誤算まみれの恋情〜創視点〜
菜々子がやっと俺のことを好きだと自覚してくれて、全てがうまくいく、そう思い喜んでいられたのも、ほんの一瞬のことだった。
菜々子がまだ入院中だった頃、『パティスリー藤倉』に何度か出向いた。
歓迎ムードの伯母夫婦とは違い、その頃から俺は従兄によく思われてなかったように思う。
――けどまさか、二人が想いあっていたとはな。否、そんなに驚くことでもないか。
小さい頃から従姉の咲姫と姉弟のように育って、自然な成り行きで好きになってしまっていた。
自分がそうだったように、ごくごく自然なことだったんだろう。
今の今まで誰も好きになったことのなかった菜々子にしてみれば、先に好きだと自覚した俺への気持ちと、その直後に知ることになった、本当の気持ち――従兄への気持ちとに戸惑うのも無理はない。
物心ついた頃から今まで、従兄との間で築きあげてきたものを壊してしまうのが怖いという気持ちも理解できる。
俺だって、従姉を好きだったんだ。そういう気持ちは痛いほどよく分かる。
まぁ、俺の場合は、五歳で母親を亡くした寂しさを歳の離れた従姉に甘えることで補っていた、というのが正しいかもしれないが。
それでも、あの頃はそれなりに真剣だったと思う。
それまでの関係を壊すのが怖くて、長年好きだった従姉に、大学を卒業したら気持ちを伝えようと思っていたくらいだ。
結局は、伝える前に結婚が決まり、弟としてしか見てももらえず終いだった。
桜小路家のために政略結婚させられるというのに、相手の男にずっと片思いしていて、その結婚を心底喜んで嬉し涙を流す姿をただ眺めていることしかできなかった。
――だからこそ、菜々子のことはキッパリと諦めようと思ったのに、どうしてもできなかった。
一人に戻るのが怖かったっていう気持ちもあった。
だがそれより何より、菜々子への想いが膨らみすぎていて、どうしても手放すことができなかったのだ。
こんなはずじゃなかったのに、一体どこから間違ったっていうんだ?
否、もういい。今更済んだことを悔やんだところで何も変わらない。
菜々子が従兄への気持ちをどうして諦めようと思ったかは分からない。
色恋に疎い菜々子のことだから、もしかすると、ただ単純に、自分の本当の気持ちに気づいていないだけ、なのかもしれない。
どっちにしろ、俺の傍に居ることを選んでくれた。
今の時点では、従兄には敵わないかもしれないが、これからも傍に居れば、情だってわくだろう。
――いつか俺だけのことを好きになってくれるかもしれない。
そうは思っていたが、まさかこんなに早く受け入れてもらえるとは思わなかった。
昨夜は正直、自分の耳を疑ったけれど、自分の想いが少しでも伝わったんだとしたら、こんなにも悦ばしいことはない。
まだ一月ほどしか一緒には暮らしていないが、俺が少しずつ菜々子に惹かれていったように、菜々子もそうだったのかと思うと、それだけで胸を熱くした。
――短い期間だったがそういうモノを築くことができたんだから、これからだって少しずつ築きあげていけばいい。
そう思ったから、菜々子のことを自分のものにしたというのに。
今、俺の目の前に居るこの男は、俺から菜々子を引き離そうとしている。
さっき俺に言った言葉に嘘偽りがないというなら、自分の娘である菜々子のことを本当に心配しているのかもしれない。
……が、しかし、昨日の様子を見る限り、菜々子のことを案じているというよりも、己の保身しか頭にないとしか、俺には思えなかった。
それに加え、菜々子の存在を知り、子供の頃の咲姫に瓜二つだった菜々子の写真を見た、あの時。未だに咲姫への未練が燻り続けていた俺は、菜々子を身代わりにしようと企てたのも事実だ。
咲姫の名前を出されて、すぐに突き返せなかったのには、そういう後ろめたさがあったからだが。
――菜々子にこれ以上辛い想いをさせたくない。
という気持ちのほうが大半を占めていた。
「……フンッ、そんな昔のガキの頃の話をいつまでも持ち出されては困りますね」
「けど、君が咲姫のことを姉以上に慕っていたのは確かだろう?」
「まだいいますか? 埒が明きませんね。ハッキリ言っておきますが、あなたに何を言われようと耳を貸すつもりもないし。予定通り菜々子と結婚しますので、どうぞお引取りください。菱沼、お帰りだ」
「今日のところは引き下がるが、いい返事が聞けるまで何度でも伺うからね」
「何度ご足労頂いたところで、応じるつもりもないし、本人に会わせるつもりもないので、お好きなように」
