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優しい甘さのコンポート

【どうしちゃったの? 菜々子ちゃん。今日はなんだかご機嫌斜めのようねぇ】

「べ、別に、そんなことないですよ。いつもと一緒です」

【ん~。そうは見えないわぁ。あっ! もしかして。昨夜、創とケンカでもしちゃったのかしらぁ】

「違いますッ! 私は愛梨さんと違って忙しいので、部屋の掃除に行ってきます。それじゃあ」

【あらあら、つれないのねぇ】


 翌朝、いつものように桜小路さんが出勤してからキッチンで食器の片付けをしていた私は、壁際のサイドボード上の水槽から話しかけてくる愛梨さんの言葉をのらりくらりとかわしていた。


 ……のだが、鋭い突っ込みにとうとう堪りかね、私は愛梨さんをキッチンに残して部屋の掃除に逃げることにしたところだ。


 相変わらず空気の読めない愛梨さんだったけれど、妙に勘だけはいいので参ってしまっていたのだ。


 昨夜は、桜小路さんがどんなことを仕掛けてくるか心配だったため、愛梨さんをカメ吉ルームに丁重にお連れしていたため、幸いにも愛梨さんには、あの場面は目撃されてはいない。


 でも勘が鋭い愛梨さんのことだ。いつ何時なんどき、ズバリ言い当てられないとも限らない。用心しなきゃ。


 ーーそうでなくとも、あの桜小路さんのお母様なんだから。


 何かあっても絶対息子である桜小路さんの味方に付くはずだ。


 そう思ったら、すっかり引っ込んで燻っていたはずの怒りが腹の底からぶわっとこみ上げてくる。


 それと一緒に、昨夜見た桜小路さんのイケメンフェイスが脳裏に鮮明に浮かび上がってきてしまう。


 たちまち私の顔から全身にかけてが火を噴くように熱くなってきた。


 原因は、昨夜の桜小路さんの自意識過剰な台詞にもあるけど、その直後から、桜小路さんがそれを有言実行してきたせいだ。


 昨夜、私が食事を摂っている間、桜小路さんはバスルームにいた。それからおおよそ二時間は別行動だったので顔を合わさずに済んだ。


 けれど私が食事とお風呂も済ませて寝室に戻ると、待ち構えていた桜小路さんは赤子の手をひねるように私のことを捕獲するとベッドへと引きずり込んだ。


 何かされるかもとは思ってはいたが、まさかそんなにすぐに行動に移してくるとは思いもしなかったのだ。


 寝室に戻った早々、ベッドで組み敷かれて呆気にとられて為す術なく見つめているところへ、あの黒い微笑を湛えた桜小路さんに耳たぶを擽るようにして寄せられた唇が鼓膜に熱い吐息を吹きかけてきた。


 そして私が背筋をゾクゾク戦慄させている間にも、


『免疫を付けるにはまずはスキンシップが重要だからなぁ。それに、いつもくっついていたら親近感も増すだろうし、免疫のないお前が俺のことを意識するにはもってこいの方法だ。おまけにお前の抱き心地は格別だから、抱き枕に丁度いい』


