思いがけないこと
それは、ドアが全て開け放たれる寸前のことだ。
緊張マックスで膝の上でワンピースの生地をギュッと握ったまま固まっている私の手が、突如創さんの手によってふわりと優しく包み込まれた。
途端に、触れあっている創さんの大きな手からあたたかなぬくもりが伝わってくる。
ただそれだけのことなのに、創さんの優しさまでがぬくもりと一緒に伝わってくるようだ。
緊張感に支配されて凝り固まっていた心までが、あたかも雪解けのようにじわじわと解れてゆく。
極度の緊張感で押しつぶされそうだった胸までが、あたたかなもので満たされてゆく。
これもきっと、ご当主や周りの人の目を欺くためなんだろう。
そんなこと充分理解しているつもりだ。
それなのに……。
桜小路さんは尚も耳元で。
「当主なんて言っても、ただのハゲ親父だから安心しろ。俺が全部フォローする。お前は返事だけしていろ。ほら、分かったらさっさと前を向け」
いつも私のことを面白おかしく茶化す声で囁いてきて、最後には、顎で前を見ろと促してきた。
どれもこれも、全部全部、私が何かをやらかさないように、言葉同様にフォローしてくれているに過ぎない。
そんなの嫌ってくらい分かりきってることなのに……。
間際になって、不意打ちを食らってしまった私の胸は、またまたキュンと鳴っちゃうし、なにより心強くてとっても安心できる。
今の今まで自分の気持ちがよく分からなかったけれど、これはきっと、もう恋に堕ちちゃってるんだろう。
だって、好きという気持ちがどういうものか知りたくて、この前読んだ少女コミックのヒロインとまったく同じ反応だった。
そうじゃないと説明がつかない。
そう思った瞬間、正面のドアが開け放たれて。
「いやぁ、待たせてすまなかったねぇ」
落ち着きのある穏やかな声音でそう言いつつ現れた、ご当主らしき五十代のスラリと背の高い男性の姿(正確には頭)に、私の視線は釘付け状態だ。
何故なら、ご当主は創さんによく似た俗にいうイケオジで、ちっとも禿げてなどなかったからだ。
――ま、まさか、カツラ!? ええッ!?
ご当主が登場して数十秒ほどだったと思う。
ご当主が創さんと私の元にスタスタと歩み寄ってきて、私と対峙し両手を差し出してくるまでの間。
私はずーっとご当主の頭頂部ばかりに気をとられていた。
「藤倉菜々子さん、初めまして。創の父の創一郎です。どうぞよろしく」
「……」
そんな私は、ご当主に握手を求められても、ポカンとしたまま無反応という、なんとも失礼極まりない有様だ。
そこへすぐに、隣の創さんがここぞとばかりにフォローしてくれて、事なきを得たのだけれど……。
「こら、菜々子。俺と父親がよく似てるからって、そんなに見てたら妬けるだろ。もう、それぐらいにしておけ」
「創、そう拗ねなくてもいいじゃないか。嫉妬深い男は嫌われるぞ。ねぇ? 菜々子ちゃん」
「……へ!?」
「親父、菜々子に気安く触んないでほしいんだけど」
「ただの握手じゃないか、そう怒るな。いやぁ、それにしても安心したよ。創がようやく身を固める気になってくれて。それにその分だと、可愛い孫にもすぐに会えそうだしねぇ」
「……まだ顔合わせしたばかりだろ。あんまり急かさないでくれよ」
「ハハッ、分かった、分かった」
「……ほんとかよ」
天下の桜小路グループのご当主だから、もっとこう、とっつきにくくて、威厳のある怖い人なのかと思っていた。それなのに、そのイメージはものの見事に覆されてしまった。
ご当主がとても気さくな方で良かったけれど、あまりにも気さくすぎて、拍子抜けだ。
すぐに『ちゃん』付けで呼ぶところなんて、愛梨さんにそっくりだし。
突如浮上したカツラ疑惑が解決しないまま、ご当主にずっと熱烈な握手をお見舞いされてしまっている。
そればかりか、孫まで催促されるという猛攻撃に、私は真っ赤になって縮こまっていることしかできないでいる。
そこへ、ご当主の後に続いて入ってきていたらしい、奥様の菖蒲さんのツンとした声が会話に割り込むように響き渡った。
「創一郎さん。貴子お義姉様も道隆お義兄様も、もうお見えになってるようですし。そろそろ」
――どうやら、いよいよラスボスの登場のようだ。
そう思って、気を引き締めにかかった私の耳元には。
「言っとくがカツラじゃないぞ。正真正銘、地毛だ。ハゲる家系じゃないから安心しろ」
いつものからかい口調でそう言ってくるなり、創さんは、私だけに見えるように、したり顔をチラリと覗かせた。
さっきの、あの『ハゲ親父』発言は、私の緊張を解すためのものだったらしい。
創さんは、まんまと騙された私のビックリ眼を満足そうに見やると、素知らぬ顔で私のことをエスコートし、大広間に向かうご当主の後に続いたのだった。