「なら、好きにさせてもらうよ」
伯母の夫であり菜々子の父親であるあの男が見送りの菱沼を伴い、ようやく部屋から出ていった。
静けさを取り戻した執務室で溜息をついた俺は、初めて菜々子のことを目にした日のことを思い返していた。
***
元々俺は、伯父である道隆のことがあまり好きじゃなかった。
別にこれといった理由があった訳じゃない。
ただ、幼いなりにも、快く思われていないことを感じ取っていたんだろう。
別にそれは、俺だけに、という訳じゃない。
桜小路家の人間に対して、という意味だ。
恨む――まではいかないにしても、実家をもり立てるための駒として婿にならざるを得なかった自分に対しての歯痒さと、悔しさ、それらをいつか見返してやろうという反骨心からだったに違いない。
俺も男だからそういう気持ちは分かる。
そういう意味では、伯父に対して同情もしている。
俺だって、桜小路家の次期当主として、物心ついた頃から自分の意思に関係なく、ありとあらゆる英才教育を強いられてきたのだ。
まだ母親が元気だった頃は、嫌だと駄々をこねて、何度母親を困らせたか分からないくらい、嫌で嫌でしようがなかった。
母親が亡くなってからの俺にとっては、寂しさを紛らわせるのには、ちょうど良かったのかもしれない。
お陰で、以前のように嫌だなんて思わなかったし、負担に思ったことなどなかった。
気づいたら、代々続く先祖がそうしてきたように、親父の後を継いで
、次期当主になることが当然だと思うようになっていたし。
それがなによりも誇らしいことだと、思うようになってもいた。
それが、大人になって、桜小路グループの次期当主としての第一歩を歩むようになった途端に、腹違いの弟である創太を次期当主にと推す古参が事あるごとに邪魔をしてくるようになって。
そこで初めて、自分もただの駒にすぎないんだって、思い知らされた。
駒として、桜小路家に婿入りさせられた伯父の気持ちだって、以前より理解できるようになったように思う。
だからって、伯父の思い通りにさせる気なんて毛頭ない。
――俺は俺の力で、次期当主のポジションを勝ち取ってみせる。
そのためには、大きな反対勢力ーー伯父のことを抑え込んでおく必要があった。
それがすべての発端だ。
伯父のことを色々調べあげ、弱点である『藤倉菜々子』の存在に行き着き、菜々子のことを徹底的に調べ上げた。
初めて菜々子の写真を見た時には、腹違いの姉となる咲姫の子供の頃にそっくりで、驚くと同時に、ここまで似るもんなんだなと、感心させられもした。
――ずっと燻り続けていたこの想いを消化できるかもしれない。反対勢力も抑えられるし、一石二鳥だ。
偶然を装って近づく手立てはないものか。
頭には、いつしかそんな邪な考えが浮かんでいた。
ちょうど年が明けてすぐの頃だ。
なんとも絶妙なタイミングで、『帝都ホテル』がうちの傘下となることが正式に決定した。
俺にとってまたとないチャンスが舞い込んできたことになる。
そうして視察に出向いた際、パティシエールとしてラウンジで客にサービスを提供中の菜々子の姿を目にしたのが初見だ。
第一印象は、童顔な上に、思った以上に小柄だったため。
――まんま子供じゃないかよ。報告書には二十二歳なんて書いてはあるが、間違いじゃないのか。まさか、未成年じゃないだろうな。
こっちは休憩時間だが向こうは仕事中だし、不用意に近づいたりして、顔を覚えられてもマズイい。
そういう事情から、コーヒーだけを頼んで遠くの席から菜々子の姿を眺めていた俺は、傍に控えている菱沼に、思わず小声で訊き返したほどだ。
『おい、菱沼。あの女、まさか未成年じゃないよな?』
『ええ。名簿だけでなく戸籍なども確認しましたので、記載された年齢に間違いはないかと。それに、パティシエールになるには、最低でも二年は必要のようですし、未成年の者は雇ってはいないはずです』
『……そっ、そうだよな』
菱沼にもっともな言葉を返されてもまだ、半信半疑の心持ちで、手にしたカップを口に運びつつ。
――身代わりにするにしても、あれじゃそういう気も起こりそうにないなぁ。
幼く見える見た目と薄っぺらい書面で知り得た情報だけで、まだ何も知らない人物に対して、なんとも失礼極まりないことを考えていた、ちょうどその瞬間。
――ガッシャーーーーンッ!!
菜々子の居る辺りから、グラスか何かが割れる派手な音が響き渡った。
ーー何事だ?
