思わぬアクシデント
どうしたのかと不思議に思った私が創さんを見やると、なにやら険しい表情をしていて、眉間には深い皺まで寄せている。
怒っているのだろうことは雰囲気からも窺える。
けれど、ついさっきまで菱沼さんとも普通に話していた。創さんが怒るような要因が見当たらない。私は首を傾げるしかなかった。
どうにも気にかかって、ここに来るまでの道中のことを振り返ってみても、原因がわからない。私がいよいよ考えるのを放棄しかけたところに。
「そんなに嬉しいか?」
創さんがボソッと耳に届かないぐらいの小さな呟きを落とした。
「……え? 何か言いましたか? 創さん?」
「あっ、いや、何でもない。行こうか」
「……はい」
結局、さっきの呟きがなんだったのかも教えてもらえないまま、私は創さんにエスコートされ、久々のパティスリー藤倉の住居スペースへと足を踏み入れたのだった。
菱沼さんはいつの間に用意していたのか、カメ吉の水槽ではなく、伯母夫婦への手土産を手にして私たちの背後に控えている。
手土産もそうだけど、『前々から段取りをつけていた』という創さんの言葉通り、どうやら私との結婚のことも私に人質を命じた頃あたりから、着々と準備は進められていたようだ。
おそらく、私の機嫌をとろうと、りんごのコンポートを用意してくれた、あの日あたりからだろう。
伯母夫婦や創さんの会話から察するに、その日から、創さんはこのパティスリー藤倉に毎日のように足繁く立ち寄っては、私の父親の居る桜小路家へ私を嫁がせることを渋っていたらしい伯母夫婦を根気強く説得していたのだという。
桜小路家に父親が居るといっても、住むところも別だし、創さんにとっては伯母の夫でしかない父親との関わりなんて、冠婚葬祭か仕事くらいのものだ。ということで、伯母夫婦は早々に折れてくれて。
『菜々子がいいというなら、私たちには止める権利なんてありません。菜々子のことをよろしくお願いします』
最後には、創さんにそう言って頭を下げ、私のことを託してくれたらしい。
私の知らないところで、そんなことがあったのかと、驚いたし。
私の意思を無視されたことには少々複雑な気持ちもあった。
けれども、創さんと両想いになった今となっては、どんなことでも、心温まるエピソードになってしまうのだから、不思議なものだ。
恋は盲目とはよくいうけれど、どうやらあれは、間違いではなかったらしい。
伯母夫婦に歓迎されて、これまでのことをあれこれ聞かされては、感激と照れくささで顔を赤らめつつ、創さんの隣で私は雲の上にでも居るんじゃないかと思うほどに、ふわふわと浮かれて、またもや夢見心地になっている。
そんな浮かれモードの私とテーブルを挟んだ正面の伯母と伯父の隣に位置する、やや右側には、どういうわけか、私たちが到着してからずっと、いつになくムスッと不機嫌そうな表情をしている恭平兄ちゃんの姿があった。
いつもは看板パティシエらしく、爽やかな好青年を絵に描いたような優しい笑顔がトレードマークのはずの、恭平兄ちゃんらしからぬ姿は、まるで出逢ってすぐの頃の創さんのようだ。
ーー一体どうしちゃったんだろう? 虫の居所でも悪いのかなぁ。もしかして体調でも悪かったりして。
藤倉家のリビングに、伯母夫婦と創さんの和気藹々とした談笑が飛び交うさなか、心配になってきた私が恭平兄ちゃんに向けて口を開きかけた刹那。
終始無言を貫いていた恭平兄ちゃんがいきなり立ち上がった、かと思えば、もう我慢ならないというように、
「ちょっと待てよッ!! 雇った若いパティシエールに手を出した挙げ句に、一月や二月で結婚なんて、そんなのいくらなんでも早すぎだろッ! こんな結婚認められるかッ!! 俺は断固反対だからなッ!」
ガタンッと椅子が派手な音を立てて倒れるのにも構わず、すごい剣幕で放った凄まじい怒号が飛び出した。
どうやら機嫌が悪かったのは、私と創さんとの結婚に反対していたからだったようだ。
伯母夫婦に祝福モード一色で出迎えてもらって、創さんとの結婚に向けてのあれこれを話していたのに、思わぬストップがかかった。
あんなに和やかだったはずの場の雰囲気は一変。
派手な音を立てて転倒した椅子もそのままに、なんとも重苦しい雰囲気が漂っている。