好き勝手に囁いてきた桜小路さんに何か言い返したくとも、耳に熱い息が掛かるせいか身体に力が入らない。



 それを知ってか知らずか、続けざまに、やっぱり耳に熱い吐息をかけつつ、


『なにより、お前からは仄かに甘い香りがするから癒やされる。でも、いくら甘い香りがするからって寝込みを襲わないようにしないとなぁ』


わざとらしく、なんとも意地の悪いことを囁かれ、どういうわけか下腹部の辺りがそわそわとするような妙な感覚がして、知らず私は身体をゾクゾクッと小刻みに打ち震わせた。


 そんな私の様子に満足げな表情を浮かべた桜小路さんは、耳元に顔を埋めたまま私のことを腕に包み込んで穏やかな寝息を立ててしまったのだった。


 お陰ですっかり目が冴えてしまいなかなか寝付くことができなかったのだ。


 ……といっても、寝付けなかったのは最初のうちだけで、おそらく一時間もしないうちに熟睡していたらしい。


 別に桜小路さんの腕の中の居心地が良かったからじゃなく、ただ人肌が心地良かったからに違いない。


 少々複雑だが、そのせいか意外にも朝の目覚めは頗る良かった。


 けれども桜小路さんにすっぽりと包み込まれている状態だったため、私は朝からあるアクシデントに見舞われてしまったために、前日の朝以上の羞恥に身悶えさせられてしまったのだ。


 それは、どうやら朝に弱いらしい桜小路さんに前日のように起きるのを阻止されてしまった時のこと。


「いいからもう少しだけ寝かせろ」

「いや、でも、朝食の準備に取りかからないと」

「別に、毎回朝から手の込んだモノを作らなくても、トーストだけで充分だ」

「ダメですッ! 菱沼さんに怒られちゃいますってばッ!」

「ーーッ!?」


 桜小路さんと押し問答しているうちに、手足をばたつかせていた私の身体を足に挟んで阻止しようとした桜小路さんの大事な部分を私が蹴り上げてしまい。桜小路さんは悶絶。私は真っ赤になって固まってしまっていた。


 男の人のアレが、朝はそういう風になるモノだという認識はあったものの、実際に触れたことなどなかったのだから無理もない。


 けれどもそれをしばらくして悶絶状態から脱した桜小路さんに、


「これくらいのことでそんなに真っ赤になってるようじゃ、まだまだだなぁ。でも、俺のことを意識するには効果は絶大だったかもなぁ。と言っても毎朝は勘弁してほしいがな」


はははっなんてえらく楽しそうに笑い飛ばしながら、面白おかしく揶揄われたもんだから、口からマグマでも噴いちゃうんじゃないかってほど、真っ赤かにさせられて、私は鼻血を噴いてしまったのだ。


 そりゃ機嫌も悪くなるってもんだ。


 とはいえ、こんなこと愛梨さんに話せないし、鬱憤は募っていくばかりだ。


「あーもう、ヤダー! 思い出したじゃんかー! あの、クソ御曹司ッ!」


 朝一の大失態を思い出してしまった私は、鬱憤をぶつけるようにして廊下をドスドスと音を立てつつ、進んでいったのだった。


***


 いつもより少し遅めの、午後六時四五分、インターフォンの軽快な音色がキッチン中に鳴り響いた。


 モニターを確認するまでもなく桜小路さんと菱沼さんだろう。


 けれどちゃんとモニター画面でふたりの姿を確認してから応対しようと、まずはすぐ傍の壁に設置されたモニター画面へと駆け寄った。


 これまではそれが面倒で、モニターの確認なんて省いていたのだが……。


 そのことを毎回菱沼さんから軽く注意されていただけだったのに、昨日は何故か桜小路さんからも、『一応女なんだから確認くらいしろ』とキツく言われていたため、致し方なく確認したのだった。


 すると画面には、いつもは菱沼さんの後ろに桜小路さんの姿があるだけのはずが、なにやら他にも数人の人影があるように見える。


 誰だろう? お客様かな? でも、何も言われてないから料理も私と桜小路さんの分しか用意してないんだけど。


 なんて思いつつ玄関の扉を開けると、ふたりの後ろには、それぞれに綺麗に包装された箱や紙袋を手にしたマンションのコンシェルジュらしき五人の男性が控えていた。


 どの箱や紙袋にも、ブランドに疎い私でも知っているお高そうな有名ハイブランドのロゴが記されている。


 五人の男性は私の姿を捉えるや否や、一斉に深々と頭を下げてくれている。


 扉の傍の私が一体何事だろうと目を瞬いている間に、菱沼さんの指示により入ってすぐの部屋に手早く全てを運び終えると、再度私たちに深々と頭を下げてからそそくさと帰ってしまったのだった。


