父として
いつしか朝を迎えていたようだ。
いつも通りスマートフォンのアラーム音が『早く起きろ』と容赦なく急かしていたようだったけれど。
創さんと過ごした極甘のひとときのお陰で、身体は怠くて重いし眠いわで、どうやら私は寝惚けていたらしい。
無意識にアラームを解除し、創さんのあたたかな腕の中で、再び深い眠りの世界へ誘われていたようだ。
今度こそ目を覚ました私は、まだ気怠さの残る身体で、のろのろと起き上がった。
その時には、もう既に創さんの姿どころか、ぬくもりさえも残ってはいなかった。
微睡みのなかで、創さんが、
『じゃあ、行ってくる。元気でな』
そう言って私の額にそうっと触れるだけのキスを降らせてくれたような記憶がまだ微かに残っている。
けれどあまりに曖昧で、あれは夢だったのか現実だったのか……。
シーンと静まりかえった寝室の中をぼんやりと見渡していると、枕元に置いてあったスマートフォンの電子音が鳴り響いた。
その音にビクッと肩を跳ね上げた私の意識はそこで瞬時に覚醒する。
――ど、どうしよう。
朝食の準備どころか、しばらく逢えなくなっちゃうのに、創さんを見送ることもできなかったなんて、もう最悪だ。
目覚めると同時、自分のやらかしに落胆し、あんなに幸せモード全開でピンク一色だったのに、朝から気分は灰色一色だった。
そんな私のことなど知ったことかというように、着信を知らせるスマートフォンの電子音はやけにしつこく鳴り響いている。
――あっ、もしかして創さんかも。
慌てて引き寄せたスマホの画面に、自分で登録してあった『死神』という文字が見て取れた途端。
「なんだ菱沼さんかぁ」
ガッカリしてしまった私が悪態をつきつつも着信に応じたところ。
『やっと目を覚ましたようだな。一〇時に迎えに行く。それまでに準備しておけ』
腹の立つくらい落ち着き払った冷たい声で、監視カメラでも仕込んであるのか、と思うような鋭い指摘に動揺しつつも、時計を確認する。
菱沼さんに告げられた時間までもう三十分もない。
慌てて飛び起きて準備に奔走したのが功を奏し、五分ほど前にはお馴染みの、黒塗りの高級車の後部座席に乗り込むことができた。
なんとか間に合ったと、ふうと息を吐いて菱沼さんの声に耳を傾けていた。
菱沼さんの話によると、創さんは会社で諸々の用事を済ませてから、その脚で空港に向かうため私には同行できなかったようだ。
だから、私のことを菱沼さんに託してくれていたらしい。
パティスリー藤倉での父親との対面には、創さんの代わりに、伯母夫婦と恭平兄ちゃんが立ち会ってくれることになっているらしかった。
そうして今、パティスリー藤倉の居住スペースである和室にて、父親との対面を果たしているのだけれど。
どういう訳か、そこには、創さんの父親である創一郎さんの姿もあった。
それだけでも吃驚なのに、私が到着してからずっと沈痛な面持ちで背筋を正していた創一郎さんは、全員が揃うと同時、私の眼前で土下座してしまったのだ。
それだけじゃない。
畳に額をこれでもかというように擦りつけたままで謝罪の言葉を並べ立てた。
「今日は創の父として、愚息の不始末を詫びに参りました。創から聞きました。まさか、菜々子ちゃんのことを人質にしていたなんて。その上、身代わりにしようとしいたと、つい先程義兄からその旨を聞き、大変驚きました。呆れ果てて返す言葉もございません。この度は申し訳ございませんでした」
土下座なんてするものだから、一体何事だろうかと慄いていたのだけれど、どうやら創さんが私のことを人質にした件で謝ってくれているらしい。
けれども、どうやらそれだけではないようで、『身代わり』なんて言葉がご当主の口から飛び出してきた。
確かに、人質にされてはいたけれど、『身代わり』にされた覚えは一切ない。
「あのう、『身代わり』ってどういうことですか?」
疑問を口にした私の言葉に応えてくれたのは、これまで静観を貫いていた父親の方だった。
「創くんは誤解していたようだが。実は、君は僕の娘ではないんだよ。君の父親は、十五年前に亡くなった僕の弟でね。そのせいか、僕の娘の子供の頃に君がよく似ているんだよ。けどまさか、本当に身代わりにしようとしていたなんてね」
父親だったと思っていた人が実は父親のお兄さんで、父親は既に亡くなっているのだという。
それから、人質だけでなく、道隆さんの娘である『咲姫』さんの身代わりにまでされていたなんて……。
ちょうどそこへ、桜小路家へ挨拶に行った折、創さんの部屋で目にした道隆さんの娘さんである咲姫さんだと思われる、私によく似た女の子の写真が脳裏に浮かび上がってくるのだった。
立て続けに色んな情報が激流の如く流れ込んできて、ただでさえ収集がつかないのに、ショックを隠せないでいる私の頭の中はもうぐちゃぐちゃだ。
――なんだ。そういうことだったんだ。
創さんみたいに王子様のような素敵な人が平々凡々を絵に描いたような私のことを好きになってくれるなんて、おかしいと思ったんだ。
あの時、あの咲姫さんらしき、私によく似た女の子の写真を伏せたのは、そのことが私にバレてしまわないようにわざと隠しただけで、父親のことで気落ちしてしまってた私のことを気遣ってくれたからじゃなかったんだ。
それを自分のためだなんて勝手に思い込んじゃってたなんて。
――バカみたい。
この一週間、夢なんじゃないかってくらい、あんなに幸せだったのが嘘だったかのように、悲しみ一色に塗りつぶされてしまった、私の心の中はもはや真っ黒だ。
正座した膝の上で爪が食い込むほどに強く握りしめた拳が小刻みに震え始めて、そこへポトリと大粒の雫が落ちてきた。
――泣くもんか!
