父であるなら
けれども、すぐに我に返ったらしいご当主が何故か恭平兄ちゃんの方に、何故だか同情するような眼差しを向けていた。
それに倣うようにして、他の皆も一斉に恭平兄ちゃんへと注目してしまっている。
当の恭平兄ちゃんはなにやら気まずそうな面持ちで。
「……だから言ったじゃないですか? 菜々子は俺のことなんか兄としてしか見てないって。これ以上傷口抉られたくないんで、もう店に戻っていいですか?」
この場にいる私を除く全員に向けて、ブスくれた様子で悪態をついていたようだったけれど、私はそれどころじゃなかった。
その間にも、恭平兄ちゃんの言葉に、皆が示し合わせたように一斉に。
「どうぞどうぞ」
そう言って、店へと向かう恭平兄ちゃんの背中をなにやら複雑そうな表情で見送っていた。
だがそれどころじゃなかった私は、そんなことにいちいち気を配っているような余裕なんてものも一切なかった。
なぜなら、今ここにいない創さんのことがどうにも気にかかっていたから。
そりゃ無理もないだろう。
私から身を引こうと決めた創さんは、もしかしなくても、私のことをキッパリと諦めて私の前から去る前に、最後の想い出にと、この夢のような一週間を私と過ごしていたに違いない。
そんなの気にならない訳がない。
否、現にもう既にいないのだ。
昨夜だって、海外出張に行くと言ってもいたし。
銀製のカトラリーのセットをくれた時なんて。
『菜々子には、幸せになって欲しいんだ。そんな願いを込めて用意したんだ。だから、遠慮なく受け取って欲しい。そして使うたびに俺のことを思い出して欲しいんだ』
あんなこと言ってたし。
――創さんは、私とはもう二度と逢わないつもりでいるんじゃないのかな?
今もこうしている間に、創さんがどこか遠くに行ってしまうんじゃないかって不安で押しつぶされてしまいそうだ。
「あのっ、創さんは!? 創さんは今どこにいるんですか!?」
だから、正面の長方形の座卓に両手をドンッとついて、ご当主に真正面から迫ったというのに。
「否、それは、創に口止めされていてね」
この期に及んでそんなことを言ってきた。
「この、分からず屋ッ! 私のことを人質にした創さんもどうかと思いますけど。元はといえば、創さんのことをずっと一人にしてしまってたご当主にも責任があるんじゃないですか?
もっと前からちゃんと色んなことを話し合っていれば、私の父親が道隆さんだって誤解することもなかっただろうし。創さんが自分を責めることもなかったんじゃないですか?
今だって、創さんのこと全部理解したつもりになって、意思を尊重してるつもりかもしれないですけど、子供が勘違いして間違った答え出したら、それを正してあげるのが親なんじゃないですか? こんなの放任主義でも何でもありませんよッ! ただの育児放棄ですッ! それでよくも父親だなんて言えますねッ!
自分が悪者になりたくないからって、奧さんと創さん、どっちにも良い顔して、面倒ごとから目を背けて、ちゃんと向き合ってこなかった結果なんじゃないですか? 頭下げるだけなら、カメ吉だってできますよッ!
こういう時に一番に頼れるのが家族じゃないなんて、あんまりですッ! もういいですッ! 菱沼さんに聞きますからッ!」
以前菱沼さんから聞かされてからずっと引っかかっていたことも、何もかもひっくるめて、ご当主に言いたいことを勢い任せにぶつけていた。
ーーこんなことしている場合じゃない!
いても立ってもいられなくなってしまった私は、とにかく創さんを探そうと立ち上がった。
そして廊下で控えてくれているだろう菱沼さんの元へ脚を進めかけた私の背中に、ご当主から声が放たれた。
「実は前々から、ロスにMBAの資格を取りに行きたいと言ってたんだけどね、アレルギーのこともあるし、ずっと踏み切れないでいたんだけど。この機会に、向こうで一人で頑張ってみるからって。帰国したら家にちゃんと戻るから、それまで待っていて欲しいって。午前一一時四五分発の便に乗る予定だと聞いてる。菜々子ちゃん、創のことをよろしく頼みます」
私の必死な想いが通じたのか、最後には頭を下げて、私に創さんのことを託してくださった。
ちょうどそこへ、私の声に気づいたらしい菱沼さんが襖の向こうからヒョッコリと顔を出す。
「お呼びでしょうか?」
「菱沼、菜々子ちゃんを創の元に送ってあげなさい」
「……否、しかし」
「これは当主である私の命令だ。さっさと行きなさいッ!」
「はっ、はいッ。畏まりました」
どうやらご当主同様、創さんから口止めされていたらしい菱沼さんは、どうしたものかと躊躇していたようだった。
けれど、さすがにご当主からの命令には背けなかったようだ。
ご当主の命を受けた菱沼さんの先導により私はパティスリー藤倉を後にした。
その直後、私は予想外なことに直面することとなる。
それは、羽田空港に向かうため、来たときと同じ黒塗りの高級車に乗り込んですぐのことだった。
運転手の鮫島さんが菱沼さんから事の経緯を聞いて、ハンドルを握りつつも感極まって啜り泣くなかで。
「創様のこと、どうか、よろしく頼む」
これまた来たとき同様、助手席に乗っている菱沼さんから創さんのことを託されただけでも驚きなのに。
「これは、お前のパスポートとロサンゼルス行きのチケットだ。……余計なことだとは思ったんだが、創様がどうにも不憫で。実は後でお前に渡そうと準備しておいたものだ」
「ーーえっ⁉」
「ゆくゆくは必要になると思って、念の為パスポートを用意してはあったが、まさか、こんな形で役に立つとはなぁ」
「……」
「創様からひとりで行くと聞かされた時には、どうなることかと案じていたが、どうやら創様の思い違いだったようだし。なにより、お前のお陰で、ご当主ともわだかまりが解けたようだし、本当によかった。お前では少々頼りない気もするが、創様は大変お喜びになるだろう」
「……」
私も一緒にロサンゼルスへ行くことが前提で、しかも安堵して涙ぐんでいるのか、僅かに声を震わせながら話を進める菱沼さんを前に、創さんのことを想って泣いてくれる人が周りにいてくれて良かったと安堵しつつも、私は唖然としてしまっていた。
けれどもそれも一瞬のことで。
――もうこうなったら、私のためにひとりで異国の地に旅立とうとしてくれた創さんのために、ロサンゼルスでもどこへでもついて行こうじゃないか。
こうして、うっかり者の私らしい、成り行きから覚悟を決めるに至った私の気持ちは、このとき既に、ロサンゼルスへと旅立っていたのだった。