 何がなにやら分からず様子を窺っていると、菱沼さんは何もなかったかのように、先を行く桜小路さんのビジネスバックを持って後に続いていて。


 出遅れた私がリビングダイニングに入ると、ふたりは明日のスケジュールの確認をし始めたところのようで、聞くに聞けなくなってしまう。


 気にかかりながらも、このままぼさっと突っ立っていても仕方ないので、自分の持ち場であるキッチンへと舞い戻り、コーヒーをドリップするための準備に取りかかった。


 スイーツに目のない桜小路さんは、コーヒーもお好きなようで、帰宅したら必ずコーヒーを飲むのがルーティンになっているからだ。


 私がリビングにコーヒーをお持ちした頃には、菱沼さんがソファからちょうど立ち上がったところだった。どうやらもう帰ってしまうらしい。



 訊くなら今しかない。そう思った私が、


「あのう、菱沼さん。さっきの人たちって、ここのコンシェルジュさんですよね?」


菱沼さんに遠慮気味に尋ねたのだが、意外にも答えてくれたのは桜小路さんのほうで。


「あぁ。俺がお前に似合いそうなのを見繕って用意した服を運んでもらったんだ。後で試着して、もしもサイズが合わないようなら菱沼に言っておけ」


 ソファにふんぞり返ってネクタイを気怠げに緩めていた桜小路さんから、さも当然のことのように、返ってきたのがこの言葉だったのだ。


 まさかそんな言葉が返されるとは思わず、面食らってしまった。


 桜小路さんが私に似合いそうな服を見繕ったとか言うんだから、そりゃ無理もない。


 ーーどうして? なんのために?


