よく似た声音
到着したときには憂鬱でしかなかったけれど、創さんと両想いだと分かった途端に、こんなにも浮かれてしまうなんて、ゲンキンにもほどがある。
でも、人質にされた挙げ句の偽装結婚だったのが一八〇度違ったものになったんだから、そりゃ無理もないだろう。
軽い足取りで、広いお屋敷の廊下を菱沼さんの後に続いて歩いていると、何人かの使用人の人たちとすれ違った。
その中には、出迎えてくれた人もいたようだったし、すれ違うたびに、深々と頭を下げてくれるところを見ると、おそらく、私が創さんの婚約者なのだと認識してくれているのだろう。
――来月には、ほんとに創さんと結婚しちゃうんだ。なんか不思議な気分だなぁ。
暢気にそんなことを思いながら何の気なしに足を進めていた時のことだ。
「あぁ、菱沼さん。お疲れ様です」
不意に耳に流れ込んできたその声が創さんの声とそっくりだったため、驚きのあまり私は何もないところで、危うく躓きそうになった。
「キャッ」
それを免れた代わりに、菱沼さんの正面に現れた私と同年代らしきイケメンに抱き留められて事なきを得た私は、真っ赤になって縮こまって動けないでいる。
だって、創さんの声にそっくりだったせいで、創さんとのあれこれを思い出してしまったのだ。
「菜々子様、大丈夫でございますか?」
そんな私に、人目があるせいか、いつもの低くて冷たい声とは似ても似つかない、なんとも優しい声で気遣ってくれた菱沼さん。
その声で我に返り、イケメンの腕から慌てて飛び退いた。同時にブルッと震え上がった私の肌には、鳥肌が立ち始めた。
いつもは冷たい菱沼さんがあんまり優しい声で気遣ってくれるものだから、菱沼さんには失礼だけど、気色悪かったのだ。
そんな失礼なことを思っていると、そこに、イケメンから放たれた創さんとそっくりな声がまたまた聞こえてくる。
「あぁ、この方が兄さんの婚約者の方かぁ。へぇ、思い描いていたイメージと違ってたから驚いたけど。可愛らしい方だなぁ」
「……か、可愛らしいだなんて、そんな」
言われ慣れない褒め言葉がなんだか無性にくすぐったい。
照れまくっていると、突如ガッシャーンと派手な音がして、目を向けた先には、廊下の角を曲がったすぐのところで、割れた花瓶の残骸が床に飛び散っていた。
次の瞬間には、使用人の若い女性が大慌てで私の傍に居た菱沼さんに助けを求めてきて。
「菱沼さん、ちょっと手を貸してもらえませんか?」
「……いや、しかし」
菱沼さんは、どうしたものかと躊躇する様子を見せている。
どうやら私のことを気にかけてくれているらしい。
私は思わず声を放っていた。
「行ってあげてください」
「……そういう訳には」
それでも、仕事に関して並々ならぬ矜持を持っている菱沼さんは、相変わらず躊躇したままだ。
けれどその女性が破片で指を切ったらしく、それに気づいた菱沼さんは、慌てて駆け寄る姿が見て取れた。
――大丈夫かなぁ?