音のした方に眼を向けると同時、菜々子がサービスを提供している、若い夫婦の子供と思しき幼い男児が「わーん」と泣き始めた。
どうやら菜々子の見せるサービスを間近で見ようと、夢中になったその子供がワゴンに触れてしまったらしい。
そのせいで、ワゴンの上に置いてあった食器が落下して、その音で驚いて泣いてしまったようだ。
見かけた時、こんなところに幼児を連れてくるのもどうかと思っていたが……。
そういえば、今日は一階にある大広間を貸し切って、政治家の子息かなんかの披露宴があると聞いていた。
正装の装いからして、おそらくその親族か何かだろう。
少々騒がしいのは子供だから仕方ないとして。
ーー怒るなら粗相した、自分の子供の方だろ。
そう思うのだが、両親はパティシエールである菜々子に向けて激しく怒り始めた。
お客様は神様、なんて言葉があるが、中にはこういう迷惑な客もいる。
運の悪いことに、難ありの客に当たってしまったらしい。
同情しつつ見守っているところに、騒ぎを聞きつけたラウンジの責任者が現れて客に平謝り。
菜々子も一緒に深々と頭を下げ続けている。
これで鎮まるだろう。
そう思われたのだが、急に何を思ったのか、責任者の男に耳打ちすると、ラウンジから走り去ってしまった菜々子。
――おいおい、職場放棄か?
そう呆れ果てていたところに、何かを手にした菜々子が戻ってきた。
そしてすぐにワゴンの上でフライパンを熱し始めた。
どうやらさっきのお詫びとして、スイーツを使ってさっきとは違ったサービスを提供するらしい。
今の今まで大泣きしていた男児もさっきまでの涙はなんだったのかと思うくらい大はしゃぎで、菜々子のサービスに目を輝かせている。
両親も子供が泣きやんだ途端、何もなかったかのように、すました顔で眺め始めた。
そんななか、見る間に、炎を燻らせてのド派手なフランベを決めると、最後には糸飴を降らせて完成させたようだった。
できあがったスイーツの容器を菜々子から受け取った男児は、得意満面で舌鼓を打ち始めて、ようやく一件落着。
責任者の男にペコペコ頭を下げて片付けの終わった菜々子が男児の傍に歩み寄っていく。
男児にカラフルなマカロンをプレゼントしていたようだ。
おそらく、さっきはけたときに用意していたのだろう。
距離が離れていたのもあり、詳細まで窺うことはできなかった。
だが、パティシエールの仕事を実に楽しそうに熟す姿は、生き生きとしていたし、誇らしげで、また微笑ましくもあった。
――本当にパティシエールという仕事が好きなんだなぁ。
そんなことを思いつつ、時間が来たため菱沼と仕事に戻ろうとちょうどワゴンを押していく菜々子の後をゆっくり歩いていると。
「おねーちゃん、待って」
「……あっ、はいッ!」
さっきの男児が追いかけてきたことに驚きながらも、菜々子は元気よく振り返って立ち止まった。
「さっきはごめんなさい。これ、さっきのお礼」
なにやら恥ずかしそうに男児が差し出したモノは、何かのカードのようだ。
「わぁ、いいの? ありがとう」
思いがけないプレゼントに、菜々子は心底嬉しそうに笑顔の華を綻ばせて受け取っていた。
それからしばらく男児と会話を交わしていた。
「ぼく、大きくなったらおねーちゃんみたいになりたい。弟子にしてください」
「……ええ!? や、嬉しいけど、まだまだ弟子なんてとれるほどじゃないから、ごめんなさい」
「じゃあ、彼女になってください」
「……ええッ!? あの、ありがとうございます。でも、それもちょっと、お気持ちだけ受け取っておきますね」
「やっぱり年が離れてるから?」
「……いや、あの、そういうんじゃなくて、一人前じゃないのでそういうのはまだ。本当にごめんなさいッ」
「そっか、わかった。じゃあね、バイバ~イ!」
「……バイバイ。はぁ、びっくりした」
その間、幼い子供相手に、どっちが子供だよ? と思わず突っ込みそうになるほど、無邪気な笑顔を綻ばせたり。
かと思えば、真っ赤になってオロオロしてみたり、いちいち真に受けて、真剣に答えていたりして。
でも幼児だからって適当にあしらったりせずに、対等に向き合う菜々子の姿に好感が持てたし、単純に凄いなと感心させられた。
諦めた男児の言葉に心底ホッとして、安堵した表情でいつまでも男児の背中を見守っていた。
その時の、菜々子の姿が今でも鮮明に脳裏に焼きついている。
きっと俺は、あの時から、何に対しても真剣で一生懸命な菜々子に惹かれていたんだろうと思う。
だからこそ、早期退職者の名簿の中に、菜々子の名前を見つけた時には、信じられずに己の目を疑ったくらいだ。
――見るからにパティシエールの仕事が好きで好きで堪らないって感じだったのに。自らから辞めるなんて一体どういうことだ?
