどその頃。クリーンルームにあるドラム式洗濯乾燥機に洗濯物を戻しながら、桜小路さんにこのあと作るよう言われていた、シフォンケーキに入れる紅茶の茶葉のことで、私の頭の中はいっぱいだった。