 私の頭の中には疑問ばかりがひっきりなしに飛び交っている。


「……私に、桜小路さんが、ですか?」


 前のめりになって二度見しながら、半信半疑に尋ね返した私のことが、どうやらお気に召さなかったらしい。


 私の声を耳にした途端に、桜小路さんは不機嫌そうに眉間に深い皺をいくつも寄せて、不遜な低い声で言い放った。


「聞こえてるんなら何度も同じ事を言わせるな。お前には学習能力ってもんがないのかッ!」


 そして忌々しげに緩めたネクタイを襟元から抜き取ると、すぐ横の背もたれにかけてあるジャケットの上へポイッと放り投げてしまった。


 その後は、腕を組んでそのまま不貞腐れたように明後日の方向に顔と視線を向けてしまっている。


 もうこれ以上何を言っても聞かないぞ。とでも言うように。


 おそらく仕事で疲れているのに、煩わしいヤツだとでも思われているんだろう。


 けれどこっちだってあんな高価そうなものを貰ってしまったら、益々桜小路さんの言いなりだ。


 私は怒鳴られるのを覚悟で、何も受け付けないという雰囲気を漂わせている桜小路さんにキッパリと言い放ったのだった。


「そんなの困ります。あんなにたくさん。それに、あんな高価そうなもの、あなたに貰うような謂れなんてありません」


 すると私の言葉を聞いた桜小路さんから、


「なんだとッ!」


案の定不機嫌極まりないというのを体現するかのような怒声が飛び出してきて。


 思わずビクッと肩を跳ね上げた私の様子に、意外にも僅かに躊躇するような素振りを見せた桜小路さんから、


「……あっ、いや。とにかく、そういうことだ。お前が要らないというなら、捨てればいい」


さっきよりはいくらか怒りを抑えた、安定の不機嫌で不遜な声が吐き捨てられた。


 それも意外だったけれど、そんなことよりも、『捨てればいい』といわれたからといって捨てられるわけがない。


「……そんなっ。捨てるなんてことできませんッ!」

「なら、着るしかないな。てことで、この話はもう終わりだ。俺は着替えてくる」


 けれど桜小路さんのこの言葉によって、異議を唱えようとした私は、呆気なく黙らされることになった。


 着替えるためにリビングダイニングから桜小路さんが出て行った直後。


「あの服のことだが。あれは、お前への詫びのつもりだったようだ」


 肩をガックリと落としていた私は、ずっと静観を貫いていて存在などすっかり忘れ去ってた菱沼さんから、意外なことを聞かされてしまい。


「――へ?」


 なんとも間抜けな声を出してしまっていた。


 菱沼さん曰く。


 なんでも今朝会社に向かう車中、桜小路さんから唐突に、『若い女の機嫌をとるにはどうしたらいいと思う?』そう尋ねられた菱沼さんは、『贈り物などどうですか?』そう返したらしいのだが。


 会社に到着するなり、私との契約書を見たいと言いだした桜小路さん。


 その直後、販売部門の責任者の元にわざわざ赴き、今流行の服の中からあれこれ見繕っていたというのだ。


 菱沼さんがそれとなくサイズを確認したところ、私と同じサイズだったのだという。


 そう聞かされても、あの桜小路さんがわざわざそんな面倒なことを自らするなんてこと、私はどうしても信じられずにいた。


 そんな私に菱沼さんは、これまた意外なことを言ってくるのだった。


「創様は、あー見えて、心根の優しいお方だ。けれどそれをうまく口にできないものだから誤解を招くんだ。昔から、そういう不器用なところがある。仕事では決してそんなことはないんだがな」