ふわふわと夢見心地だった私の心もたちまち急降下。ズシンと一気に地中深くに沈み込んでしまったかのよう。
そこに佐和子伯母さんのいつもの明るい笑い声と、朗らかな声音が響き渡った。
「もう、やだわぁ、恭平ったら。いくら妹同然の菜々子がお嫁に行くのが寂しいからって。そんなに目くじら立てないの。いつでも会えるんだから。ね?」
それに倣うようにして、恭一伯父さんも、できうる限りの明るい声音を放つ。
「そうだぞ、恭平。お前もいい大人なんだ。菜々子に先越されたからって、そんなに拗ねるなよ」
最後には、豪快に笑い飛ばしつつ、隣で仁王立ち状態の恭平兄ちゃんの背中をパシンと軽く叩いて宥めることで、なんとかこの場の空気を変えようとしてくれている。
ところが、恭平兄ちゃんは、怒った表情を緩めることなく。
「なんだよ、親父まで。最初はあんなに反対してたクセに、コロッと騙されやがって。菜々子もいくら色恋に疎いからって、騙されてんじゃねーよッ!」
さっきと同様の物凄い剣幕で捲し立ててくる。
その瞬間、私の頬に生ぬるいものが伝う感触がして。咄嗟に、指を宛がってはじめて、自分が泣いていることに気がついた。
すると、それを目の当たりにした恭平兄ちゃんがハッとしたような表情を一瞬だけ見せた。けれど。
「と、とにかく、俺は反対だからなッ!」
「おいッ! 恭平」
思い切るようにして声を放つと、恭一伯父さんの声も無視して、言い逃げるようにしてリビングから出て行ってしまったのだった。
これまでも時折、恭平兄ちゃんと父親である恭一伯父さんとは、男同士というのもあって、意見の食い違いや仕事のことなどで、対立することもままあった。
こんなこと一度や二度じゃない。
私が物心ついた頃から家族同然にここで育ってきて、幾度となく目にしてきた光景だ。
けれどそういう時には決まって、最後にはどちらかが折れたり、宥めたりして、仲直りしていたものだ。
でもさっきの様な態度は、その時のどれにも当てはまらない。
恭平兄ちゃんがあんなにも怒っている姿を見るのは初めてだった。
それになにより、私とは年が五つ離れていたこともあってか、恭平兄ちゃんはいつも優しくて、こんな風に私に対して怒ったことなど一度としてなかった。それなのに……。
だから驚くと同時に、ショックでならなかった。
物心ついた頃から、本当の兄妹のように育ってきた恭平兄ちゃんに、創さんとの結婚を反対されてしまったことで、私はかなりのダメージを受けてしまっていたようだ。
だからしばし心ここにあらずの状態に陥ってしまっていた。
「みっともないところをお見せしてしまって、すみません」
「……いえ」
「恭平もああ言った手前、今は何を言っても無駄でしょうし。ここは私たちに任せてください。ちゃんと説得しておきますので」
「……それでは、どうかよろしくお願いいたします」
「菜々子もそんな顔しないの」
「……うん」
伯母夫婦と創さんが話すのを尻目に、しばらく生返事を返すことしかできずにいたけれど。
「大丈夫か? 菜々子?」
「やっぱりちょっと話してきますッ」
ずっと涙で濡れた私の頬をハンカチでそうっと優しく拭ってくれていた隣の席の創さんから気遣ってもらって、そこでやっと我を取り戻した。
ーーこのままじゃいけない。
私はその一心で、恭平兄ちゃんの部屋へと駆けだしてしまう。
そこまではよかったが、恭平兄ちゃんの部屋のある二階へ行くため、階段を勢いよく一気に駆け上がったのがいけなかった。
うっかり者の私は、あと一段というところで足を踏み外してしまったのだ。
「うわぁ!?」
階段から真っ逆さまに落ちる、そう覚悟した私が瞼を閉ざした刹那。
「危ないッ!」
後を追ってきた創さんの腕に抱きとめられて、難を逃れることができた。
「おい、大丈夫か!?」
「……はっ、はい」
ホッとしているところに、創さん同様に後を追ってきていた佐和子伯母さんが現れて。
「もう、菜々子は相変わらずおっちょこちょいなんだからッ! 創さんが居てくれたから良かったけど。大怪我なんてしてたら愛子に顔向けできなくなるでしょう? 後は私達に任せて、菜々子は自分のことだけ心配してなさい!」
子供の頃以来じゃないかってくらいの大目玉を食らってしまう。
結局私は、恭平兄ちゃんとは話せないまま藤倉家をあとにすることとなった。