案じていた私の耳には、創さんとそっくりな声がまたまた流れ込んでくる。
「さっきから俺の声に驚いてばかりいるけど、そんなに兄さんの声に似てる?」
「……へ? あっ、はい」
『兄さん』と言ったこのイケメンが創さんの腹違いの弟・創太さんなんだとわかり、すぐに答えてみたものの。
確かに、創さんを少し幼くしたようなイケメンフェイスもよく似ているし、少し背が低いくらいで、見れば見るほど、背格好も雰囲気もよく似ている。
けれど、なんだかさっきまでと雰囲気も様子もまったく違って見えて、途端に怖くなってきた。
そんな私の恐怖心を煽るようにして、こちらにジリジリとにじり寄ってくる。そうして。
「ならさぁ、兄さんと俺と、どっちと相性がいいか試してみる? 案外俺の方が合ってるかもしれないよ?」
よく分からないことを言ってきた。
分からないなりにも、そのニュアンスからして、あまり良くないことだというのは、なんとなく理解できた。
「……え? いや、あの、ちょっ」
どうやら怖いとさっき感じた私の直感は当たっているらしい。
さっきまでの優しい甘さを含んだものとはまるで違った、鋭い棘を孕んだような厭らしいその声色に、菱沼さんの声に感じたものとは比較にならないくらいの嫌悪感が背筋を駆け巡った。
けれども、菱沼さんはまだ戻ってこない。
身の危険を感じてゆっくり後ずさりしている私の背中に、もう逃げ場がないことを知らしめるように、ひんやりとした壁の感触が伝わってくる。
菱沼さんの方に視線を向けても、ちょうど死角になっていて、物音しか聞こえない。
完全に逃げ場を失ってしまったようだ。
途端に、怖くて仕方なくなってくる。
思わずギュッと瞼を閉ざした、ちょうどその時。
「菜々子ッ!!」
大きな声で私の名前を叫ぶ創さんの声音が辺りに響き渡った。
驚いて目を見開いた先には、血相を変えた創さんが弟の創太さんの胸ぐらを引っ掴んで、今まさに拳を振り上げようとしている姿が見て取れる。
それと同時に。
「お前、どういうつもりだッ!」
「兄さん誤解だって。俺はただもうすぐお姉さんになる菜々子さんと仲良くなりたかっただけだって」
王子様然としたイケメンフェイスを般若のようにして激昂した創さんの怒号と、正反対のヘラヘラとした緊張感のない声で苦しい言い逃れをする創太さんの声とが、耳に飛び込んできた。
どうやら創さんは、創太さんの一切悪びれないどころか、馬鹿にしたようにヘラヘラとしているその態度に、余計苛ついて、殴ろうとしているようだ。
そう頭では理解できたものの、それをどうこうするような余裕など、今の私には微塵もなかった。
怖くて怖くてどうしようもなかった私は、創さんの姿を目にした刹那、ホッと安堵し、そのままストンとその場にしゃがみ込んでしまっていたのだ。
そうしたら、創太さんの胸ぐらを引き寄せて、今まさに拳を振り上げようとしていた創さんから、至極焦った声音が放たれて。
「菜々子ッ!?」
私の名前を言い終えないうちに、創太さんのことを思いっきり突き放すと、創さんは目にもとまらぬ早さで私の元へと駆け寄ってきてくれたのだった。
そうして床に崩れ込んでしまっている私のことを創さんは、ぎゅうっと自分の胸に抱き寄せると。
「菜々子ッ? おいッ! どうした? 大丈夫なのか? おいッ、菜々子ッ!」
放心してしまっている私に余裕なんて一切感じられない必死な声音で、何度も何度もそう言って声をかけてくれていた。
***
しばらく経って、放心していた私が我を取り戻した頃には、菱沼さんも戻っていて、さっきからずっと、創さんにペコペコと幾度となく頭を下げている。
あの時、創さんは、なかなか戻ってこない私のことが気になり、様子を見に戻る途中に偶然、私と創太さんの姿を目にし、慌てて駆けつけてくれたらしい。
それから、どうやら食事会は、ご当主の配慮によりお開きとなったようだった。
現在、私は一階の応接室の上質なソファに座した創さんによって膝枕されているところだ。
「私がついていながら申し訳ございませんでした」
「もういい。それより創太はどこだ?」
「……それが、急用ができたからと仰って、出かけられました」
「チッ。相変わらず逃げ足の速いヤツだな」
創さんと菱沼さんが創太さんのことを話している合間、私はといえば……。
急に雰囲気と口調が変わってしまった創太さんのことがあんなに怖くてどうしようもなかったクセに。
そんなことなどもうすっかり忘れて、両想いになったばかりの創さんの膝枕を堪能してしまっていたのだった。
どんな風に堪能していたかというと。
膝枕をしてくれている創さんは、まるで飼い猫を愛でるようにして、私の頭をそうっと優しく何度も何度も撫でてくれるものだから、心地よすぎて、ポーッと夢現状態となっていた。
その様子をテーブルの上に置かれた水槽から飽きもせずに眺めている愛梨さんから、絶え間のない黄色い悲鳴と届くことのない創一郎さんに向けての声とが、さっきからひっきりなしに飛んでくる。
「キャーッ! 菜々子ちゃんったら、創に膝枕されちゃって。すっかりラブラブで羨ましいわぁ! 私も創一郎さんに膝枕してもらいた~いッ!」
けれども、絶賛夢現状態にどっぷりと浸ってる私の耳には、悲しいかな一切届くことはなかった。
そんな有様だったので、まさか自分のワンピースのポケットに、いつから入っていたのか、携帯番号と思しき番号が走り書きされた紙切れが忍ばされていることなど、知る由もなかったのだ。