 その言葉を聞いた私は、これまで、濡れタオルを用意してくれたり、なんとか機嫌をとろうとしてくれたりしていた桜小路さんの姿を思い出し、そこでようやく腑に落ちた。


 同時に、今朝、鼻血を出してしまった私のことを慌てて抱き起こしてくれた時の、桜小路さんのやけに心配そうだった顔までが鮮明に蘇ってくる。


 あのとき、直前までケラケラ可笑しそうに揶揄われていたものだから、私はてっきりまた何かされるんだろうと思い込んでいた。


 否、それ以前にあまりの羞恥に身悶えていたんだから、もう一杯いっぱいだったのだ。


 それなのに……。


 いきなり背後から抱き起こされて桜小路さんとの距離がぐっと縮まってしまい、私は益々焦ってしまったのだ。


 だから起きるのを阻止されたとき同様、桜小路さんの腕の中で手足をばたつかせて脱出を試みた。その結果。


『こら、動くなッ!』


 途端に怖い顔になって、ぴしゃりと言い放った桜小路さんのその声に、私は思わずビクッと肩を震わせた。


 でもあれは、怖いと言うよりは、条件反射だったように思う。


 おそらく桜小路さんは、私が怖がっているとでも思ったのだろう。


 すぐに私の耳元で、なにやらバツ悪そうに、『怒って悪かった』と詫びてから、今度は思いの外優しい声音で、


『鼻血を止めるだけだからそんなに怯えるな』


諭すようにそう言われ、宥めるように頭を大きな掌でポンポンとされてしまい、私の胸は不覚にもトクンと高鳴ってしまうのだった。


 おそらくこの至近距離のせいで、極度の緊張状態だったところに、意表を突かれて心臓が誤作動でも起こしてしまったんだろう。……まぁ、それは今関係ないとして。


 それを皮切りに、私の心臓は忙しなく鼓動を打ち鳴らし始めて、やかましくて仕方なかったのは事実だ。


 そんな私の内情など露も知らないんだろう桜小路さんは、憎たらしいくらいに落ち着き払っていて。


 それがどうにも悔しくてならなかった。


 ――こっちの気も知らないで、いい気なもんだ。


 そう思ったのは今でもハッキリと覚えている。


 なのに、桜小路さんときたら、なんだか得意そうに、


『こういうときは身体を起こして、ここを暫く指で押さえているとおさまるんだ』


そう言ってくるなり、慣れた手つきで、私の鼻筋を摘まむようにグッと押さえると、そのまま鼻血が止まるまでずっとそうしてくれていた。


 なんでも小さい頃、桜小路さんはよく鼻血を出していたらしく、そのときには、お母様によくこうしてもらっていたのだという。


 どうしてそんなことを私が知っているかというと、それは私の鼻血が止まるまでの間、桜小路さんが話して聞かせてくれたからだ。


 そのことを話してくれていた桜小路さんの声は、今までで一番優しくてとても穏やかなものだった。


 その様子からも、桜小路さんにとっては、どんなに些細なことであっても、大好きなお母様との大切な想い出なんだろうことが窺えた。


 愛梨さんがカメ吉に転生してるなんて知ったら、さぞかし喜ぶに違いない。


 言ったところで、信じてくれる訳ないだろうし、下手したら事故のせいで頭が可笑しくなったと思われるのが関の山だろう。


 ――まぁ、知られても困るんだけど。


 何故なら桜小路さんに知られた時点で、愛梨さんは天に召されることになるらしいからだ。


 ……いつの間にやら愛梨さんの話題にすり替わってしまったけれど。


 兎にも角にも、桜小路さんは落ち着き払った様子で私の鼻を押さえてくれていたのだった。


 それに引き換え私は、桜小路さんの腕の中で、このままだと心臓がもたないんじゃないかという不安に駆られてしまっていたのだ。


 可笑しな事を心配していた自分のことは無視しておくとして。


 菱沼さんに聞かされた言葉を切っ掛けに、これまでのことや今朝の事を思い返した結果。


 もとを正せば、私が泣いたのも、機嫌を損ねたのも、そもそもの原因は桜小路さんにあるのだが……。


 菱沼さんの言うように、桜小路さんは無愛想で口が悪いところはあるが、確かに心根は優しい人なんだろうと思う。


 そうでなければ、いくら自分のせいだとはいえ、わざわざ私にフォローなんてしないだろうし。


 ――てことはやっぱり、キスの件と鼻血の件を桜小路さんが気にしてくれてたということなんだろう。


 そう思い至った途端に、胸の奥底からあたたかなものがどんどん溢れてきて、胸の内が満たされていくような、妙な感覚がするのはどうしてだろう。


 漸く菱沼さんの話と自分の導き出した結論とが一致したものの、今度は自分の不可解な心情に首を捻ることしかできないでいた。


 そんな私の正面にあるガラス張りのローテーブルの上には、何故か突如『パティスリー藤倉』の刻印がされたケーキボックスが現れた。


 そうして置いた当人である菱沼さんはほとほと疲れたように、


「どうやらこれも、お前に『貰う謂れがない』と言われて言い出せなくなったようだ」


ボソボソと呟いてから、ふうとわざとらしく溜息を零して、やれやれといった様子で再び口を開いた。


「いきなり何の前置きもなく、帰りにお前の伯母夫婦の店に寄れというので何かと思えば。これも、お前の機嫌をとるために、予め佐和子さんに連絡して、お前の好物を作ってもらっていたらしい」


 状況に思考が追いつかず、ポカンと開けた大口同様、大きく見開いた眼を忙しなく瞬いていた私は、またもや驚かされることとなった。


 私がポカンとしている間にも菱沼さんの話は進んでいく。


 あたかも私の心の奥底に芽吹いたたばかりの不可解な心情に狙いを定めて、追い打ちでもかけてくるかのように。


「この前、お前のことを人質だとは言ったが、創様はそんな事のためだけに、好きでもない女を傍に置くようなお方じゃない。少なくとも、お前のことをいたく気に入っておられるようだ」


 確か、桜小路さんもそんな風なことを言ってた気がする。


 ……てことは、本当に私のことを心配してくれているって言うこと?


 ーーいやいや、あれが気に入った相手にすることかなぁ?