そう思って、ぐっと奥歯を噛みしめて踏ん張ろうとしても、それは留まるどころかドンドン降ってきて、まるで土砂降りのよう。
土砂降りのように雨粒の降り注ぐ絶望の中で佇んで濡れ鼠と化している私の耳に、今度は相変わらず沈痛の面持ちをしたご当主から声が届いた。
「確かに、最初は身代わりにするつもりだったらしい。だけど、『帝都ホテル』でパティシエールとして働いている菜々子ちゃんを見て、一目惚れしてしまったらしいんだ。それに気づいたのはちょうど一月ほど前のことだったらしいんだけど。菜々子ちゃんが従兄である恭平さんのことを好きだと気づいた後だったらしいんだ」
今度はなんだろうと思いつつそこまで聞いて、思いがけない言葉に突き当たってしまう。
――ん? ちょっ、ちょっと待って。
確かに、人質になれと言い渡された時、事故の前から知ってた風な口ぶりだったけど、一目惚れってどういうこと?
それから今、恭平兄ちゃんのことを私が好きだと気づいた後って、言わなかった?
それって、もしかしてあの時の誤解がまだ解けてなかったってこと?
土砂降りの如く降り注いでいた涙もピタッとやんで、私の頭の中にたくさんのクエスチョンマークが飛び交い始めた。
けれど、そんな私の心情など知る由もないご当主の話はまだ終わらない。
「色恋に疎い菜々子ちゃんの気持ちを混乱させるようなことをして悪かったって、創もひどく反省していてね。これ以上混乱させてはいけないからって、菜々子ちゃんのことはキッパリと諦めて、潔く身を引くことにしたらしいんだ」
ここまで聞いて、いくらうっかり者の私でも、ようやく合点がいった。
やっぱり創さんは、私が恭平兄ちゃんのことを好きだとずっと誤解したままだったんだ。
そのことで、色恋に疎い私が創さんのことを好きだと思い込み、それを自分のせいだと思い込んでしまった創さんは、私が恭平兄ちゃんのことを好きな気持ちに気づけるように、私のことを実家である、パティスリー藤倉に返すことにしたんだ。
心根の優しい創さんのことだから、おそらく、咲姫さんの身代わりにしようとした自分のことを責めてもいたのだろう。
そうしてそのことを父親から聞かされた私が幻滅するとでも思ったのかもしれない。
――何勘違いしちゃってるの? バカバカバカッ! 訊いてくれればよかったのに!
心の中で創さんに盛大な悪態をつきながらも、最近少し様子がおかしかった、創さんの言動の数々が次々に蘇ってきて。
――どうしてあの時、気づいてあげられなかったんだろう?
傍にいたのに。大好きな人のことなのに。
否、好きな人のことだからこそ、分からなくなったり、怖くて訊けないこともある。
だって、好きな人と一緒にいたら、緊張したり、舞い上がったりして、いつもいつも冷静でなんていられない。
そうだった私と同じように、創さんだって、そうだったから、こんなことになっているに違いない。
それだけ私のことを想ってくれていた、ということなんだろう。
――【どんなことがあっても創のことを信じてあげて欲しいの】
ちょうどそこへ不意に愛理さんに言われた言葉が浮かんできた。
おそらく、愛梨さんはそのことに気づいてたんだ。
ここにきて、愛梨さんの言葉に後押ししてもらうこととなった。
そこへまたまたご当主の声が割り込んできて。
「こんなこというと、親馬鹿だって思われるかもしれないし、身勝手な親だって思われるかもしれないけど。創は小さい頃から嘘のつけない不器用なところがある心根の優しい子でね。菜々子ちゃんへの気持ちは嘘じゃないってことだけは信じてやって欲しい。それから、菜々子ちゃんが幸せになれるよう心から願っているとも言って――」
このままだと、どこまでもどこまでも続いてしまいそうなご当主の話を黙って聞いていられなくなった私は、大きな声を放って、話の腰をぶった切っていた。
「ちょっと待ってくださいッ! 全部誤解ですッ! 確かに、私は恭平兄ちゃんのことは好きですけど。それは、本当のお兄ちゃんみたいに好きって意味です。ただそれだけです。私が好きになったのは後にも先にもただひとり、創さんだけです」
まさか、さっきまで泣いてた私がそんなことを言うとは思ってもいなかったのだろう。
ご当主を始め、道隆さん、伯母夫婦、恭平兄ちゃんもただただ呆然として、私のことを穴があくんじゃないかってくらい凝視したままでいる。