何度目を凝らしてみても、名簿には間違いなく菜々子の氏名が記されている。
けれどどうしても合点がいかなかった。
――やむを得ない理由があるはずだ。
そうとしか思えなかったのだ。
リストラに関しては、あまり気乗りはしなかったが、経営の立て直しには必要不可欠だった。
これまで築き上げてきた信用を落とさないためにも、これまで同様のサービスの質を保ちつつ、尚且つコストを最小限に抑える必要があったからだ。
そのためにはまず、功績に関わりなく経営者一族だというだけで、自分の地位や名誉に胡座をかいて、甘い蜜を吸っていた名誉職や役員連中を筆頭に、長年年功序列を重んじてきた古い体質を改めなければならない。
そのためのリストラだったのだ。
比較的若い者は残して、定年間近の者を最優先に、桜小路グループの関連企業への再雇用を希望する者から早期退職者を募っていた。
――それなのに、どうして彼女が?
どうにも合点がいかず菱沼に調べさせてみたら、なるほどというか、お人好しというか、シングルマザーの先輩の代わりに退職を願い出たのだという。
正直、バカなのか? としか思えなかった。
まぁ、お陰で、菜々子のことを俺の専属パティシエールとして雇い入れることができたのだから、好都合だったのだが。
でもまさか、ハローワークに行く途中にあんな事故に遭うとは、つくづく運のない女だな、とも思った。
けれど、俺に目をつけられた時点で、そもそも運が尽きていたのかもしれない。
おそらく、としか言いようがないが、今の菜々子が、従兄を好きだという、自分の本当の気持ちに気づいてないんだとして。
もしもそのことに菜々子が気づいた時、一体どうなるんだろうな?
それ以前に、人質にされてるんだから、菜々子にはどうしようもないのか。
てことは、このまま菜々子とずっと一緒に居られるのか。だったらなんの問題もないじゃないか。
――運が悪かったな、諦めろ。でもこの俺が責任持って幸せにしてやるから、安心しろ。
それでいいじゃないか。
……そう思うのに、ちっとも嬉しくないのはどういう訳だ。
本当はどうしてかなんて、そんなこと、自分がよーく分かっている。
菜々子の身体は手に入れることができても、心まで手に入れることは、叶わなかったからだ。
それと、菜々子を人質にしてしまったことに対する罪悪感のせいだ。
生まれてからこれまで、『桜小路家の御曹司』なんて言われてきた俺の周りには、男女問わず、媚びへつらうヤツばっかりだった。
女に至っては、臭いとしか思えないような甘ったるい香水を撒き散らしながら、猫なで声ですり寄ってくる、損得勘定しかない尻の軽そうな女ばかり。
その度にアレルギー発作や蕁麻疹に苦しめられたのも一度や二度じゃない。
そういう女たちに触れられるのが嫌などころか、傍に来られるのも嫌だったくらいだ。
裏しかない女の存在自体がただただ不快でしかなかった。
気づいた時には、女を寄せ付けなくなっていた。
――なのにどうして菜々子は違ったんだ?
菜々子が傍に居てくれることで、心身共に安定していたからなのだろうか。
だったら、アレルギーだけが原因じゃなかったのかもしれない。
そうじゃなければ、菜々子が元々アレルギー体質でほとんど化粧していないからといっても、説明がつかない。
そう思うくらいに、菜々子と一緒に暮らすようになってからというもの、今まで当たり前だったことがことごとく覆されていった。
――もし今菜々子が居なくなったら、なんてことを想像しただけで、目の前が真っ暗になりそうだ。
想像もつかないし、今まで一体どうやっていたかすらも思い出せない。
否、違う。思い出したくないんだ。もう菜々子なしではいられなくなっている。
どうやら俺は菜々子のことを随分と好きになってしまっているらしい――。
菜々子を初めて見た日のことをぼんやりと思い返しているうち、人を好きになることが、どういうことかを思い知らされた。
「創様? どうかいたしましたか?」
「――あっ、いや、なんでもない」
そんなどうしようもない俺は、いつの間にか伯父の見送りから帰ってきていたらしい菱沼の声によって、思い通りにならない現実世界へと引き戻されたのだった。