 まぁ、ちょっと変わったところのある桜小路さんのことだから、あると言えばあるのかもだけど……。


 私があれこれ勘案しているところに、菱沼さんがボソッと零した呟きが聞こえてきて。


「お前のどこがいいのか俺には全くもって理解できないがなぁ」

「――ッ!?」


 その言葉に憤慨した私が、抗議の眼を向けてみるも、菱沼さんには通用しないどころか、フンと鼻を鳴らしてあしらわれてしまい、呆気なく敗北したのだった。


 それがどうにも悔しくて、盛大にむくれた私が菱沼さんにジト眼を送っていると、馬鹿にした表情から、なにやら愁いを帯びたような表情に切り替えた菱沼さんから嘆くような声が放たれた。


「まぁ、綺麗な想い出はそのまま大事にとっておきたいというお気持ちは分からないでもないがなぁ」

「……綺麗な思い出?」


 けれどもその言葉の指す意味が分からず、無意識に訊き返すも。


「あーいや、何でもない」


 一言で制された上に、立て続けに、


「ただお前には、創様のことを少し知っておいて貰わないと、色々と誤解を招くといけないからなぁ」


もっともらしいことを返されて、なんだか煙に巻かれたような気がしないでもない。


 けれどモヤモヤしている暇も与えられないまま、


「手短に話すから心して聞いておけ」


菱沼さんから命令が下されてしまい、私は反射的に背筋を正した。


 どうやら私の知らない桜小路さんのことを話してくれるらしいので、取り敢えずは菱沼さんの話に集中することにしたのだった。


 ――もっと桜小路さんのことを知りたい。


 どういう訳かその欲求に勝てなかったのだ。



「創様には、家庭の事情から人間不信な一面があって、気を許せる人間は限られている。仕事もプライベートも上辺だけの付き合いは日常茶飯事。そんな創様のことを憂いたご当主が、せめて結婚くらいは自由にさせようと、口を出さずにいるくらいだ。まぁ、体質のこともあるだろうがな」

「……そうなんですか?」

「あぁ。けれど継母である菖蒲様はそれを利用して、実子である創太様に、道隆様のご実家の現当主であるご令嬢との縁談を進めようとしているようだ。そうなれば両者にとっても大きな後ろ盾になるからな。といってもまだ大学生の創太様にもその気はないようだからいいが」


 菱沼さんの話によると、元々、そのご令嬢(私と同い年の二二歳)の方は桜小路さんに好意を寄せていたらしい。


 そのため、創太さんとの縁談には難色を示していて、うまく進められずにいるというのが現状のようだった。


 そのこともあり、菖蒲さんと桜小路さんとの溝は益々深まるばかりなのだという。


 それでなくとも、ご当主が菖蒲さんと再婚して以来、まだ幼かった桜小路さんのことを疎んじて、使用人任せにしていたこともあり、ふたりの折り合いは最悪なものらしい。


 そういう理由から、ご当主は桜小路さんのことを余計に案じておられて、仕事以外のプライベートにおいては一切口を挟むことはないらしい。


 放任主義といえば聞こえはいいが、桜小路さんの気持ちを思えば、なんともいたたまれない気持ちになった。


 お母様を亡くして寂しい上に、お父様まで取り上げられてしまったも同然なのだからーー。


 桜小路さんが無愛想で口が悪いのも、もしかすると、そのことが影響しているのかもしれない。


 ――否、きっとそうに違いないだろう。


 私も父親の存在を知らずに育ち、五年前に母親を亡くしてはいるが、優しい伯母夫婦の家族が傍で支えてくれたから、そんなにも寂しい想いをした記憶はない。


 裕福な家庭に育って、家族もいるのに、心の拠り所がペットのカメ吉だなんて、そんなの悲し過ぎる。


 話を聞いてるうちに、なんともやるせない心持ちになってしまってた私の耳に菱沼さんの声が届いた。


「お前が泣いてどうする?」


 その声で、自分が泣いていることに初めて気づいた私は、慌ててコックコートの袖で涙を拭い去った。


 同時に、なにやら感心したような表情を浮かべた菱沼さんから、呟くような声が聞こえて。


「お前のそういうところに惹かれたのかもしれないなぁ」


 その言葉があまりにも意外すぎて、さっきまで悲しかったはずなのに、感情も涙さえも霧散してしまうのだった。


 代わりに思いの外大きな声を放ってしまっていて。


「それってどういう意味ですか?」

「大きな声を出すな!」


 すぐに鬼のような形相で睨みつけてきた菱沼さんによって、ぴしゃりと言い放たれてしまうのだった。


「……あっ、すみません」


 そこで漸く、桜小路さんに聞かれては不味いことなんだと察し、ぺこりと頭を下げてみれば。


「いや、おそらく創様は気まずくてすぐには戻ってこないだろうから気にするな」


 意外にもさほど気にした風ではないようだった。


 ――それならあんなに怒ることなかったんじゃないか。


 ……とは思ったが、そこはぐっと堪えようとしていたところに、菱沼さんの盛大な溜息が聞こえてきて。間髪開けずに。


「灯台もと暗しとは言うが、鈍感にもほどがあるな」


 今度は、ほとほと呆れ果てたっていうのを体現するような呟きが投下された。


 その直後に、『やってられん』とかなんとかボソボソ零していたような気もするが、よくは聞こえなかったから定かじゃない。


 なにがなにやら訳が分からないものだから、私の頭の中にはたくさんの疑問符が飛び交っている。


 そんな中、菱沼さんが気を取り直すようにして、放ったのがこの言葉だった。


「とにかくだ。創様はお前のパティシエールとしての腕と、人に騙されやすいくらいお人好しなお前のことを信頼しているようだ。くれぐれもその信頼を裏切るようなことはしないでくれ」


 どうやらさっきの言葉の意味を説明してくれる気はなさそうだ。


 もうすっかり桜小路さんの執事兼秘書の仮面を被ってしまった菱沼さんは、なにやらちょっと悪巧みでもしているような黒い笑みを口元に湛えて。


「まぁ、ここは取り敢えず、仲直りのためにも、創様が選んでくださった服でも着て、一緒にそれでも食べてみることだなぁ」


 妙案でも提案するように得意げにそう言うと、「後は頼む」と言い残し、さっさと自分の部屋へと帰ってしまった。


 そうして菱沼さんと入れ替わるようにして、ラフな格好に着替えた桜小路さんがリビングダイニングに現れたのだが……。


「菱沼は帰ったのか?」

「……あぁ、はい。今さっき。何かご用でも」

「いや、別に」


 一言二言言葉を交わしたきり口を真一文字に閉ざしてしまい、ソファに腰を下ろした桜小路さんは、仕事用のタブレットに集中してしまうのだった。


 途端に重苦しい沈黙が辺り一帯を包み込んで、広い空間には非常に気まずい雰囲気が漂っている。


 今朝、鼻血を出してしまった私のことを気遣ってか、スイーツに関しての指示は、何も仰せつかってはいなかった。


 だから私の好物であるコンポートをお詫びの一つとしてチョイスしてくれたのだろう。


 そのため、夕飯の支度もとっくの昔にできている私には、これといって特にすることもなかったせいで、重苦しい静寂に支配されたキッチンで手持ちぶさたの私はひとり途方に暮れていた。


 ――この気まずい雰囲気、なんとかならないものだろうか。


 キッチンから遠目にチラチラと桜小路さんの様子を窺ってみるも。


 いつもの定位置であるソファで長い足を組んで、その上に置いたタブレットの画面をさっきから何度も指でスクロールしているだけ。


 ムスッと真一文字に引き結んでしまっている口元のせいで、安定の無愛想さにも拍車がかかっている。


 顔が整っているせいか余計に迫力が増していて、随分と不機嫌そうに見える。


 とてもじゃないが、話しかけられるような雰囲気じゃない。


 ――菱沼さんは簡単そうに言ってたけど、そんなにうまくいくんだろうか。


 桜小路さんが私のことを気にかけてくれていたと言っても、それはペットのカメ吉に向けるものと大差ないだろうしか思えなかった私は、ない頭で考えてみたところで他に方法なんて思いつくはずもなく、早々に考えることを諦めて、菱沼さんのアドバイスを決行することにしたのだった。


 そういうわけで……。


 現在私は、別室にて、桜小路さんが私のために見繕ってくれたという服を物色中である。


 服だけかと思いきや、桜小路さんとお揃いのチェック柄のパジャマまであって驚いた。


 まぁ、これから偽装結婚を装うのだから当然といえば当然か。


 ということは、もしかしたら、桜小路さんの結婚相手に相応しい服(備品)を私に支給するという思惑もあったのかもしれない。


 そう思い至った途端、何故かまた胸がツキンと痛んだ気がした。が、今はそんなことに構っているような暇はない。


 頭をふるふる振って邪念を振り払った私は服選びに集中したのだった。


 さすがはハイブランド。オシャレでセンスのいいものばかり。見るからに上質そうな生地の肌触りも、どれも最高だった。


 なんて感心しつつ、オシャレな服の中から、普段着として着られそうなモノをと思っていたが。


 どれも大人びたモノばかりで、一番無難だったのが、小花柄の如何にも清楚なお嬢様が好んで着そうな上品なデザインのワンピースだった。


 いつもラフなモノばかりで、スカートなんて滅多にはかないため、足元がスースーして心許なくて、なんとも落ち着かない。


 選んでくれた桜小路さんには悪いが、部屋にあった姿見を何度覗いてみても、どうしても自分に似合っているとは思えなかった。



 おそらく私に似合うとか関係なく、流行りのモノの中から、適当に見繕ったのだろう。


 ――きっとまた『馬子にも衣装だな』なんて言って揶揄われてしまうんだろうなぁ。


 それ以前に、もしかしたら、どんなモノを選んだかも覚えていないかもしれない。


 やっぱりちゃんとお礼を言わないと、気づいてもくれないかもなぁ。


 なんてことを思いながら、重い足取りでキッチンまで戻った私は、伯母特製のリンゴのコンポートをケーキボックスから取り出した。


 透明の容器に入ったシロップの中に、大きめにカットされたリンゴが浮かんでいる。


 これは売り物というわけではない。小さい頃、よくおやつとして食べていたものだ。


 といっても、私にはそんな記憶など残ってはいないのだが。


 母や伯母たちにことあるごとに聞かされた話によると。


 その頃、アトピー性皮膚炎だった私のことを心配した母や伯母たちができるだけ無添加のモノを食べさせようと、いつも手作りのモノを作ってくれていたらしい。


 けれど好き嫌いの激しかったらしい私は、他のモノにはめもくれず、こればかり好んで食べていたらしい。


 そんなこともあって、大きくなってからも、風邪等で食欲がなかったりしたときには、いつも決まってこれを作ってくれていたのだ。


 だからきっと、私の好きなモノと訊かれた伯母が真っ先にこれを思い浮かべたのだろう。

 

 五年前に病気で母を亡くした時にも、気落ちして食欲のなかった私のために伯母がよく作ってくれたのも、このリンゴのコンポートだ。


 桜小路さんにとって、シフォンケーキがそうであったように、私にとって、このリンゴのコンポートはとても思い入れのあるモノだった。


 帝都ホテルに就職して社員寮で一人暮らしを始めてからは一度も食べてはいなかったため、ひどく懐かしい。


 幼い頃の懐かしい記憶に想いを馳せてしまったせいで、亡くなった母のことを思い出してしまった私の頬をツーと生暖かなものが零れ落ちてゆく。


 その感触を手の甲でさっと拭い去った私は、容器に盛り付けたコンポートをトレーに乗せると、桜小路さんの元へと向かった。


 

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